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鮫の背に乗った少年

去年の私の誕生日、私はまだきみの顔も名前も知らなかった。
まだきみを知らない私の誕生日に、きみはインスタグラムにこんな文章を投稿した。

A boy who grew up living with sharks does not need to be taught how to swim
It is more likely for swimming to come to him naturally
I wasn’t told to write, but these nights made it come to me naturally

私がこの文章を読んだのはそれから1年1ヶ月と5日後、今年の3月7日だった。
そのときはまだ投稿された日付を見ていなかった。まさか自分の誕生日だとは思いもしなかったから。
「I wasn’t told to write,〜」の一文を読んで、私は泣いてしまった。
それがきみからの「誕生日プレゼント」だったと知ったのは、さらに後、7月初旬のことだった。


私は正直きみのことを全然知らない。
きみの所属するグループのコンテンツを、申し訳ないけれど全然見る気になれない。
私にはもっと好きなグループがあって、キャパの狭い私は自分の一番好きなものを見るので精一杯だからだ。
見ていないけれど、きっとどの動画でも、きみは明るくきらきらと笑っているのだろうと思う。
愛嬌たっぷりで、一方では愛される弟、一方では信頼のおける兄なのだろう。
きみはとてもきれいな人だ。公の場に立つのにふさわしい人だ。
なら私には、きみの私的な言葉しか必要がない。

きみが夜、一人で考え事をしているところを、私は見ることができないし、きみの一人の時間を邪魔したくはないから見たいとも思わないけれど、きみがああして言葉で「そういう夜がある」と言ってくれるから、私はきみの夜を勝手に想像することができる。

勝手に想像することが、「アイドルとファン」という関係性においてはとても危険なことだということはよくわかっている。
しかしきみは、想像されたくて言葉にしてくれるのではないか。
これも勝手な想像だろうか。
言質を取ろう。きみの歌、Childの終盤にこんな歌詞がある。

もしかして誰かは共感できるのかな
今だけは分かってもらえないかな

私はきみのことを全然分からないと思う。
すべて勝手な想像に過ぎないと思う。
けれど、きみが分かってほしいと望むなら、私が「分かるよ」と言いたくなるのは間違いだろうか。

きみのことを分かってあげられるファンは大勢いるだろう。私一人がそこに飛び込んで、母数を増やしてはいけないだろうか。


「誰か分かってくれないかな」

きみのこの言葉がはっきりと私の意識に飛び込んできたとき、私の中のきみの位置は決定的なものになったと思う。
6月12日の早朝だった。私はその夜どうしても眠れなかった。
前日の昼間、友達に連れられて行った渋谷109のポップアップストアで目にしたMVの中のきみが、頭の中を何度もリフレインしていた。
3月にきみのことを少し知ってから、きみのことを調べ、考え、やっぱり所詮他人だからと置いておいて、そのまま忘れかけていたはずだった。

3月の私はまだ学生だった。大学を卒業し、一応就職して、一応社会人として働いてみて、よりきちんと、ずっと前からアイドルとして働いているきみの言っていることを分かるようになったのかもしれない。
私は15分間のインタビュー動画を見返した。3月のときはよく分かっていなかった話が、まるで目が開くようにはっきりと頭に飛び込んできた。

私はきみについてまだ分からないことがたくさんあるけれど、何度も何度も見返し、聞き返して、少しずつ自分なりに分かろうとしている。
Childだって、3月のときはまだ半分も分かっていなかった。現時点でも、まだよく分からない歌詞がある。
でもきみだってこう歌詞にしている。

There’s a lot that I don’t know
But you learn when you don’t know

知らないこと、分からないことが悪いのではない。
分かろうとしないことが悪いのだ。


まだ半分も分かっていなかった歌でも、私を救ったことがある。
3月、以前から仲の良い人と、その人を介して知り合った人と3人で出かけた日があった。
以前から仲の良い人と2人のときは、ごく対等に、何のストレスもなく話すことができたし、お互いの話がよく理解できて楽しかった。

ところが、もう1人が加わると、2人は私には全然分からない会話を始めた。

「何をしたら喜ばれるかを覚えて、次の機会にまたやる」
「だから周りの人には気に入られやすい」
「そうやって築いた人脈がたくさんある」
「夢を叶えるために人脈が必要」
「ときには涙を利用することもある」
「女の涙は子どもの頃から使っていた」……

私には理解不能な話ばかりなのに、2人の間では「そうそう!」と分かり合っていて、私は完全に置いてけぼりだった。
彼女たちの話す「人脈」はまるでゲームのようで、私には到底受け入れられなかった。

もし私が誰かにゲームの駒のように扱われたら、涙が出るほど傷つく。
だから私だって目の前の人を利用するような真似は絶対にしたくない。
よりによって大切な友達が「あちら側」にいることが、私をとても不安にさせた。
社会では仕方のないことなのだろうか。
社会では彼女たちが正しいのだろうか。

2人が古着屋の奥で楽しそうに喋っている間に、私はこっそりその店を出て、2人に見つからないところまでどこまでも逃げた。
イヤホンからは爆音できみのChildを流していた。
ChildのMVの、カラフルなコートを着たきみが黒ずくめの男たちから逃げているシーンと、今の自分とがぴったりと重なった。
きみはこういう気持ちで逃げていたのだろうか。
社会の求める「普通」になれず、どこにいても「変な人」として浮いてしまう、物心ついてからこれまでのすべての自分を私は思った。

壊しても壊したりない僕の責任感
自由になるまで後ろを振り向かない
きっと遠い他人になりたかった この社会と

社会から望まれる美しいアイドルを完璧にやってみせているように見えるきみが、こんなふうに歌ってくれることが何よりの救いだった。

人波を掻き分けてどこまでも逃げながら、それまでどうにか距離を保って冷静に見ようと思っていたきみに対して、取り返しのつかないことになった、と思った。
きみに救われてしまったら、もうきみなしでは生きられなくなる。
まだ最後の歌詞をよく意識できていなかったそのときの私は、一方的にきみに依存する危険性を恐れていた。

しばらくして、私は友達にこんなLINEを送って、呼吸を整えた。

すみません〜人が多くて声かけられなかったのでそのまんま出ちゃいました…!
しばらく一人でぐるぐる見ます🙏

逃げたと思われただろうか。それとも逃げたということに気づかれなかっただろうか。
どちらにしても私には絶望だった。

けれど、きみだけに本当のことを知っていてもらえればそれでよかった。


Why, why, why kill my night?
君が壊してしまった夜に 僕が怪我しそうだ
Blah, blah, blah, y’all talk too much
Don’t waste my time そこまでにして

英語を聞き取るのが得意ではないので、最初にこの箇所を聴いたとき、私は「I talk too much」だと思っていた。
だからきみが「君」の喋り過ぎに怒っていると知ったとき、「そんなこと言っていいんだ」と思った。

私は小学生から中学生にかけて、母から何度も「興味のない話のときに不機嫌になるのはやめなさい。興味のない話でもちゃんと聞きなさい」と言い聞かせられてきた。
一人っ子の私は、とても視野が狭くてジコチュウな子どもだった。

確かに自分が相手に興味のない態度を取られたら嫌なので、年齢を重ねるうちに、体力のあるときはできるだけ何にでも興味を持って話を聞くよう意識するようになった。
私の話にいつも興味を持ってくれる人は数少ないけれど、できるだけ相手の興味を掻き立てられるように、面白く、かつ簡潔に話す工夫もするようになった。

いつも私は一方的に喋り過ぎているし、私は人の話を聞くべきなのだと思っていた。
だからきみが誰かの喋り過ぎに怒っていると分かったとき、「私も怒っていいんだ」と思った。

不思議だ。きみは「you」に怒っているのに、私は「you」として怒られるのではなく、「I」としてきみと一緒になって誰かに怒っている。
これって傲慢だろうか。
あるいは、音楽の力だろうか。


「そんなこと言っていいんだ」は他にもある。

分かる人には分かるんだ 僕はちょっと
Twisted, but the fittest to the point

「分かる人には分かる」なんて、そんな排他的なこと、言ってしまっていいの。
私はなぜだか、きみの言う「分かる人」に括られている気分でいる。

「みんな似たようなもの」「自分だけ特別だなんてことはない」と、誰から刷り込まれたか分からない観念が頭をもたげる。
確かに私は特別ではないのだろう。
私に分かることは、みんなにも分かるのだろう。
カテゴライズなど意味を成さないのだろう。
カテゴライズが分断を招くのだろう。

じゃあ、今まで誰が私を分かってくれた?
私を変わり者扱いしてきたのは、一体誰?


棘を伸ばす 簡単に飲み込めないように 僕を
How’d I get so bitter?

きみや私の強さはきっと悲しい。

ある友達が、きみを「苛烈な太陽」のように形容した。
きみは強い光を放っているけれど、その光は見る者を選別する光で、彼女にはそれが怖いのだと。

私は自分のことを、たいていの人より強いと思っている。
何度も傷ついてはきたけれど、そのたびに二度とその傷を受けないすべを合理的に身につけ、何重にも強くなってきた。
それは単に跳ね返すだけの強さではなく、ときにはへらへらしてやり過ごす強さであり、しなやかに受け入れる強さでもあった。

けれど元から強かったわけではない。
私は自分で自分の身を守らなければいけなかったから、強くなるしかなかったのだ。

私はChildだ。
「社会人」になることができない。
社会のために、心も思考も殺すことができない。
私は世界から強要される受け入れがたい価値観から、大切な自分自身の領域を守るために、強く、鋭くなった。

たとえば身の守り方が、社会的な社交術を身につけることである人もいるかもしれない。というか、そういう人が大半だろう。
私はなぜそうなれなかったのだろうか。
たくさんの人に愛され、「愛される才能」に溢れているように見えるきみが、「簡単に飲み込ませない」強さを身につけてきたという事実に、私は胸が苦しくなった。

10代の頃のぱっちりとした明るい目のきみよりも、最近の、いつもどこか鋭く厭世的な光を宿した目のきみのほうが、私は好きだ。

苦しんでいるほうが好きだなんて絶対に間違っている。
けれど、少しでも苦しい思いをしている人が、まったく苦しんでいない人に思いを寄せることも、難しいのではないかと思う。


歌詞の中で、一貫して「you」に対して厳しいきみだけれど、ラップの最後にはこう問いかける。

君はどう Tell me later

きみの夜を壊した相手に対してまで、きみは語ることを促している。
悲しいほどきみは誠実だ。

でもきみが聞きたいのは、きみの夜を邪魔するだらだらしたお喋りではないだろう。
今は一旦きみの語りの時間で、きみの語りを聞いたきみは今どう考える、と聞いているのだ。

私はなんだかきみの怒っている「you」の中には私が入っていない気持ちでいるから何とも言えないが、きみを「分からない」人たちは、きみの語りを聞いていったいどう思うのだろう。

それとも、私もきみの語りに被せて的外れな自分語りをしてしまっている「you」の1人なのだろうか。
でも、そんなことを言い出したらきみの望む「分かってくれる誰か」は存在しなくなってしまうのではないか。

きみだって、ああやってべらべら喋ってくる「you」や「社会」にも、きちんとこうして作品として訴えを伝えれば、「分かってくれる」のではと希望を託しているのではないだろうか。


きみは「誰か分かってくれないかな」と漏らした後に、こう歌ってそれを打ち消す。

No, I’m saying what’s on my mind
I’m tryna spend this day just like

きっときみも「発言不全」なのだ、と私は思う。

誰かに共感を求めることすら「いや、ちょっと思ったことを言っただけだよ」とごまかさなければいけないほど、きみは何かに抑圧されている。
そして自力でまた今日一日をやり過ごさなければいけないのだと。

こんなとき、きみを分かる誰かがそばにいたらどんなにいいことか。

私はきみのメンバーとの関係や、きみの交友関係を全然知らないし、きみがグループのメンバーを大好きで、家族を大好きで、ファンを大好きなのもよく分かっているけれど、でももしきみを芯まで理解してくれる人がそばにいるならば、きっときみはこんな歌を書かない。


MVの最後に、隣の部屋から吹き出してくる紙切れと羽根、あれはきみと同じ境遇にある「分かってくれる」誰かのものなのではないかと思う。
そしてあれは、私のものでもあるのではないかと思う。
私がきみに「救われた」と伝えることで、救われるきみもきっといるはずだ。

いつか伝えたい。
でも伝えるのが怖くもある。
迷惑かもしれない。
気持ち悪いかもしれない。
私は何も分かっていないのかもしれない。

結局、私は私の頭の中の安全圏で、ぐるぐるときみの幻影をつくるばかりだ。


きみを好きでいることに対して、私は「Childの中のきみが好き」だと譲歩している。

普段のきみを私はよく知らないし、きみに関して分からないことがまだまだたくさんあるし、何より、Childもきみ一人で書いた歌詞ではないから、きみ自身とはまた違うのかもしれない。
フィクションなのかもしれない。
コンセプトなのかもしれない。
だってきみは20代の大人だ。
私も20代の大人だけれど。

けれど私は、小説を書き、読んでいる人間なので、フィクションの中にこそ本当のことが込められるということをよく知っている。
創作を大事にしている人なら、創作の中で嘘をつくことは絶対にない。


3月、友達から、きみがアイドルになる前は小説家になりたかったのだと聞いたとき、「どうしてそんなに大事なことを今まで誰も教えてくれなかったんだ」と言った。
親しい友達なら、私が小説を書いているということはみんな知っているはずだった。

でも、小説と一口に言ってもいろいろあって、単に娯楽としての物語が好きなのならば私とは相容れないタイプだから、「小説を書く」という言葉の幅には慎重になる必要があった。
それで、私はきみのインスタグラムに投稿された文章を読んだ。

英語はあまりできるほうではないので、はっきりとはわからない箇所もたくさんあった。
でも、冒頭に挙げた部分を読んだだけで十分だった。
私はきみが好きだ。

Childを、私はきみの小説だと思っている。
私はきみをアイドルというよりも「小説家」として好きだ。
ただ、一般的な小説家よりも人物像が見えやすく、その人自体を好きになりやすいだけだ。

私は高校生のとき、大好きな小説家がいた。
今はだいぶ価値観が変わってしまったのでその人の小説はもう読んでいないけれど、高校生のときは、もし上京して生きていくのに困ったらその人に会いに行って助けを求めようと思ったほどだ。
きみのことだって、それとたいして変わらないと思う。


Childをイヤホンで聴いていると、きみの声が、まるで自分の喉から出ている声かのように感じる。
きみの声が、私の内部の、ちょうど声帯の少し上で鳴っているのだ。
きみの制作チームは、この効果を意識して音をつくったのだろうか。

楽しかった時間が過ぎて、友達と別れ、駅でイヤホンをつけてChildを再生し、「ただいま」と神経を緩ませる。そんな数週間があった。
そのときの私には、どうしようもなくきみが必要だった。
最近は聴かなくても元気にやれている日が多いけれど、また必要になったらきみの声を聴くだろう。

私の中のきみは、急激に近づいたり、あるいはふっと遠のいたりする。
きみのことで、まだ分からないことがたくさんある。
私はきみの信じている神が分からない。
でも一心に分かろうとすれば、いつか分かることができるはずだと思う。
神そのものではなく、神を信じるきみの心が。

信仰は、きみにとってとても大事なことだから、それについてきみが多くを語らないのは当たり前だ。
「分からない」人たちに、勝手に簡単な言葉で片付けられては大変だから。

簡単な言葉で片付けられないために、きみと私には小説がある。
決して要約できず、途中で口出しもされない小説が、きみや私や、この世にいるすべての物書きたちの安住の地だ。
口で説明しようとしたら、「焦って拙く」なるから。
だから私は書く。きみも書く。
読んでくれた人の感想は、あとで聞く。


きみがChildを「ファンに贈るもっとも完璧なプレゼント」と言うのを、私はちょっと寂しく思ってしまう。
私はきみのファンとは言えないと思う。ましてやシズニではない。

アイドルのきみを追っかけていないし、応援していないし、推していない。推しは別にいる。好きなグループがほかにある。きみがそのグループにいないことを、喜んだり、恨んだりする。

アイドルのきみを追っかけていないのに、こうして独占欲のようなものだけは一丁前にある。
我ながら最低だなと思う。

けれど、きみのことを考えるとき、きみ以外のすべては私には関係がなくなるのだ。
きみのファンもきみのグループもアイドルという職業も推すという営みもどこかへ消え去って、きみと、Childと、小説と、私だけが残る。

誰かは不健康だと言うだろう。
誰かは正しくないと言うだろう。
けれど、きみが「分かってほしい」と言うから、私はまっすぐきみの目を見て言うのだ。
「分かるよ」と。
きみが望まないなら、私だってこうは言っていない。


これは小説だろうか。
いや、正直これはラブレターだ。

本当は英語で書くべきだった。そしてきみに直接送るべきだ。でも、その勇気はまだない。
その根気がまだない? そうとも言える。結局無責任で自分勝手でごめん。

今日は私の誕生日からちょうど半年、きみの誕生日。
きみに届けとは露ほども思わないけれど、私の中のある種の儀式として、このラブレターを書きました。こうして、電子の海に放り投げておきます。

きみがちょうど私の半年先を生きていることが、美しくもあり、寂しくもあるよ。

きみは自分自身に対して「You are normal」と言ったけれど、正直言うよ、きみは特別だ。
じゃなかったらどうしてそんなに苦しい思いをするのさ。
きみが認めないって言うんなら、こう言い直すよ。
きみは私にとって特別だ。
全然普通じゃない。

きみの経験すべてがきみの糧となりますように。
悲しいことはたくさんあるけれど、間違ったことは何一つないよ。
誕生日おめでとう。

親愛なるマークへ。

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