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初めての精神科受診予約

1.精神科とは無縁の人間だと思っていた

なんだかおかしかったんだよ、ずっと。
この一年、いや、、数年?
うーん、ひょっとしたら生まれてこの方ずっとかもしれない。

この一年は特におかしかった。
頭と身体がチグハグでちょっとずつズレていくような感覚がある。
でも別に、自分は  "そういうこと"  には無縁の人間だと思っていたから特に精神科を必要としていなかった。
じゃあなぜ、予約した?
耳鼻科に行ったことがきっかけだった。

不幸自慢みたいでなんだが気が引けるが、
記録しておきたいという建前のもと
もしもしも、読んでくれている人がいたら、嬉しいな。

ゴーーっていう低い耳鳴りが1ヶ月ほど続いていた。
あー、よくわからんが、耳がやられちゃったかな?と思い耳鼻科を受診した。

「中、綺麗で音もよく聞こえてるし、圧力検査も問題ないね。
一時的なものだと思うから、大丈夫ですよ。様子を見てください。」

診察、以上。
うーん、結構長い間感じてるんだけどなぁ。

そういえば、視界が地震みたく揺れるような目眩も続くんだよな。
不眠と仮眠を繰り返してしまうし、
あ、そうだ生理も長い間、周期がおかしいんだった。

耳鼻科を受診し、身体に異常はないが症状は治らないというチグハグ具合や、
そういえば他にも色々身体が変だぞということから、
見てみぬふりをしていた心の風邪をやっと見つめてみることにした。

2. "アレ" と向き合う時が、ついにきた

2023年に入ってから仕事のことと家族のこと、
ダブルでなかなかハードな衝突や問題を抱えるようになった。
泣いたり怒ったりと忙しく心を働かせていた。

年が明けて2024年からは、ぼぉっとする日がほとんどで、無気力無関心、どこか上の空といった毎日になっていった。
「いつも笑顔で元気だね」と可愛がられるタイプなのだが、特に変わったつもりはないのに
「元気ない?大丈夫?」と声をかけてもらうことが爆増した。

やっぱり、そろそろアレと向き合う時が来たか。
いよいよ来ちゃったか!と思った。

アレ、とは。愛着障害のことである。
私は今も昔も母が大好きである、尊敬もしている。
そして、同じくらい憎い時期が数年間あった。

「ああこれで、ママと会うのは最後になるな。
もう家族じゃなくなるんだ。
寂しいけど、この選択はお互いにとって間違ってない。私たちはうまくやれなかった。」

私と母は、所謂  "縁切り"  を約束する寸前で
「やっぱりやり直してみようよ。」
「まだ、親子でいられると思う。」
という奇妙なやり取りを4、5回したかな。

やり直すにあたって私は物理的にも心理的にも距離を置くことにした。
高校を卒業したらすぐに実家を出て働いた。
電車で1時間もあれば戻れる距離だったが、
お呼ばれしてもなんやかんやと理由をつけて断った。
でも、数ヶ月に一度は顔を出すようにした。
良い距離感だった。驚くほど関係が良好になっていった。
ごくごく普通の母と娘。
お互いの体調を気遣い、お互いの家事や買い物を手伝える関係になっていった。

「よかった。私はもう大丈夫なんだ。
ママも、大丈夫なんだ。
今まで傷つけあった分、これからもいい距離で
関係を築いていこう。」

付かず離れず、持ちつ持たれつのいい関係が2年くらいは続いた。 

この時点で、幼少期からの母との関係性なども含め
自分が愛着障害を抱えている可能性にはうすらぼんやり気がついていた。
そして、母は確実に愛着障害を抱えていた。
私からみた祖母との間に。

でも乗り越えられたからきっともう大丈夫。
私たちはわざわざ精神科にかかったり、
カウンセリングを受けたりしなくても、
うまくやっていける。
"そういうこと"  には無縁の人間だよ。
そう思えていた。

3.もうこれで、母とは終わり

数年かけてやっと、母との関係は落ち着いてきていたのに私は本当に愚かだった。
また、母と距離を詰めすぎてしまったのだ。
それが2023年からの1年間。

つい最近転職した会社で、若い人を募集しているから一緒に働かないか?と母から打診を受けた。

ちょうどこの頃、私も転職活動をしていた。
でも、このいい距離感が保たれなくなってしまうのは怖くて、適当な理由をつけて何度も断った。
母は何度も誘ってくる。そうしているうち、

「私たちうまくやれるようになったし、
なんだか大人になってから
ママと一緒に何かできるって嬉しいな。」

そんな気持ちに変わっていった。
結局、母の入社から3ヶ月遅れて私も入社することになった。
私と母はペアになって1年ほど一緒に営業に駆け回った。
たまに喧嘩もしたが都度仲直りできた。

しかしまた、同じ轍を踏んだ。
本当の本当に、縁を切ることになってしまった。

最後の電話をしてから1週間ほど経った頃、
やり直そうと電話がかかってきた。
もう私としてはやり直すつもりはなかった。
疲れていたし、その前に縁切り沙汰になった時に放たれた言葉に相当傷ついていて、
また同じことがあれば、もうその次はないと腹に決めていた。

4.距離を置くことは、問題を先送りにしているだけだった

「貴方も知っていると思うけど、私は自分の母親、貴方のおばあちゃんと縁を切っている。
姉兄や親族とも。
そのせいで貴方にも辛い思いをさせたし、私もすごく辛くて寂しい。
貴方とはそうなりたくないし、貴方にこれからできるであろう家族にもそうなってほしくない。
私を憎む気持ちは痛いほどわかる、私もそうだったから。
でももう、その感情は手放してほしい。貴方が苦しむのは見たくない。
ごめんなさい。
私からは会おうといったり電話したりしない。
自分の娘とはどうしても縁切りなんてできない。
貴方から、会いたいと思った時にだけ会えれば充分だから、縁を切るなんて言わないで。」

母は嗚咽をあげて泣きながらそう言っていた。
長い長い沈黙の後、私は一言、
「わかった。」と言った。

「大好きなはずの親を憎んでしまう、苦しい感情を手放してほしい。」
そこに妙に納得できたからだ。
それからはまた、いい関係で続けられている。
長い間、許せなくて憎くてそれでも愛していた。
驕りかもしれないが、母を許すことができたのだ。
母も苦しんでいた、それを癒したくて、自分だけは娘を愛したくて、必死だったのだろう。

私はようやく、距離を置くという地雷を避けながら歩くような状態でなく、
"許した"  ことで母の仕掛けた地雷を無効化させることに成功したのである。
距離を置くということは、問題を先送りにしているだけだったのだ。

しかし、これをきっかけに私は新たな問題に直面することになる。

5.つくづく、私は根暗な人間である

母を許すことはできたのだが、
そうすると自分の存在意義について考えてしまうのだ。
歪な愛着関係で形成された人間性に、自分自身に嫌悪を抱くようになっていった。
今まで自分の優れていると思っていた部分は、
大きく欠けた部分を補填するために一生懸命、
切って貼ってとしてきたものだった。

幼少期から、自分の存在に意義を持たせるため取り繕って生きていたように思うが、母を許したことがトリガーとなり取り繕うことさえできなくなってしまった。

そして前述した通り年が明けて2024年からは
段々と体調がおかしくなっていき、無表情かテンションの高い日か、両極端になっていった。
基本的に毎日微熱があった。

そんな状態もとりあえずは無視していたが、
耳鼻科に行って改めて
「身体に  "は"  異常なしです。」と診断され、
いよいよ精神科の受診を検討するようになったのである。

6.精神科受診予約の第二のきっかけ

しかしまぁ、なかなか気が進まず予約を渋っていた。
そんな時に第二の精神科受診のきっかけが訪れる。

中島らものエッセイ、『心が雨漏りする日には』を読んだことだ。
このエッセイを読んだことがなぜ、受診のきっかけとなったかはまた近いうちに文章に残せたらと思う。

兎にも角にも、私は今月末に初めての精神科の予約を取り付けた。
問題の有無に関わらず、心が風邪を引いていることには間違いなさそうだから、
まずは一旦、行ってみようと思う。
餅は餅屋、シンプルな話なのだ。

ここまでが初めての精神科受診予約の私の記録。
また診察後、記録したいと思う。

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

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