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自担考


前の自担は、理想のデートプランで「人形浄瑠璃を観た後に心中」なんて言う人だった。
もちろん冗談だけど。

前の自担は、一言で言えば「一緒に死んでくれる人」だった。
いや、死にたかったとまでは言わない。「一緒に逃げてくれる人」だった。

友達が2人しかいなかった自担。「めんどくさい人間」と自覚していて、人付き合いが苦手で、コンプレックスが多い自担。時々棘のあることも言ってしまって、当時は定期的に炎上していて、この生きづらい世界で、その生きづらい身体でサバイブしていた自担。

あんまりアイドルにいないようなタイプだった。
だからこそこの人しかいないと思っていた。

デビューを経て仕事が増えていって、不器用ながらも努力したり人に甘えたりしながら(彼は家では末っ子だから甘えるのは上手だった)、社会人として前向きに生きるようになった姿を見て、もう好きになった頃の、世界の終わりみたいな気分には戻れないんだなぁと思った。
私はまだずっと世界の終わりにいた。私には彼の処世術は使えないし、得意なことも苦手なことも求めるものも違ったから。

まだ彼は、というか彼も一生、迷い続ける人生だと思う。
だけど私の迷い方と彼の迷い方は似ているようで全然違って、ぶつかりながら、遠ざかるしかない。

2020年の夏の終わりに前界隈の表垢をやめて、翌2021年の夏にSEVENTEENを好きになった。秋頃にはもうバーノンが自分の中で大きな存在になっていたと思う。

だけど、前担を完全に担降りできたのは2022年3月だった。
NCTのマークを知ったから。かつては小説家を目指し、音楽の才能に恵まれながらも今でも「書く」ことに安寧を見出しているマーク。その文章に鷲掴みにされて、マークを心の隣に座らせた。

マークを知って、前担への未練がストンとなくなった。
大学卒業と同時に「担降り」ということにした。

前担の最近出たソロ曲に「遠くで咲いてたら見守ってね」というフレーズがある。今の距離感はそれに近い。前担、咲いてるなぁ、と見守っている。

隣にいてくれる人が常に必要なのだと思う。
マークを好きだった時、2人きりの世界に閉じこもって、このままだとSEVENTEENの世界に戻れなくなってしまうと感じていた。
CARATとSEVENTEENの話をしている時、SEVENTEEN最高と言いながら、「マークを置いていけない」と思って浸りきれなかった。

マークのソロ曲Childをお守りのように繰り返し聴いた。
うまくいかない時、人が怖い時、「きっと遠い他人になりたかった この社会と」と歌うマークと一緒にどこまでも逃げた。
マークは8月の誕生日に、配慮の行き届かない発言で炎上した。私はまた望む通りの世界の終わりにいた。

バーノンはずっと憧れの人だった。
他人に踏み入らせることなく、でも他人を傷つけることなく、とても上手に生きているように見えたから。
ああいうふうに生きられたら楽だろうな、かっこいいなと思いながら、でも絶対になれないからこそ憧れでキラキラしているのだった。

その憧れは、私が正しい「好き」の世界にいられる切符だった。
2人の世界に逃げ込むことなく、胸を張って社会に「この人が好き」と言えた。
でも、だからこそ、まだ前担のかわりにはなり得なかった。

全部をひっくり返したのがBlack Eyeだった。
憧れていた理想像も、これが正しいと思っていた憧れという感情も否定し尽くされて、バーノンを半分嫌いになり、同時に、心理的距離が一気に縮まった。

一方でマークに対しては、「この人の大事な存在はあくまでもシズニで、私はシズニとしては生きていけないからなぁ」と、線引きを考えていた。
都合のいい取捨選択だ。

Black Eyeから半年間、ずっと情緒不安定のまま転げ回り、Miss Youでやっと落ち着く島が見えて、私は今度こそしっかりとSEVENTEENの天国にいた。
バーノンの中の「孤独」というやつに直に触れて、いつしかバーノンが心の隣に座っていた。

いや、まだけっこう殴り合っているけれども。

バーノンは今までもこれからもずっとSEVENTEENで、しかも彼は前担のように人を恐れることなく、積極的にコミュニケーションを取っていくので、バーノンが自担である限り、何らかの形で社会と繋がっていられると思っている。
もうこれ以上人から逃げるのはまずい。バーノンの手だけは離してはいけない。

自担というのは、私の世界の大前提だ。
世界中全員がダメでもこの人だけは、という一縷の希望だ。
ゼロをプラスにする彩りや飾りじゃない。マイナスをゼロにする、水であり、食料であり、でなければ寝具だ。
自担がいなければ私の人生が丸ごとなくなってしまう。だから前担の時は手を離すのが怖くて、気持ちはとっくに冷めていたのにギリギリまで担降りできなかった。

一人で立って歩くことができないから、常に誰かに寄りかかりながら生きている。
自担が変わると私服が変わる。聴く音楽も変わる。話し方も立ち居振る舞いも変わる。
自担を座らせる場所が心臓に近ければ近いほど、自担の一挙手一投足、一言一句の影響をダイレクトに受けてしまう。
MSGは劇薬だった。このまま安寧を続けさせてくれればよかったのに、なぜあの人はそうさせてくれないのだろう。

マークがメンバーや理解者の人肌を求めるさまは、無邪気な子どもの切実な「欲求」に見えた。
バーノンのそれは「欲望」の質感をしている。

これ以上その欲望に引きずり込ませないでほしい。
あなたをそばに座らせるために、あなたを欲望し、あなたのそばにいる人たちやあなたをキラキラと愛している人たちみんなを憎まなければいけなくなる。
あるいは、あなたを憎まなければいけなくなる。

その息の音を聞かせないでほしい。
どこにもいないのにすぐそばにいるかのように錯覚するから。
そしてどこにもいないことに気づいて絶望するから。

身体感覚の乗った言葉を聞かせないでほしい。
あなたの感覚が私の身体に乗り移ってしまうから。
私はあなたではないのに、あなたであるかのように勘違いしてしまうから。

欲望する言葉を聞かせないでほしい。
耳の後ろで囁かれているかのように錯覚するから。
そうでなければ、あなたが欲望している相手の首を絞めに行かなければいけなくなるから。

私はあなたを憎みたくないし、あなたのそばにいる人たちや、あなたを好きなたくさんの人たちを憎みたいわけでもない。
だけど今は、そうしていなければ、私は私を打ちのめしてしまう。

前担の表垢をやめ、降りたのもそういう経緯だった。
キラキラ愛しているように無理に見せかけるのがだんだんきつくなって、キラキラ愛している人たちの目に触れないように閉じこもった。だけど友達経由でキラッキラした同担が生活に入ってきてしまって、私はもうすっかり明け渡した。誰も憎みたくなかったから。誰も憎まないでいるには、欲望を捨て、全てに無関心になるのに限る。

バーノンペンをやめたいと思う波が隔週くらいで来ている。
バーノンを諦めれば何もかも楽になる。
だけどこういうことを表垢で普通に言えているのだから、あの頃よりもずっと環境がいいんだろう。
どうしたら自担も同担も自分も否定せずに2本の足で立っていられるのか。このまましがみつき続ければ答えは出るだろうか。

バーノンが笑っている時、私は一緒に笑うことができない。
私は笑うことが得意ではないから。
私にとって笑いとは、努力して成功させるコミュニケーションにすぎないから。
私はずっと世界の終わりにいる。ずっと孤独の淵にいる。
こういう人間は不健康で、健康な人々を不快にさせる。
だけど私はずっとここにいたいのだ。
ずっとここにいて、自担の足首を引っ張って引きずり込んで、その血を啜って生きていたいのだ。


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