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江戸幕府四百年史「疫病・虎狼薙(ころうな)について」

南蛮商人が持ち込んだのか虎狼薙とかいう疫病は江戸に留まらず瞬く間に日の本中に広まった。

虎狼薙とは南蛮人が疫病の名として読んでいた「ころな」に虎や狼のように勇ましい武人であっても倒れてしまうその症状の様子から字を当てられたものである。

各国の財政は疲弊しこれでは参勤交代もままならぬという切迫した状況であった。

これでは幕府の権威が危ないということで時の江戸幕府、58代目将軍徳川家狩は幕府が一部の資金を負担し、大名を再び江戸へ呼び寄せる「号東(ごうとう)の令」を発令した。

さてここに在られる宇和島藩藩主伊達宗輪もそれに乗じて江戸を目指す大名の1人であった。

しかし、そんな時世の中。各国の関所などで大名行列をひとめ見ようと集まる愚か者はどこにもおらず。地に平伏す町人たちで溢れかえった街道は見る影も無なし。

宗輪達が江戸についてみるとどうだろう。役人たちは陰陽師でも無いのに口元を妙な札で覆っている。

おかしな仏道でも流行しているのか。

思い起こせば尾張で立ち寄った寺などでは評判の寺小屋との噂であったが学童の1人もいなかった。

奥の院を覗いてみれば和尚がなにやら水晶に向かってぶつぶつと算学の話をしている。

あとから尋ねてみると霊網道(れいもうとう)とかいう妖術で寺小屋に集まることなく学業の手ほどきをしているとか。

この虎狼薙のせいで日の本の様子は一変してしまったのだ。

許すまじは諸外国、なぜ鎖国を強化しなかったのかと伊達宗輪は恐れ多くもその真意を将軍に尋ねることとした。

しかし、謁見は許されず会食も無し。その代わりに城内の様子を記した図と文が送られてきてそれを旅籠屋にて目を通しつつ食事を取る訳の分からない段取りが行われた。なんでも会食の代わりらしいがこれではこちらからの発言はできず図と文を鵜呑みにすることしか出来ない。

してこれは「図・鵜呑み(ず-むのみ)」と江戸の町人たちで流行の皮肉となるがそれはまた後の話である。

またこの話にもオチがなく。それはコロナにオチが付くのがこちらの世でもまた後の話だからである。



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