見出し画像

光の向こうのガーリャ ⑥

目次 → https://note.com/soloitokine/n/n27f8db491510


6.コベイン空襲

「窓をもう少し開けてくださる?トーニャ」
 細い声に促されて、アントニーナは窓を少しだけ押し上げた。寒くないのかしら、という心配をよそに、声の主は目を細めて秋風を吸い込み、左手を窓に向けた。誘われるように、楡の葉が一枚ひらりと舞い込む。

 最近のガリーナは、もう車椅子にさえ座れない。上半身をいくつものクッションに支えられて、ベッドの上から微笑みを向けてくる。
「オーリャは元気にしていて? あれからずっと顔を見ていないわ。わたしのせいで叱られたりしていないかしら」
「あの子なら大丈夫。ずっと部屋にこもっているけど、拗ねているだけです」
「そう……」
 寂しそうに睫毛を伏せると、ガリーナは黄金色の楡の葉を指に挟んで見つめた。

「わたしね、水晶魔女として生まれたことを誇りに思っているけど、ひとつだけ残念なことがあるの」
 ドキリとしてアントニーナは姿勢を正した。水晶魔女をこの家に預かって以来、できる限り彼女の要望は叶えてきたつもりではあるのだが、何か不行き届きがあっただろうか。
「なんでも仰って。こんな田舎ですから都会と同じ物はご用意できないかもしれないけど」
 緊張したアントニーナの言葉を否定するように、ガリーナは弱弱しく指を振った。
「ちがうの、単なるわたしのわがまま。あのね、文字を……読むだけでなく、一度書いてみたいなって」
 アントニーナは目を見開いた。文字や絵など水晶魔女に関する記録は残してはいけないと聞いてはいたが、まさか。
「あの、もしかして。失礼だけど、ガリーナ。貴女は文字を……」
「書いたことがないの、一度も」
 ふふっと笑ってガリーナは水色の目を向けた。
「驚いたでしょう? 本を読むのはとっても好きなのにね」
 そういえば水晶魔女の部屋に持ち込み禁止とされる物リストの中にペンやインクがあった。アントニーナは声を落として聞いてみた。
「記録を禁じられているから?」
「それもあるわ。養育係から言われていたの、文字は俗世のものだから水晶魔女が自ら書くのははしたないって。ずっとそれを疑いもしなかったけど」
 まるで他人事のようにガリーナは答える。
「今は少しだけ後悔しているの。この手が水晶化しないうちに字を書いてみればよかった。ペンを持つってどういう感じかしら」
 後悔と言いながら哀しむでもなく、淡々とガリーナは呟き、自分の指を見つめるばかりだ。

 それが水晶魔女の宿命なのかもしれないが、あまりにも重い言葉ではなかろうか。どう答えればいいのだろうとアントニーナは苦い思いを飲み込んだ。そして返す言葉を探すうちに、ふとあることを思い出した。
「ガーリャ、タイプライターをご存じ?」
「タイプ? ライター?」
「鍵盤を指先で叩いて、文字を打つ機械のことよ。ペンを持たなくても、指一本でも言葉を綴れるわ」
「ペンが持てなくても? すてき! 今はそんな素晴らしい魔法があるのね」
 ガリーナは目を輝かせた。
「魔法ではなくて、機械と技術テクノロジー、というのかしら」
 アントニーナは笑って首を振った。
「とても高価だから、今すぐというわけにはいかないけど。私はいつか自分のタイプライターを手に入れるつもり。待っていてくださるかしら。きっとガーリャのお役に立てると思うわ」
「もちろんよ。ああでも……間に合うかしら」
 ガリーナは手袋に護られた自分の手を見つめ、ぎこちなく動かしている。水晶化というものがどんなものかは俗人には詳しく知ることができないが、日に日にガリーナの指は動きが悪くなっている。それはアントニーナの目にもわかる。
 いずれ、彼女が水晶を生み出す日が来たら……
 アントニーナはおそれ多い考えを振り払うように頭を振った。そして何冊かの本を抱えると、わざと元気な声でベッドを覗き込んだ。
「さあガーリャ、今日は本を読む約束でしょう。まず何から読みましょうか」
「詩集がいいわ。わたし、詩を朗読するあなたの声が好き」
 ガリーナの求めに応じて、アントニーナは古い詩集を取り出し、椅子に深く掛けた。
 落ち着いた声が部屋に響く。もう何度読んだかしれないジグラーシ語の詩だ。朗読は途中から暗唱となり、今はもう日常で聴くこともない、祖先たちの言葉の韻律が部屋に満ちた。

『……そして冬の女王は春を羨みたもう……春の乙女は夏に焦がれつ……』
 珍しく声を合わせて詩の一節を諳んじ、ガリーナはふふっと笑った。
「わたしね、ずっと長い間『羨む』って言葉の意味がわからなかったの」
 詩の暗唱を止めたアントニーナは、相手が何を言い出したのかといぶかしく思った。
「でもやっと分かったわ。この間、オーリャが外に連れ出してくれた日に。ほんの短い時間だったけど、とても、とても楽しかったの。楡の森も、草の丘も、白い羊もみんな輝いてて。世界はこんなに広くて、風がいつも吹いているんだなって思うと嬉しくて……それから悲しくなったの」
 深緑色のカーテンを風が揺すっている。窓の向こうの空は、もう夕暮れの色に染まりつつある。ガリーナの目が雲の色を映した。
「だってこんな美しい世界で、わたしが知らない時間を、オーリャとあなたはずっとずっと生きていくんですもの。『羨ましい』ってこういう感情のことを言うんだと、初めて気づいたの。トーニャ、わたしあなたに嫉妬したかもしれない」
「そんな、まさか」
 アントニーナはいたたまれずに立ち上がった。
 この世に二人となく尊い存在の水晶魔女が、自分のような田舎住まいの魔女を羨むなどと。まして嫉妬などと。

 ガリーナは自分の言葉に改めて驚いたように、上掛けに顔を隠した。が、すぐに目だけを出すと、はにかんだように瞬きした。
「わたしね、嫉妬って醜い感情だと聞いていたから、水晶魔女には一生関わりがないと思ってたの。でも違った。嫉妬はみにくくて、くるしくて……とってもどきどきする感情だったわ」
 なんという輝きだろう、水晶魔女の瞳はこんな明るい色だったかしら、とアントニーナは戸惑いながら、ガリーナを見つめた。
「不思議ね。美しい水晶を育てるには美しいものだけに触れていなくちゃと思ってきたのに。羨ましいとか妬たましいとか、そんな気持ちが私の中にもあるんだって気が付いてから、どんどん水晶が大きく育ち始めたのよ。わたしね、今初めて自分の時間を生きている気がしているわ」
 そこまで言うと、ガリーナは細い手を出してアントニーナの手を取った。
「嫉妬させてくれてありがとう。大好きよ、トーニャ……オーリャもね。わたしは、わたしの生きているこの世界が好き」

 暖炉の薪が小さな音を立てた。窓から入る冷気のせいか、ガリーナの指は手袋越しにも冷たく感じられた。

*  *  *

 屋敷内が、にわかに慌ただしくなってきた。
 水晶魔女がその役目を果たす最大の『極』の日――つまりガリーナが水晶を生み出す日が近づいたのだ。
 とはいえ、人間の赤子とは違って、鉱物である水晶がこの世に出現するにはもう一段回必要だ。コベインの工場近くの町まで移動し、『転移の魔女』によって、ガリーナを傷つけることなく結晶だけを取り出すという大仕事が、これから成されるのだという。魔女たちは祭りでも迎えるかのように浮足立っていた。
 ガリーナはこの屋敷で知りあいになった一人一人の魔女を部屋に呼んで、各々から寿ぎの言葉を受け、代わりに予言などを与えていた。むろんアントニーナやオーレグもその中にいたのだが、オーレグはぐずぐずと言い訳を作って順番を先送りにしていた。

「今日こそ逃げちゃだめよ、もうあの方と話せる時間はそんなにないのだから」
 従姉にせっつかれて、渋々といったていでオーレグが挨拶に向かったのは、ガリーナが旅立つ予定の前日だった。
 本当は、会いたくて仕方がなかった。脱出エスケープに失敗した日からずっと、話をするどころか姿を見ることもなかったのだから。だが、魔女ジェインから言われた言葉が呪いのように引っかかって、十三歳の心はなかなか素直になれなかった。

 その日、階段の北側に防壁の魔法は掛かっていなかった。水晶魔女をこの屋敷に迎えてから初めて、男子であるオーレグも部屋に入ることを許されたのだ。もうあまり時間の余裕がないことを示しているのだろう。
 ドアを開けると、窓横の壁に扇型の掛け時計が目についた。ガリーナが首から下げていたペンダントと同じ形だ。0から12までの数字と目盛りが刻まれ、一本だけの針が12近くを指している。窓からは見えない角度にあるから、オーレグには初めて目にする代物だった。

 久しぶりに見るガリーナは真っ白いドレス姿だ。花嫁衣裳のようにも、死人の装束のようにも見える。天蓋付きのベッドの上で、いくつものサテンのクッションに支えられて、静かに水色の瞳を向けている。
「オーリャ、やっと会えた!」
 ガリーナは以前と変わりなく、いやいっそう輝くような笑顔でオーレグを迎えた。
「もっと近くで顔を見せて。元気だった? 葉っぱのお便りだけでは来てくれないようだから、いっそ禁忌を破ってお手紙を書こうかしらと本気で思ってたのよ」
 相変わらず邪心のかけらもないような愛らしい笑顔を見ていると、ジェインの言葉など嘘じゃないかと思えたが、なぜか直視するのが恥ずかしく、オーレグは視線を逸らしてただうなずいた。
「おかげでわたしったらね、文字を書けるようになってよ」
 ガリーナはベッド脇にある水差しの盆に手を伸ばした。白い手袋が汚れるのも構わず、コップの水に指先を浸し、盆の上に滑らせ始める。震える指は丸い円のような形を書く――はずだったのかもしれないが、形になる前に、力尽きたように指先がそれてしまった。
 ごめんなさい、と恥ずかしげに手を引っ込めるガリーナを見ていると、オーレグの胸は詰まった。水晶化が進んでいるガリーナの手は、もうあまり動かないのだろう。

 部屋の中に、気まずい沈黙が訪れた。何か言わなくては、とても言いたい言葉があったはずだ、とオーレグは焦ったが、口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。
「なんだ、嘘つき。そんなの文字じゃないや」
 違う。こんなことを言いたかったのではない。自分はなんてことを言い始めるのだ、と思ったが、溢れ始めた言葉は待ってくれなかった。
「時計のことだって嘘だ。誰にも見せちゃいけないとかいってたくせに。同じ形の、こんな大きな時計があるんじゃないか、魔女たちはみんな知ってたんじゃないか。時間もでたらめだし、嘘ばっかりだ」
「オーリャ、あんたなにを言ってるの!」
 いつの間にかドアが開いて、背後にアントニーナが立っていた。視界の隅に小さな火花が散り始めた。もうだめだ、いつもの悪い癖が始まった。せめて爆発しないうちに部屋を出ようとする背中を、細い声が追いかけてきた。
「オーリャ、怒らせてしまってごめんなさい。でもひとつだけ予言をさせて。あなたに必要なのは水晶の光ではなく、太陽の光よ。あなたは、あなただけの太陽をいつかきっと見つけるわ……その時がきたら、けっして離してはだめよ」
 だがオーレグは振り向くこともできず、頭を振った。
「魔女の予言なんて、信じない」

 最低だ。最低だ。
 オーレグは楡の木に頭をガシガシとぶつけて涙を落した。
 自分はどうしてこうも子どもガキなのだろう。十三にもなって、あの態度はない。もうすぐガリーナに会えなくなるというのに、あれではまるで頑是ない駄々っ子ではないか。
 せめてひと言謝りたい。でも、どうやって?
 いつの間にかすっかり葉を落としてしまった楡の木が、枯芝の上に影をおとしている。顔を上げると、白い月が出ている。ガリーナもあの月を見ているだろうか。あの月の光のように歪まず真っ直ぐに自分の心を伝える術があるとしたら……オーレグは袖口でぐしぐしと涙をぬぐい、楡の木から離れて自分の部屋に走った。

 *  *  *

 その夜遅く、ラジオを聴いていたマーシャがいつになく慌てた声をあげた。何事かと居間を覗いたオーレグも、臨時ニュースの緊迫した声を聴いて事態を察した。
「伯母様! コベインの街が……焼かれた!」
 コベインといえば、ガリーナの水晶を提供するはずだった軍需工場がある街だ。首都のブラスゼムが焼かれた時と同じように、何の前触れもなく無差別の空襲を受けたらしい。
「そのようね」
 大魔女のガートルードは表情も変えず、暖炉の傍に座ってオーレグに答えた。
「ガリーナはどうなっちゃう? コベインの近くに運ばれるはずだったんじゃ……」
「ママ! ガーリャがいない!」
 青ざめた顔でアントニーナも駆け込んできた。
「静かになさい。ガリーナ嬢なら少し予定を早めて移動しました。もっと安全な場所にね」
「移動したって……じゃ、もうここにいないってこと?」
 オーレグは愕然とした。ほんの数時間前には顔を見て話をしていたのに。
 謝るチャンスを逃してしまった、という思いと、もしかしたら、という別の恐ろしい思いが頭の中で交錯した。

 その間にもラジオはコベイン空襲の続報を繰り返し読み上げている。
「ほう、工場も焼かれてしまったの。クレーブ卿も気の毒なこと」
 暖炉の火に照らされているガートルード伯母の顔は相変わらず無表情だが、ほんの少し口角が上がったように見える。オーレグの背に寒いものが走った。
「もしかして伯母様……こうなると知ってた?」
「もちろんですよ」
 なにごともないような調子で答え、大魔女がゆっくりと顔を向けてきた。
「コベインのことはもう何か月も前に『予見の魔女』から聞いていました。我々とて忠告はしたのですよ、何度も」
「何か月も前ですって? じゃあ知っていてクレーブの工場と契約したの?」
 アントニーナが額を押さえて聞いた。
「相手が聞き入れないのだから契約するよりほか仕方がないわ。純粋水晶を提供する代わりに相応の対価とジグラーシ魔女の地位確保を。悪い取引でもないでしょう?」
 ガートルードはマーシャに合図し、お茶を、と促して続けた。
「クレーブにとって、純粋水晶は喉から手が出るほど欲しい物だったのでしょう。わたくしの魔法でも人の欲までは操作できないわ。そして魔女の忠告に耳を貸さなかった者は工場と運命を共にした、クレイブのように。忠告に従った者は逃げて生き延びた、ジェインのように。それだけのことです」
「それだけのことって……だって、逃げたくても逃げられなかった街の人もいるでしょう。何人犠牲になったの?」
 震える声で言うアントニーナの肩をガートルードが押さえた。
「間違えてはいけませんよ、トーニャ。コベインのことは我々が望んだわけでもそう仕向けたわけでもないの。ジグラーシ魔女は『忠告する』以上の影響力は持っていません。なぜなら、この国で我々は――人として認められていないのだから!」
 最後の言葉は囁くようだったが、アントニーナを黙らせるには充分だった。

 大魔女ガートルードは優雅な手つきでお茶を飲み干すと、立ち上がって二人を促した。
「さあ、そろそろ時間だわ。二人ともいらっしゃい、水晶魔女の何たるかを明かしてあげましょう」
 まだショックから立ち直れないまま、怪訝な顔を見合わせるオーレグとアントニーナを引き連れて、大魔女はガリーナが居た部屋へと向かった。





よろしければサポートお願いします。今後の励みになります。