見出し画像

映画『BAD LANDS』の山田涼介という体験を何とか言語化する試み

先に言っておきます。後半、危険思想すぎる。誰も怒らないで。こうとしか書けない。


元自担・山田涼介をスクリーンで観るのは2017年ぶりだった。あれから6年近くが経って私は大学に入学して卒業し、就職して今社会人2年目だ。高校3年間はうんと遠い昔のような気がする。

あれから今までの間に、ドラマ『親愛なる僕へ殺意をこめて』は1話だけ観たけれどグロくて断念した。そもそも私は連続ドラマを観るのに向いていない。モチベーションが続かないので、映画館の椅子に2時間縛りつけられるほうがよっぽど効率がいい。ほかは一度も山田涼介出演作を観ていない。

『BAD LANDS』ももともと観る予定がなかったのだけれど、主演の安藤サクラさんが本作の山田涼介を「映画の歴史に残る」と断言していたため、これはと思いチケットを取った。公開初日の金曜日、仕事帰りのレイトショー。

2015年の『グラスホッパー』の時も、週末に友達と観に行く約束をしていたのに、待ちきれず公開初日に生徒会の会議だと親に偽って1人で観に行った。私が観ていないうちに観た人が増えるのも嫌だったし、初めて観る瞬間に横に誰かがいるのも嫌だった。ならどうして友達と約束なんかしたのか。1人で観た時のことは覚えているのに、その後友達と観た時のことは全く思い出せない。


以下、『BAD LANDS』のネタバレを交えて書くので、未見の方は注意されたい。

『BAD LANDS』の主人公は安藤サクラ演じる詐欺グループの下見役・橋岡煉梨(ネリ)。大阪の底辺社会を描きつつ、山田涼介演じる出所した異父弟・矢代穣(ジョー)が途中で合流し、そこから物語があらぬ方向へ動き出す。

映画自体、ユニバのアトラクションかなくらいの興奮で大いに楽しんだのだが、本記事の主眼は山田涼介1人なので、映画そのものの感想はここでは割愛する。感想を述べよと言われても、映画批評の知識のない私には「面白かった!!!」しか言えない。面白すぎてチケット代2000円じゃ足りんわと思ってパンフレットとキーホルダーを買ってしまった。観てください。

矢代穣は、原田眞人監督の強い想いによる山田涼介への当て書きだそう。2021年公開『燃えよ剣』でやはり山田涼介が演じた沖田総司を現代に生まれ変わらせるコンセプトとのことなので、『BAD LANDS』の数日後に『燃えよ剣』も観た。あの爽やかな沖田の何をどうやったら穣になるのかわからない……! 穣は沖田というよりやっぱり山田涼介なんじゃないだろうか。

『BAD LANDS』、あるいは山田涼介でパブサすると、「こんなにうまかったなんて」「こんな演技もできるだなんて」「新しい一面」「憑依」諸々の感想がヒットする。個人的には、「何を今さら」だ。『グラスホッパー』の蝉から、確かに表現の幅は大きく広がっているが、目指していることは変わっていない。私は矢代穣を見て「山田涼介だ」と思い、山田涼介を見て「あの頃のままだ」と思った。

それは山田担を降りた時から今まで私がすっかり忘れていたことだった。大学に入り、身の回りのことも学校でのことも、ほとんどのことを自力で自発的にこなさなくてはいけなくなって、日常に隙間がなくなったから考えられなくなっていたことだった。だから私は素直に「負けた」と思った。詳しくは後述する。


先に細かい点を見てしまおう。「あの頃のままだ」とまず強く感じたのが賭場のシーン。序盤は勝っていたもののだんだん負けが込んでいき、穣の表情が絶望と焦りに満ちていく。この目。この目だ。大きな目から光がなくなり、黒目の奥に粘度の高い闇が立ち込める。私が初めて山田涼介をスクリーンで観た『暗殺教室』でも、『グラスホッパー』でも、山田涼介は目の芝居がうまいと評されていた。全く同感だ。

そして特筆すべきは貧乏ゆすり。苛立たしげに足を揺らすシーンはいくつもあったし、ネリが電話に出ている間にはテーブルを指で叩き続け、橋で仲間を待っている時には上半身をゆらゆら揺らしていた。『燃えよ剣』では土方歳三(演・岡田准一)の田舎者歩きが印象的に使われている。『BAD LANDS』のネリの軽いフットワークも、そして穣の貧乏ゆすりもおそらくは原田監督の意図だろう。関西弁の声も含めて、身体性というものをものすごく重視している監督なのではと思う。

しかしこの上半身を揺らすところ、左右揺れではなく前後揺れなのが非常にキた。身体感覚がリアルすぎる。ほかでもなく小さい頃の私には、体を前後に揺らす癖があった。今はもうなくなった。今調べたら、自閉スペクトラム症児に多いロッキングという行動らしい。へえ〜。どこまでが原田監督のプランで、どこからが山田涼介のプランなのかはわからない。ただ、山田涼介の消化力がえげつない。揺れる身体の感覚が生のまま観る側に入ってきて、身体中がびりびりいいやがる。

仲間とともに暗殺の仕事を頼まれ、出向いたはいいものの怯えて撃てない、情けない穣も良かった。あれは土方と沖田のサービスシーンだから前世の盟友を撃てないのだというメタな設定もあるが、それ込みでもやはり情けない山田涼介は人間臭くて良い。いつも通り何でもできるかっこいい役回りをやるよりも、よっぽど本質が光る。原田監督の『検察側の罪人』も公開当時に観たが、あれも情けない木村拓哉がほんとうに良かった。

山田涼介は、そもそも普段から何をするにも言い訳の多い、ちょっと情けない人だった。グループの特典映像やバラエティ番組で何かチャレンジをする時、自分の番が来たら、失敗した時の保険をかけてべらべらと言い訳を並べていた。「ビビリ三銃士」なんていう企画もあったっけか。


しかしそんなことも瑣末な点でしかない。全ては(穣の)ラストシーンに集約される。ラストシーンについては、私が言葉にしようとすると本当に変な話にしかならない。だから変な話をしているなと思って読んでほしい。

ラスト、かつて秘書を務めていたネリに暴力を振るっていた胡屋という経営者を、穣は銃殺しに行く。プレゼン撮影の準備をする胡屋を吹き抜けの階上から1人見下ろす、山田涼介の影を目にした瞬間、私は「私がいる」と思った。高校の校舎にいるあの頃の私だった。ガラス張りの渡り廊下から昼休みの蟻のような生徒たちを見下ろす私であり、誰よりも早く体育館から教室に走り帰ってきて誰も来ないうちに体操着から制服に着替える私であり、しんと静まり返った講堂裏をゆっくりと歩く私だった。

あの頃、私を取り巻いていたのは世界だった。ぼうっとしていれば授業は勝手に進んで勝手に終わり、家に帰れば母親がご飯を用意してくれていた。自分で進めるべき駒など何もなく、ただ問題を起こさずテストから入試までを攻略していればよかった。世界は安全で、静かで、踏み入る隙がなかった。私対世界、ただそれだけであった。

実家を出て大学に入ると、様子は一変する。全て自分で動かなければならない。SNSを本格的に始めたことも拍車をかけた。もはや私と私を取り巻く世界という構図ではなく、そこは私が自発的に参入し、渡り合っていくべき社会だった。

社会は他者と交換し合う情報でできている。情報には生身の身体性がない。私は身体の実感を極限まで薄め、他者に受け取られやすい形に再構築した「私」としてやっていかねばならない。私はそうした「私」のやり方にすっかり慣れ親しんでいた。6年もの間。

山田涼介の身体を通して、私はにわかに世界に引き戻された。山田涼介には社会がない。山田涼介は自身の身体に陶酔したまま、彼から全て等距離に存在する静かな世界の真ん中を堂々と歩き、平気で銃弾をぶっ放して逃げる。その先には死しかない。しかしそれこそ陶酔の極致だ。もう社会へ帰らなくてもいいのだから。

映画の中には世界しかない。『BAD LANDS』初見ではそこまで気が回らなかったが、『燃えよ剣』を自宅で観て、原田監督が作る変態的なまでの画の美しさにひっくり返った。人は70年も生きるとこんなに美しいものを作れるようになるのか、と……。血飛沫が飛び、生々しい傷口が大写しになるが、全て美しい。生身の人間の血潮の美しさである。

誰もが知る通り、現実はこんなに美しくない。人は地味に怪我をし、地味に死んでいく。しかし映画は美しく撮る。本来はない世界が、あたかもあるかのように。いやむしろ、その世界以外存在しないかのように。

映画は一度撮ってしまえばもう動かない。社会通念となっている科学的論理のように、四方八方から観察することはしない。今スクリーンに映った見え方、それが全てだ。しかもその唯一の見え方が、極端に美しく現実離れしている。いや現実離れすることでむしろ、現実の核心を映し出している。

「世界がそうとしか見えない」。これは精神病者の世界だ。幻覚も幻聴も、誰が「間違っている」と言おうと、患者にとっては動かせない現実だ。その時彼には社会がない。社会の中にいる人は他者の「間違っている」という言葉を受け入れ、修正する。しかし精神病者には客観的な正しさも間違いもない。ただ彼が今見ている世界だけがある。

山田涼介にうまいも下手もない。山田涼介はただ山田涼介であるだけだ。山田涼介の中には山田涼介の世界がある。映画の中で社会と切り離され、山田涼介の世界で生きることを完全に許された時、彼はそれを解放し、生まれついた狂気に還る。憑依なんてしていない。スクリーンに映っているのは全て、ただの山田涼介だ。

映画の外で山田涼介の狂気を他者の目から隠しているのは、アイドルという社会的な職業だ。しかし同時に、山田涼介が山田涼介の世界の真ん中で生き続けることを許しているのは、現実離れしたステージの真ん中に立つアイドルという職業だ。

山田涼介に客観的な評価を下すならたくさんの褒め言葉が思いつくだろう。それは彼を喜ばせるだろう。しかし山田涼介の身体はもはやそういうところにいない。うまい下手という安易な二元を飛び越え、山田涼介はただ山田涼介として在る。強烈に在る。身体がそこに在る。

こんなに単純なことが強烈になるのは、この社会では普段誰も自分の身体を十分に意識していないからだ。私も含めて。だからスクリーン上の山田涼介の身体を通して自己の身体を感覚させられる時、あまりの鮮烈さに血が湧き、血管が破裂しそうになる。エンドロールの最中からきちんと帰宅するまで、気を抜けば山田涼介を思い出して体が暴れ出しそうで、私は心臓の少し上の位置を何度も叩いて体を落ち着かせた。

それは確かに高校生の頃に何度も、いや常に体験していた陶酔の感覚だった。『グラスホッパー』を1人で観た後、映画館を出て、人混みの中を突き抜けて走った、走らざるを得なかった、何かに走らされていた、あの感覚。24時間テレビ内のスペシャルドラマ『母さん、俺は大丈夫』を居間で1人で見ている途中にそれがやってきて、2階の自室に駆け上がって七転八倒しながら両親がまだ帰ってこないよう願った夜。何度もひっそりと起こした過呼吸。あの頃私は毎日山田涼介に身体を乗っ取られていた。

今思い返せば、よく心身がもったと思う。いや、もたなかったから降りたのか。少なくとも、大学生活を送るにあたってそのままではいけないということはわかっていた。

しかし本当にあのままではいけなかったのか。社会の正しさに矯正されて、私は自己の身体感覚という、何よりも大事なものを失っていた。それから6年、山田涼介はそれを忘れていなかったどころか、ピンピンに磨き上げてきやがった。


誰にも説明ができなかったからこそ、「山田涼介? 意外!」と言われ続けて「そうだよね、意外だよね」と半ば記憶がすり替えられ、ある種の黒歴史と化しつつあった私の高校時代を、山田涼介は、矢代穣は、原田監督は地上に引っ張り上げた。私は今、とても安心している。しかしここで「ありがとう」と言うのは違う。それは社会的正しさに引きずり込む言葉だ。違う。身体はただ在るだけで、そこに正しさも間違いもない。映画の身体が私の身体を思い出させた。その機能がただ在るだけだ。



この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?