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留学記#7

大家と一緒にアカデミー賞の授賞式をみたのだった。もはや一年くらい前のことだ。彼女の親類がアカデミー賞ノミネート作の題材になっていたから、という理由だった。あの式は、確かにソダーバーグの思惑からはズレてしまって、お世辞にも良いものとは思えないけれど、わたしにとって、そして今となってはかげがえのないものだ。

大家は式をみたあとで、作品賞を取った「ノマドランド」をみてみたい、と言った。わたしはyoutubeでどのようにしてノマドランドをレンタルし、視聴すればよいのかについて教える。彼女は照れ臭そうに、いつもyoutubeで映画を観ているけどね、と笑った。わたしが教えるまでレンタルの仕方を知らなかったハズなのに、どうやってみたのだろう。

大家はその日のうちにノマドランドをみたらしく、深夜になって電話がかかってきた。彼女は、あの映画はとても寂しい、フランシス・マクドーマンドの選択がどうしても正しいとは思えない、自分だったらあの「家族」と一緒に住んでいたと思う、と言った。

わたしのようなハウスメイトはいたとはいえ、大家も孤高のひとだった。彼女自身も、ずっと昔から息子たちと離れて暮らしていた。一緒に住んでいないことにも、ふだんは寂しさを感じていなかっただろう。息子さんに対して、そんなことを話しているのも聞いた。

わたしは大家に対して、フランシス・マクドーマンドが孤独を選んだことが寂しいのか、と聞いた。わたしは彼女と、フランシス・マクドーマンドのあいだに似たものを感じていたし、だからこそ彼女にこの映画を勧めた。しかし大家は、あの選択を寂しく感じる理由が自分でもよくわからない、とつぶやいた。落ち込んだ声に、わたしはすこしショックを受けた。

それから、彼女のボロボロの車で一緒にトマトとバジルの苗を買いに行った。彼女は、庭にいろいろな花を植えてきれいにしたいけれど、今はもうそんな元気はないのだ、と言っていた。

わたしが庭仕事をしているのをみかけると、大家が庭先においてある椅子に座るのがお決まりになった。ある日、大家は電線に留まる鳥に向かって話しかけた。わたしはとなり座って、一緒に鳥をみつめる。彼女は確かに偏屈な人間で、これまで多くの人たちと喧嘩をしているところをみてきたけれど、わたしはそんな彼女を嫌いになれなかった。


*


わたしは結局、庭に植えたトマトをひとりで食べることになった。モッツァレラチーズを買ってきて、バジルとあわせてカプレーゼにする。さすがに、モッツァレラチーズまで自家製にすることはできない。あるとき「トマトは食べた?」と大家の友人に訪ねられた。わたしは一瞬驚いたが、とても甘かったですよ、と答えた。

彼女は絵が好きだったらしい、わたしは彼女といろいろな話をしたが、美術の話はしたことがなかったのでとても驚いた。旧友たちは、彼女についていろいろなエピソードを披露する。ひとりの友人は、あえてRest in pieceとはいわない、彼女にその言葉は似合わない、と話した。葬儀場には、彼女がこれまで書いた絵がたくさん飾られている。わたしは彼女の人生のほんの一瞬しか知らない。

それからわたしは、みたこともない楽器から流される奇妙な鎮魂曲を聴く。ユダヤ教徒だと言っていたので、そのたぐいのものだろうか。わたしは目を閉じ、ノマドランドで荒波を受けるフランシス・マクドーマンドのあの表情について考えていた。

アメリカに来て初めての友人は、あの表情をどう考えたのだろうか。それからふとしたときに、あの表情が思い浮かぶようになった。これから死ぬまで思い浮かぶのだろうか。いつまでも考えることが、悪いことではないのだろうか。





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