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留学記 #6

知り合いの引っ越しを手伝った。

最初は「午前中で終わるでしょう」と話していたが、今思えば私も引っ越しの経験ぐらいはあったのだ。つまり引っ越しとは、そううまくいかないことの例え、あるいは、自宅にある物の量について、予想と現実の差を再確認するためのフィールド・ワークである。

大学生の頃にたった一人で引っ越しをしたことがあったが、部屋の中に存在する物の数が予測よりもはるかに多いことを知り、その"終わらなさ"に打ちひしがれたことを忘れたか。のちに聞いた話では、自宅にあるすべての物品を総合すると、どうやら家の総体積とほとんど同じになるか、それを少し超えるくらいになるのが一般的だという。

すなわち、我々がふだん家で日常生活を送れているのは、知覚の歪みが生み出す錯視のためである。さて我々も例にもれず、レンタルしたトラックが大きすぎるのではないかと最初は議論した。しかし、むしろ小さかったのだ。結果的に、どうにか工夫して積み込まなければ入らなかった。

午前中で終わると考えていた引っ越し作業は、積み込みだけで午後2時までかかった。特にクイーンサイズのマットレスは持つところもないうえ、その圧倒的な質量にひっくり返った。積み込みが終わったタイミングで"お疲れさまでした"と励ましあったが、実際はこれを降ろす作業があるのかと考えざるを得ない。なんと新居は二階にある、とのことだ。

ミスティック・リバーに沿って積み込みが終わったトラックを走らせていると、急な坂道の中腹にある新居がみえてきた。トラックを停止させると、まず運搬中に滑らないように雪かきをする。しかし、雪はすでに凍り付いていて、それだけでも骨が折れた。ようやく雪かきが終わると、荷物を新居に入れる作業に移った。意を決してトラックの荷台のドアを開けたが、結果的にこれが致命傷になった。

二階に荷物を運ぶのは思ったより大変だった。あまりに重い荷物は、一段ずつ階段に引っ掛けながら運ばなければならない。半分ほど運んだところで、トラックの位置を逆にするアイデアが提案された。そこでトラックを動かすために荷台のドアを閉めようとした。しかしドアについている鍵が上部に引っかかって、どうやっても降ろせなくなっていた。

トラックのレンタル業者に確認したところ、よくあるトラブルのようだった。ドアの構造から考えて、引っかかる危険があることは容易に想像できるのだが、この国では確かにあり得る。一時間くらいで修理の車が向かうと連絡があったが、実際には三時間後に来た。もちろん、これもあり得る。

車を待つあいだに、荷物をすべて降ろすことにした。さすがにドアが開いたままトラックを移動できないので、運搬路を変更せずに運ぶことになった。最後の方は手の力が完全に消失してしまったので、私は室内の配置を担当させてもらう。ようやくすべてを運び終わったとき、おたがい握手で讃えあった。アメリカの慣習が、身体に浸透しつつある。

引っ越しが終わって、さらに一時間ほど修理の車を待ったが全然来ない。さすがに日も暮れてきたので、私はひとりでUberで帰ることにした。

Uberは20分くらいかかって来たが、その頃には路面が完全に凍結していた。車はトラックの前で動けなくなっていた。ハンドルを切ると滑ってしまう。Uberの運転手が、トラックがなければゆっくり前進できるからどけてくれと叫んだ。しかし荷台は完全に空いたままなので、トラックを動かしていいか分からない。車がほとんど通らない住宅街だったから助かったが、もし後続の車が来ていたら更なるトラブルになっていただろう。

私の方はというと、凍り付いた路面のせいで2メートル前方の車にすらたどり着くことができない。どうやっても一歩目で下へと滑ってしまうのだ。それでも運転手は、とにかくお前は車に乗れ、とせかしてくる。追い詰められた私は、路肩に積もった雪を足掛かりにすこし坂の上のほうまで登ってから、ケツで路面を斜めに滑って車に接近することにした。アメリカのさむいさむいマウンテンことボストンで、ひとりペンギンレースである。

マリオがさむいさむいマウンテンでペンギンレースをする様子

タイミングよくドアノブを掴めたのだが、なんと車には鍵がかかっていた。私は、路面に座りながらあけてくれと窓を叩く。鍵が外れる音が鳴ったので、ドアを支えにして車内に潜り込んだ。しかし、前にトラックがある状況は変わっていない。運転手はずっとスペイン語で怒っている。私の第二外国語はスペイン語だったが、教養科目は何の効果もなかった。

しかし、車内に入った私は安寧を手に入れていた。Uberの到着場所を、スターバックスの前に設定していたのだ。大仕事を終えたあと、暖かいコーヒーを飲む。これで十分ではないか。

そこからさらに30分くらい経って、ようやく修理の車がやってきた。サッと荷台のドアを直すと、こうやって閉めるといいんだよ、というアドバイスをして豪快に笑う。運転手はそれをみてまた怒る。私は靴を脱いで冷え切った足を触っている。コロナ対策のために、車の窓がずっと開いていた。

結局Uberが目的地に着いたのは、閉店時間の15分後だった。スターバックスの店内はすでに暗く、店員が清掃作業をしているのがみえる。近所のお店を探すが、どこも開いていない。とりあえず、怒っていた運転手にチップを多めに払っておいた。こんなときにできるのは感謝くらいだった。

その足で、私は研究所へ向かうことにした。培養している細胞のメンテナンスがまだ残っていたからだ。研究所への道ももれなく凍結していて、油断しているとすぐ滑ってしまう。疲れた体を集中させようとするが、足の感覚は完全になくなっていた。

スマホが鳴る。通知画面に運転手のお礼が表示されていた。下を向いたせいか、マスクでメガネが曇ってそれもよくみえない。スマホをポケットに入れ、誰もいない道路をふたたび歩き始めた。滑らないようなるべく丁寧な足取りで、こんな面白い一日はめったにないだろうと思いながら。

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