ひとりで飲んでたあの頃。もう今は戻ることはないけど
青春時代を過ごした80年代の半ば頃。
思い出満載の学生時代は、まるでサザンの歌のように
「飲み明かしてた、懐かしいとき」だった。
福岡市の中心部では、夜になればいたるところに屋台が出るが、福岡市のようにおでんやラーメンをだす屋台が100軒近くもあるというのは実は全国的にみるとかなり珍しいものらしい。それでも近年は減っているのだとのこと。
僕が学生時代を過ごした長崎市では、ネットで見る限り今では1軒だけになっているようだが、僕の学生時代は市内に数軒が営業していた。
今日は「屋台」の話。
大学4年になって、僕は「一年中フリータイム」の状態になっていた。
僕が居た工学部では、最終年(一般的に4年生のとき)は卒論作成で先生のもとにつくため、研究室に所属することになっていた。ただし、そのために必要な単位数があるわけだが、3年の期末試験で僕はその単位があと4単位ほど取得できず、留年が決定した。
結果、4年生の間は、その不足分の授業に出るだけとなり、週に2コマほど授業がある以外はなんにもないという状態だった。
そんな自由な時間が一年も続く、そんなことはその後の人生にあるわけもなく、僕はその時間を謳歌していた。
僕の人生の中で、この一年はなにしろ特別な一年になった。
そのころは、かねがね行ってみたかったところに、ひとりで片っ端から行ってみるというのが僕の楽しみだった。
そのかねがね行ってみたかったところというのが、基本的に社会人の大人が行くようなお酒を飲むところだ。
学生の街というのは、学生相手の、つまり学生ばかりが行く店というのがたくさんあったので、普段はそんなところにしか行かない。だいたい、先輩に連れられて行って店を覚える。そして、いつもそこに行く。
学生相手の店だから、もちろん学生ばかりだし、学生の店独特の雰囲気がある。
それはそれで楽しかったのだが、でも、やはり映画やドラマで見るようなおしゃれな店や大人の店は別世界に思えて、まだ子どもだった僕は、大人の世界にあこがれて、普段の枠を飛び出したかった。
その頃、行ってみたかった場所のひとつが、「屋台」だった。
「屋台」でひとり飲みをしたかった。
長崎のお諏訪さんの下にその屋台はあった。
初めて行ったときは緊張した。
大学4年とはいえ、まだ22歳の若造。
店の人、周りのお客さんに「見られてる」と超、意識しながら、
でも、きょろきょろしていることを悟られないように
ゆっくり周りを見回しながら、長椅子に腰をかけた。
かねがね屋台で頼みたかったのは、日本酒とおでんだ。
まず、日本酒を注文する。
「冷や?それとも燗?」
と訊かれる。
しまった。それは決めてなかった。
どっちも魅力的だ。どうしよう。
そのころは多分秋めいていたころだった。
冷たいより少しあったかいやつがいいかな。
「お燗でお願いします」
すると、店の主人が、おもむろに、棚からアルミの燗つけ器をつかんで、一升瓶から日本酒を注ぐ。
それを四角いおでん鍋に入れる。ひっかけるところを鍋の淵にかけている。
じっとその様子を眺めながら待っていると、
しばらくして、僕の目の前に、皿が敷かれた枡が置かれ、
その枡の中にコップが置かれる。
そして、燗つけ器から、コップに注がれる。
すりきりで注がれる。
少しだけ溢れる。
「これかー」
「テレビで見たことあるー」
このすりきりで溢れて枡に少しこぼれるこの情景。
「これを一度見てみたかったんだ」
そう心の中で言いながら
顔は少しほころんでいる。
実際に経験するのがなにしろ楽しい。
次におでんを注文する。
名前をはっきり覚えていないのだが、
天ぷら(長崎ではすりみを揚げたかまぼこを天ぷらと呼ぶ)の外側に糸こんにゃくがついていて少々大き目のやつ(かすかな記憶では多分「ばくだん」という名前だった気がする)がおでん鍋のなかに見えて、それを頼んだ。
なんとなく頼んだにしては、これが意外にもおいしかった。
おでんをつまみながら、日本酒をちびちび飲んだ。
「あーなんてしあわせ」
大人のふりをしながらも、こころは無邪気にはしゃいでいた。
でも、どっしり居座って、酔うまで飲む余裕とお金はなく、
お酒一杯とおでん一品で終了。
でも、こころにでっかい満足を得ていた。
そのあと、2回ぐらい行った。
全く同じパターンで。
結局、それ以上進むのは度胸もお金もなかった。
それでも、今も残るいい思い出だ。
そして、今心の中には、サザンの歌が流れている。
yaya(あの時代(とき)を忘れない)
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