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20世紀ウイザード異聞【改稿】2-①

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・炎使いのユーリアン

 8月の空の下、ステファンはオーリとエレインの後にくっついて歩きながら、初めて見る大きな街に目を丸くしていた。
『カヴァンシーヒル』
 石畳の道を路面電車が通り、車が列をなして走り抜けていく。
 ステファンの家があったティルホップとも、オーリが住むリル・アレイともまるで違う。別世界に来たようだ。
「そんなにキョロキョロしてると、自分で田舎者ですと言ってるようなもんだよ」
 オーリはやれやれ、と疲れた顔をした。ステファンはまだ大人しくしているほうだが、エレインはさっきからしょっちゅう立ち止まっては、あれは何、これは何、といちいち説明を求めてくる。
 とうとうオーリは苦情を言いだした。
「もしもし守護者どの、君は自分の役目を忘れてるんじゃないのか? これじゃいつまでたってもユーリアンの家に着けやしない」
「なによ、だったらいつものように『飛んで』くれば良かったんだわ。そしたらこんな変な服着て変な被り物して汽車なんてバケモノに飲まれなくて済んだのに!」
 広い帽子のブリムを引き上げて、緑色の目がオーリを睨んだ。いつものヘソ出しではなく、長袖ブラウスに昔風の丈の長いスカートという姿だ。
「さすがに3人で『飛ぶ』のは無理だよ。それにこんな機会でもないと、エレインのお洒落した姿なんて見られないしね」
 オーリは眩しそうな目でエレインの手を取った。その手さえもレースの手袋で覆われている。竜人特有の青い紋様を隠すためとはいえ、さすがに窮屈だろうな、とステファンは同情した。
「ほら、あんまり遅いからユーリアンが迎えに出ている」

 同じような造りの二棟続き家が並ぶ一角で、褐色の青年が手を振っている。青年の腕には小さな女の子、隣には大きなお腹の女性が。どこにでも居る、普通の幸せそうな家族という感じだ。ローブを着ない時の魔法使いって本当に一般人と見分けがつかないな、とステファンは思った。
「あなたがステファンね? オーリから聞いてるわよ」
 お腹の大きな女性に微笑みかけられて、うわ本物の魔女だ、とステファンは緊張した。黒い服など着ていなくてもわかる。切れ長の目と肩までの艶やかな黒髪は美しいが、どこか油断のならない恐さがある。
「順調そうでなによりだ、トーニャ。次も女の子なら、ユーリアンの立場はますます弱くなるな」
「その通り!」
 快活に笑いながらユーリアンは3人を招き入れた。
「トーニャはオーリのいとこなのよ。この前の手紙でしゃべってた魔女の娘」
 エレインに耳打ちされて、ああそうか、とステファンは思い出した。オーリあてに届いた魔女の手紙。『虚像伝言』で見た、威圧感たっぷりの魔女はオーリですら恐れていた。あの魔女の娘――どうりで恐いはずだ。

 ユーリアンに案内されて向かった先は客間ではなく、風が吹き抜けるダイニングだった。
「会えて嬉しいよ、ステファン。なるほど、オスカーの面影があるな……」
 黒々とした大きな目を向けられて、ステファンは圧倒された。オーリの目も時として怖いほどの力を感じるが、この黒い目は、オーリとはまた違った強い光を宿している。魔法使いというものは皆、彼らのように強い目をしているのだろうか。
「彼はユーリアン・ナガルジュカ、オスカーとの共通の友人で、建築士だ。うちのアトリエは彼の設計だよ」
「そうそう、こだわりの強い誰かさんの注文には苦労したんだぜ」
「ステフ、このおじさんの背景には何が見える?」
「おい、おじさんって! そりゃ僕は二人の子持ちだけどさ。オーリより若く見える自信はあるぞ」
 冗談を言い合う二人を前に、ステファンはつぶやいた。
「岩と……炎。それとも火山?」
 ユーリアンが真顔になった。
「驚いたな! 確かに僕は炎使いだしルーツは火山島だが、そこまで言い当てたやつは初めてだぞ。この子の目はオスカー譲りか?」
「たぶんね。いや、彼以上かも知れない」

 戸惑うステファンをよそに、大人達は談笑を始めた。
 だがバラの香を運ぶ涼しい風も、トーニャが出してくれたジンジャエイルも、今のステファンにはちっとも楽しめない。配給茶葉をどう節約するとか、トーニャのベビーがいつ生まれるかとか、エレインのスカート姿がどうしたとか、そんなことはどうだっていい。
――さっさと辞書のことを聞けばいいのに。
オスカーの手紙の謎を解きに来たんじゃなかったのか――
 じりじりしながらうつむくステファンの手に、ふいに柔らかいものが触れた。ユーリアンの小さい娘、アーニャの手だ。父親似の黒ぐろとした真ん丸い目を向けて、舌っ足らずの言葉で呼びかける。
「あとぼー(遊ぼう)!」

 大人達の会話は今や、エレインに化粧をさせるかどうかというくだらない話題で盛り上がっていた。
「トーニャ、うちの守護者には人間の価値観を押し付けないでくれないか……おや」
 庭に目を向けると、アーニャに手を引かれたステファンが、どうしてよいかわからずうろたえている。
 くくっと笑ってオーリはエレインに耳打ちした。
「了解、靴脱いでいい?」
 答えを待つ間もなくエレインは靴を放りだしていた。
「ま、待てエレイン! 何も裸足になれとは、おいっ」
 だがオーリが焦って止める間にも、手袋と靴下までがポイポイと宙を舞う。いくら夏とはいえ、他人の家で女性が脚をさらすなど、もっての外だ。「はしたないって言うつもり? エレインには人間の価値観を押し付けないんじゃなかった?」
 トーニャは面白そうにオーリの表情を眺めている。
 エレインはといえば裸足で庭に駆け出し、高々とスカートをたくし上げながらアーニャと追いかけっこを始めてしまった。
「ステーフ! ぼんやりしてないで一緒に遊ぶよ、ほらっ」
 エレインに急きたてられて、ようやくステファンも追いかけっこに加わる。
 ユーリアンはさっきから笑いすぎてティーカップをひっくり返しそうだ。「ま、いいんじゃないか? 裏庭なら通りから見えないし。あれだけあっけらかんと脚を出すんなら、こっちも気を使わずにおくさ」
 ひとり、オーリだけが顔を赤くして頭を抱えている。
「面目ない。まったくうちの守護者は大人なんだか子供なんだか……」
「童心だよオーリ『童心』。僕らの師匠が一番重んじたことだろ? エレインには充分それが残ってるってことさ」 
「だから困るんだよ」
 オーリはぼそりとつぶやいた。  

「それよりあなた達、例の『からくり箱』のこと。何か対策は考えてるの? 来年から竜人と同居する条件が厳しくなるわよ」
 トーニャが声をひそめた。
「ああ、手紙で忠告してくれたおかげで手は打ってる。エレインともいろいろ議論してるよ」
「しかし『からくり箱』とはよく言ったもんだよな。一見なんの変哲もない箱の中に隠し箱があるように、表向きは『いない』ことになっている竜や竜人を、裏では管理する制度が出来てる。うぇーたいしたもんだ、この国は」
 茶化すようなユーリアンにかまわず、オーリは苦々しい顔をした。
「『人間以外のヒトはこれを認めず、野蛮かつ希少な種として隔離の上保護する』だと。ばかばかしい、なにが『保護』だ。要するに竜人を管理区に閉じ込めて都合の良いときだけ使役しようってわけだろう。もともと人間と竜人は対等なはずなのに。それに野蛮な戦いをしかけたのはむしろ人間のほうだろう!」
「落ち着けオーリ。箱の中に箱、車輪の中に車輪、人形の中にまた人形。この世のくそったれな矛盾は巨大モンスターよりたちが悪い。お前がここで憤慨してても何も変わらないぞ」
「わかってるさ! 僕らだっておおやけには認められてないのに、結局は魔法管理機構なんてからくりに縛られてるんだ。ああ、魔法使いなんて無力なもんだ。いいように振り回されて、何も意見できやしない」
 オーリは腹立ち紛れなのか癖なのか、テーブルの隅にあった紙にぐしゃぐしゃを描いている。ユーリアンはそれを目で追いながら思い出すように言った。
「他の奴らはどうしてるのかな。屈強な竜人と契約している魔法使いは多いから、皆なにかの抜け道を考えているだろうけど。確か、一定の職業に就いて届け出ればいいんじゃなかったっけ」
「でも守護者は『職業』としてどうなのかしら。魔法使いがおおやけ認められていないんだから、その守護者というのも有り得ない、と言われたら」
「ガルバイヤン家全体の守護者、ってのはどうだ?」
「いいよ。職業なんて適当にみつくろって書類をでっちあげる。それより問題はエレインのほうだ。彼女は子どもみたいに真っ直ぐで、表裏がなさすぎる。人間のややこしい事情なんて、ましてからくり箱なんて、何度説明してもわかってくれないんだ。届け出るときにはいろいろ聞かれるだろうから……困ったな」
「なあオーリ」
 ユーリアンは大きな瞳でじっとオーリの表情を伺いながら言った。
「いっそ、結婚しちまえば?」

 ポトリ。
 オーリの手からペンが落ちて転がる。
 石像のように固まったまま、その顔がみるみる赤くなる。
「な、な、なにを急に……なんでそんな話に」
「急に、じゃないだろうが。異種婚が法的にはどうなるか知らんが、考えたことくらいあるだろう」
「ばかな! そんなつもりで契約したんじゃない!」
 今や耳まで真っ赤になったオーリは、立ち上がって机を叩いた。
「ひと目惚れだったくせに」
 ユーリアンは落ち着き払って、心を見透かすような口ぶりでいる。
「いいかオーリ、覚悟を決めろ。エレインを守るためなら手段を尽くせ」「そんな……無茶いうな」
 オーリは力なく椅子に座った。
「それこそ、エレインには理解しがたい話だ。いいか、竜人フィスス族を滅ぼしたのは人間だぞ。彼女は生き残った最後の一人だ。守護者契約を申し入れるだけで大変だったんだから。それにあの一族は、普段は母親集団と父親集団が離れて暮らしてたんだ。『結婚』なんて考え方はもともと無い。ましてエレインは巫女みたいな育てられ方してたから……」
「何を言ってるんだか。どうして魔法使いってそういう考え方をするのかしら」
 トーニャは冷ややかに言って新しいお茶を注いだ。
「仮にエレインが理解したとして。身分を保証するための結婚、なんて誇り高い彼女が納得すると思う?」
「……どうすればいいんだ?」
「自分で考えなさい。まったくいい年をして手のかかる子」
 すまし顔でカップを口に運ぶ従姉を、オーリはまだ赤い顔のまま睨んだ。

「二人ともストップ。人間の子どもは暑さに弱いんだったね。帽子をもってきてあげる」
 エレインは汗を浮かべた前髪を跳ね上げると、家の中に戻って行った。 
 8月も終わりとはいえ、日中はやはり暑い。小さいアーニャは追いかけっこに飽きたのか、涼しい生垣の下にしゃがみこんで花びらを拾い始めた。「あん、とぅー、ぴー、ぽぉー」
 数を数えているのか、それとも呪文のつもりなのか。小さい指が動く度、花びらが生きもののように舞い上がる。この子は家の中でこんな遊びをしても、叱られたことなんか無いんだろうな、そうぼんやり思いながら、ステファンも無意識に花びらを捕まえた。
「だぁーっめ! め!」
 急にアーニャが立ち上がり、ドンとステファンを突いた。
「な、なんだよ」
「め! アーニャがしゅゆ(する)の!」
 口を尖らせて小さな指を振ると、つむじ風のように花びらが舞う。
 ステファンは鼻の頭にシワを寄せた。――この魔法を使えるのは自分だけって言いたいのか。生意気なチビだ。さっきちょっとでも可愛いなんて思って損した。
「ステフ、ちょっと入って。オーリが呼んでる」
 エレインの声に救われた。あと5分、このチビ魔女の子守をさせられていたら、ほっぺたをつねるくらいはしていたかもしれない。

 ダイニングではオーリが落ち着き無く歩き回っていた。トーニャもユーリアンも、懸命に笑いをこらえているのがわかる。ステファンは小声でエレインに訊ねてみた。
「ね、先生どうかしちゃったの?」
「知らない。さっきからああなんだもん。熱いお茶でも飲みすぎたんじゃない?」
 さっぱりわからないというふうに肩をすくめて、エレインはアーニャの帽子を取って再び庭へ出た。

「あー、ステファン、待たせて悪い。我々の本来の目的を果たすとしよう」
 改まった公用語口調になっているオーリの頬は少し赤い。なるほどエレインの言うとおりかも、と思いながら、ステファンはテーブルに目を留めた。あの『忘却の辞書』が置かれている。
「保管庫の中で見たことを、私たちにも話してくれる? どんな小さなことでもいいから」
 トーニャの声は優しいが、目は油断なくステファンを観察している。
 こんな目で見られるのはあまりいい気分ではないし、正直言って、保管庫のことはあんまり思い出したくない。けれどオスカーの手掛かりを少しでも見つけるためだ。ステファンはとつとつと語り始めた。
 ステファンが語り、オーリが話の合間に補足をする。トーニャは二人から目を離さないままでメモを取っている。手だけが別の生き物のように動くさまは、オーリが羽根ペンで絵を描く時と似ている。
「面白い?」
 ステファンが不思議そうに手元を見ているのに気付いたのか、トーニャはペンを止めて微笑んだ。
「トーニャは魔女出版の記者なんだ。ほら、あのタイプライターの元・持ち主」
「今は『もと記者』よ。最近はデスクワークばかりで面白くなかったから、こういう取材は楽しいわね。で、それから?」
「それから……いや、それで全部だ」
 きっぱり答えるオーリに、ステファンは心の中で感謝した。ステファンが勝手に保管庫の鍵を開けたことや泣いたこと、しばらく起き上がれなかったことには、少しも触れなかったからだ。
「ふ、まあいいわ。さて、この中から何か手掛かりが見つかるといいけど」 
 メモ帳を繰るトーニャの表情は、笑いを含んでいる。心を見透かされているようでステファンは不愉快だったが、ここは我慢して力を借りるしかない。
「トーニャ、くれぐれも言っとくけど、これは仕事として頼んでるわけじゃないから」
 オーリは油断なく魔女トーニャの手元を見ながら、釘をさすように言った。
「当たり前よ。いくら魔女がゴシップ好きでも友人探しまで記事のネタになんかしない。そのくらいの節度はわきまえているわ。それより問題はオスカーの手紙ね」
「んー、わからないことだらけなんだよなあ」
 ユーリアンはさっきから辞書とオスカーの手紙を何度もひっくり返して見ている。裏表紙の見返しと一続きの遊び紙が、綴じ代を僅かに残してきれいに焼き切られている。
「二年前にオーリからこの手紙を見せられた時にもいろいろ調べたけど、おかしいと思ってたんだ。紙の繊維が、罫線に対して横目になってる。つまり本来なら縦長で使うべき紙を、わざわざ横にして使ってる。なぜだろう、とね。まさか辞書の遊び紙を使ったとは思わなかったよ」
「ぼく、その手紙には続きがあると思ってた」
「わたしもだ。最後の行のすぐ下が焦げてるものな。ページを焼き切ったとは……普通に切ったり破いたりできなかったってことか?」
「それもある」
 ユーリアンは丹念に焦げ跡を透かし見た。
「トーニャが言うには、これは古い魔女が祭文に使った特種な紙だそうだ。ドラゴンの油を漉きこむらしい。黒い焦げ色はその脂肪分が燃えた、炭素の色だよ。この紙には言葉を守る力があると言われているけど、手で引っ張ったくらいではもちろん破けないし、刃物を当てようとすると逆に呪いを受ける」
 黒く大きな瞳が輝きを増した。
 口元から、さっきまでのユーリアンとは違う重い声がもれてくる。「……オーリ、もう魔法は解かれたわけだし、辞書を分解してみてもいいかな」
 忘れていた。彼もまた、職業魔法使いなのだ。ステファンはごくりと唾を飲んだ。
 ユーリアンは胸ポケットから黒褐色の杖を取り出すと、指先でくるりと回した。オーリがやっていたのと同じ動作だ。肘までの長さになった杖を慎重に辞書に向け、口の中で何語かを呟く。
 微振動が置き、ぱらぱらとページが開いて、辞書がひとりでに分解され始めた。
「まず表紙だ。この革は子牛革カーフに似てるが……違うかな。絶滅した一角牛の革かも……次に見返し部分……糊は特に呪いの跡もなし、破かないように剥がしてと……ああ、やっぱりだ。ステファン、君なら読めるかな。裏に何か書いてあるだろう」
 ステファンは懸命に目を凝らし、滲むような薄い文字を読み上げた。

   『ただメルセイの熱針をもってのみ我を分かつべし』

「よく読めるわね! 私にはインク染みにしか見えないわ」
 驚きの声をあげるトーニャをよそに、オーリとユーリアンは目を見合わせ、してやったりという顔をした。
「先生、メルセイの熱針って?」
「その昔メルセイという賢者が作った、熱を発する鉱物針だよ。主に呪い除けに使うんだ。オスカーはどこかで手に入れたのかな」
「熱で紙を焼いたってこと? 炎じゃなく?」
「ああ。紙を焼くには華氏で570度くらい必要なんだけど、炎だと辞書本体まで焼いてしまう恐れがあるからね。なるほど、紙を立てておいて熱針を横から当てて切り取った、ということかな、ユーリアン?」
 黙ってうなずくユーリアンは、指揮者のような手付きで杖を振っている。「さて、本体ページは……ノド部分に何か隠してないか……いや特に変な加工は見られない。どうってことのない普通のインディーヤ・ペーパーだな。タバコの巻紙にだって使えるやつ」
 タバコ、と聞いてトーニャがテーブルの下で夫の足を蹴った。
「いや、例えだよ、たとえ。僕はちゃんと禁煙してるからトーニャ。オスカーがこの辞書を借りた目的はやはり、忘却魔法と特種紙か……」

「ひどいな、お父さんたら」
 ステファンは沈んだ顔をした。
「先生から借りた本を勝手に切るなんてさ。それにどうせなら、って言ったら悪いけど、お母さんの記憶を消すなら、『離婚』て言葉も消せばよかったのに。なんでそうしなかったのかな」

「ステファン」
 オーリもまた、沈痛な顔でこぶしを額に押し当てた。
「オスカーが以前、わたしに言ったことがあるんだ。『ミレイユの最大の不幸を消してあげたい』とね。もしかしたらそれと関係するんじゃないかと思えてきた」
「最大の、不幸?」
 思いもよらない言葉に皆が固唾を呑んだ。
 部屋の中がしんとしてしまった。聞こえるのは、陽射しの中で遊ぶアーニャの無邪気な声ばかりだ。
 沈黙を破って、ステファンがおずおずと訊ねた。
「ぼくのお母さんて、不幸なの?」
「あ、いや。オスカーがそう言っただけで、実際にそうだとは……」
「不幸って何? ぼくがこんな力を持っちゃったってこと?」
 ステファンはオーリの袖を引っ張って真剣な顔を向けた。
「ばかな」
 オーリは驚きながらたしなめるように首を振った。
「君のことじゃないよ。そんな心配をするなら、この話はやめよう。こら、離しなさい」
 だがステファンは目を真っ直ぐオーリに向けて食い下がった。
「言いかけた話を途中で止めるのは男らしくないってお父さん言ってたよ。それにぼくのお母さんのことなんだから、ちゃんと知りたい! 手紙のことだって変だよ。封筒は? 一緒に焼けたんじゃないんだね? 消印がどうのって前に言ってたけど、なぜ一度も見せてくれないの?」
 たたみかけるように質問を浴びせるステファンの顔を、オーリはまじまじと見ていたが、やがて顔をしかめて銀髪をかきむしった。
「ああもう、そんなオスカーみたいな目をするな! わかったよ、順を追って話すから! まったく君ら親子ときたら……」 

「確かにオスカーとそっくりだ。いい弟子を持ったな、オーリ」
 茶化すユーリアンをひと睨みして、オーリは目の前の冷めたお茶を一気に飲み干した。
「いいかステフ、まず謝っておこう。消印なんて最初から無い。あの手紙は、オスカーがこっそり飼ってたガーゴイルが運んで来たんだよ」
「ええ?」
 すっ頓狂なステファンの声に、ユーリアンが身を乗り出した。
「そのガーゴイル、今は?」
「居るには居るけど、もうなにも教えてはくれないよ。手紙を置いた途端にこと切れたんでね。ほら、うちの庭でウロウロしてるやつ」
 庭でウロウロ――『男爵』のことだ。ステファンは姿が消えたり見えたりするガーゴイルを思い出してぞっとした。まさか、幽霊だったとは……
「それからミレイユさんのことだが。む……」
 オーリは言いよどんだが、相変わらずのステファンの目に急かされるように言葉を継いだ。
「ステフ、亡くなった6人の伯父さんたちのことを聞いたことがあるかな」「ええと確か、戦争とか、病気とかで次々に死んじゃったって」
「そう。だがひとりだけ、屋根からの墜落事故で亡くなった人が居る。ウルリクという人だ」
 オーリは窓の外に目を向け、苦い表情をした。






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