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占星術の歴史

占星術は、太陽系内の天体の位置や動き等と人間及び社会の在り方を経験的に結び付けて行う占いの一種である。

西洋占星術のほか、インド占星術や中国占星術などがある。

現代日本のスピリチュアルブームにおいての占星術は、主に西洋占星術の流れを汲んだものであるため、本ブログの趣旨に従って西洋占星術に範囲を絞ることとする。

西洋占星術の起源は、古代バビロニアである。

古代バビロニアの天に対する関心は、ハンムラビ王朝の前のラル サ王朝(前2025-1770年頃)から特にはっきりと見られるようになった。

古代バビロニアの宗教では、天には神々が存在しており、地上の人々と交信をすると考えられていた。

当時の大規模な天体観測により、太陽と月、そして水星・金星・火星・木星・土星の七天体が発見され、星々は神々と対応し、それを基にした暦(太陰太陽暦)が生み出されて神事や祭りとも結び付けられた。

天に現れる星々の様々な現象は地上の人間の営みに影響すると考えられ、天文学は次第に占星術的な様相を呈するようになる。

天が地に影響を与えるという思想は、やがて秘教の主軸となる思想である大宇宙と小宇宙の照応の原型となっ た。

紀元前1000年頃には、占星術のまとまった知識が現れ始めたが、天に現れる予兆(オ ーメン)は星に対応する神々の意志を知るためのものとして活用された。

この頃の占星術 を、現代の個人の運勢を占う宿命占星術と区別して「天変占星術」という。

オーメン記録の集大成としては紀元前7世紀頃のニネヴァのアッシュールバニパル王の古文書館で見つかったエヌマ・アヌ・エンリルが有名である。

古代の占星術は庶民とは無縁の帝王学であり、天変占星術は国家の最高機密であった。

紀元前5世紀頃になると、バビロニアでさらに精密な天文学が成立した。

紀元前410年のバビロニアの楔形文字は最古の宿命占星術とされており、それは貴族の生誕時の星の位置や配置からその子の将来を占うというものであった。

この頃から宿命占星術の基本である黄道十二宮が誕生してきたと推測されている。

バビロニアの占星術は次第に古代ギリシャにも流入し、ヘレニズム期になるとエジプトのアレクサンドリアを中心にシンクレティズムが起こり、占星術の発展と全世界への拡大は 一挙に加速することとなった。

紀元前2世紀頃からはホロスコープと呼ばれる天体の配置 図が現れるようになり、サインやハウスといった要素と共に現代の西洋占星術の基礎が出来上がっていった。

紀元前後になると、占星術はローマ帝国初代皇帝アウグゥストゥス(在 位前 27-後14 年)によってローマ帝国の宮廷でも行われるようになり、後継者のティベリウス帝(在位後 14-37 年)は、宮廷占星術師を正式に抱えた最初の皇帝となった。

この頃に、ローマの詩人マニリウス(後 1 世紀)によって占星術の理論書「アストロノミ カ(Astronomica)」が書かれ、その後多数の占星術の著作が書かれることとなった。なかでも起元後2世紀のアレクサンドリアの地理学者・天文学者であるクラウディウス・プト レマイオス(後 83-168 年頃)が書いた「テトラビブロス(Tetrabiblos)」は、占星術を体系化し後世にも大きな影響を与えた。

やがてローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位後306-337年)がキリスト教を公認し、 テオドシウス帝(在位後 378-395年)によってキリスト教がローマ帝国の国教となったことを皮切りに、非聖書的であった占星術はキリスト教会から異端視され、衰退の一途を辿ることとなった。

長い期間水面下に留まらざるをえなくなった占星術が復興を遂げたのは、12世紀ルネサ ンスと呼ばれる時代であった。

この時代から、ビザンチン時代にインド・アラブ文化を中 心に保存され洗練されていた多くの占星術書が、ヨーロッパでラテン語に翻訳された。錬金術や魔術の復興も同様であった。

14-16世紀のルネサンス期にも順調に発展を続け、 大学でも講じられるほど普及した占星術であったが、紀元後1543年にコペルニクス(後1473-1543 年)の「天体の公転について」が発表されたことによって、それまでの地球中 心説の宇宙論が、太陽中心説の宇宙論に革命的変容を遂げて大打撃を受けることとなった。

それまでの占星術の大前提が崩れ、太陽と月が7惑星から外れて地球が惑星の一つに加わることとなったのである。7天体ではなく、6天体となったことで占星術は全面的な改定 を余儀なくされることとなった。

また、惑星間の距離もそれまで考えられていた宇宙論よ りも遥かに大きいことが判明し、星辰の地上への影響自体が疑われるようになっていった。 人々の中には、我々は星の影響からついに解放され、宿命からまぬがれたのだと思う者が 次第に増えていった。

また、アイザック・ニュートン(後1642-1727年)による、万有引力の法則の発見と天体力学の誕生により、太陽系の天体はすべて人体に重力を及ぼすが、その程度は太陽が圧倒的であり、太陽と月以外の惑星の影響はほとんど無視できるほど小さいものであることが判明した。

これらの17世紀の科学革命によって占星術は、知識人のあいだから「科学から脱落した」 と見なされ、明確にアストロノミー(天文学)とアストロロジー(占星術)という区別が 付けられることとなった。

さらにこの頃から使われるようになった天体望遠鏡によって、 1781年に天王星、1846年に海王星、1930年に冥王星が次々と発見され、惑星の数がさらに変動して占星術師達に理論の修正を余儀なくさせることとなった。

支配階級である王族や貴族、知識人達の間から脱落した占星術は、第二次衰退の道を辿ることとなった。

しかし、大衆の間では生き延びていき、19世紀末の「神智学協会」 によって、占星術は大衆を中心に完全復興を遂げることとなる。

神智学協会の会員であったアラン・レオ(本名:ウィリアム・フレデリック・アラン)(後1860-1917年)は、科学と共に衰退していた占星術を神智学と融合させて、大衆向けに復 興させた立役者である。

彼は占星術マガジンという雑誌を発表し、ホロスコープを作成して個人のチャート診断を行うというサービスを行った。これは人気を博し、様々な占星術 関係の著書を出版することとなった。

アラン・レオは太陽宮占星術を考案したが、その根 底には神智学の影響による古代の太陽神崇拝があった。彼は「近代占星学の父」と称され、 その占星学はニューエイジや現代スピリチュアルに継承された。

したがって、現在日本で流行している占星術の多くはアラン・レオが体系化した理論が元 となっているものであり、伝統的な古典占星術に多くの再解釈を加えたものである。

また、神智学協会メンバーのアリス・ベイリー(後 1880-1949 年)は、神智学の周期的歴 史観と占星学を融合させ、近い将来「魚座(パイシス)」の時代から「水瓶座(アクエリアス)」の時代への転換が起こると主張した。

これがいわゆる1960年代末頃からアメリカ のヒッピー達を中心に爆発的に広まることとなった「ニューエイジ(New Age:新時代)」 思想の源流の一部を形成することとなった。また、アーケイン・スクール(秘教占星学) を創立し、ニューエイジの潮流と共に後世に大きな影響を与えることとなった。

現代日本ではこの近代西洋占星術の流れが、ニューエイジを経てスピリチュアルブームと して流入し、多くの占星術師が誕生している。

以上が占星術の大まかな歴史と現状である。
以前の記事と重複する点も多いがご容赦頂きたい。

占星術の具体的な手法については様々なものがあるが、本ブログの趣旨からは外れるために詳述は省く。詳しくは各専門書を参照頂きたい。


●主要参考文献
(矢島文夫「占星術の起源」2000)
(S.J.Tester 著, 山本啓二 訳「西洋占星術の歴史」1997) (凸版印刷印刷博物館「天文学と印刷 : 新たな世界像を求めて」2018)
(中山茂「西洋占星術史 : 科学と魔術のあいだ」2019) (中山茂「占星術 : その科学史上の位置」1979)
(鏡リュウジ「占星術の文化誌」2017)

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