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稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――23回

前回はこちら。

23. 別々の世界線に生きる男との、2つのいざこざ

 人間、生きていれば様々な関係性の中で、誤解したり誤解されたりという経験は誰でもするだろう。相手はこう思っていたが、自分にはそのつもりはなかった。その逆も然り。それどころか、本来、相手と完全に思惑や感情が一致することなど殆どないのだから、誤解や思い込みだらけで生きるというのがスタンダードなのかも知れない。しかし、できればそれは避けたいから、「相手がどう考えているのかは分からない」「自分の考えは伝わっていないいかもしれない」という大前提を設ける以外には、「そんなはずじゃなかった」を回避する手立てはないかも知れない。兎も角、私と稲田は最初からずっと異なる世界線を歩いていたようなもので、劇をやるだのやらないだの結婚を視野に入れているだのいないだの、考えてみれば何から何まで違っていたのだが、本当にびっくりするような世界線のずれは、別離の後で起きたのである。というより、先に言ってしまうと、私が過ごしていた世界は「稲田と別れを済ませた世界」で、稲田の住んでいた世界では、まだ別れは起きていなかったらしいのである――どういうことか。無論、幾ら稲田がダメ男でも、別れの話し合いに居合わせた記憶を失ったとかではない。

 さて、その年――我が家には思わぬ収入があった。顔も知らない親戚が亡くなって、その人は独身だったため、親戚に遺産が回ったのだ。その人にはなんだか悪いが、思わぬ収入ができて、私と母は大喜びである。人間、そんなものだ。うん。喜んで受け取りますよ、当然じゃん!!そして、勿論3.11があった影響もあるだろうけれど、明日生きているかもわからぬ身だ。貯金などに回すより、金も時間もなく諦めていた大胆な海外旅行に行くことにしたのだ。今考えても、体力的にもう一生できないような詰め込みまくりの長期旅行だった。ロシア、ウクライナ、アルメニア、チェコ、ドイツ、スイス、スペイン……。勿論遺産だけでは足りず足が出たが、本当に行って良かった。一度で完全にこなすのは難しかったので、夏編、秋編といったように分けて行くことになった。そして、最初の旅行の前と後とにそれぞれ稲田とのトラブルがあったのだ。ただでは別れないという怨念を感じる……。

 さて、この頃、母は地震恐怖症になってしまっていて、また大地震があったら空港まで辿り着けないかも知れないから前夜は空港近くのホテルに泊まると言ってきかなかったし、確かにその方が出発当日の朝少しだけのんびりできるのも事実だ。そういうわけで、出発前夜は空港近くのホテルに移動してゆったりするというスケジュールで、そこに稲田が入り込む余地は別段なかったのだが、時々お互いの近況報告くらいはしていたせいで、私は旅行の話もうっかりしてしまったのだろう(どう話したかは覚えていない)。すると、どういう理屈でだったかも忘れてしまったが、稲田は「見送りに行きたい」と言い出したのだ。見送りと言うのは、厳密には空港のチェックインカウンターの前くらいまで見送って、いってらっしゃ~いとやるやつだと思うのだが、どういう経緯でだったかはもう本当に覚えていないので詳細を書けないけれど、稲田は出発前夜にホテルのロビーに来るということになった。一つだけ断言できるのは、私からぜひ来てほしいとは一度も言っておらず、稲田が行きたいというから、断らなかっただけという点である。稲田お得意の、自分がやりたいことを善意で飾って有難く思われたいというあれだったのだろうと今ならわかるのだが、当時の感覚では、断るのは悪いという気がしていた。
 とにかく、そういうわけで、大旅行に出発する前夜くらい部屋でゆっくりしていたかったのが本音なのだが、稲田が到着すればフロントから連絡があるだろうから着信を待ちながら夕方の時間を過ごしていると、稲田がやってきたので、にこやかに彼を出迎えにいった。最初は、私たちは穏やかに色々と話をしていたと記憶しているのだが、何かがきっかけで雲行きが怪しくなった。どこでおかしくなったのかは分からないが、そもそも稲田にとっての本題はその、雰囲気がおかしくなるような話のほうにあったのだから不可避だったのだろう。多分だが、いつぞや「外交官になって世界中に君をつれていきたい」と夢想を口にした彼は、私がさっさと母親と二人で大旅行に行ってしまうことに何ともいえない複雑な思いを抱いていたのだろう。ひょっとすると、そんなことを言ったかもしれない。ただ、どんな言葉をやり取りしていたかは覚えていないから何ともいえないが、やがて、彼は涙ながらに、切なそうに未来の話を始めていた。自分がしっかりしていなかったこと、これからはしっかりしたい、頑張りたい、とかそんな話だ……。どういう訳か、私ももらい泣きというか、彼の哀れな様子に同情を誘われたのかなんなのか、気づいたら涙が零れていたのだが、それでも次の言葉には耳を疑った。

「いつか……俺たちがもう一度っ……付き合うとき、に……(グスッ)」


 え??もう一度付き合う???そんな話、初耳なんだが……待て待て。はっきり別れたよね?
 幸か不幸か、その時私もなんだか知らんが泣いていたので、センチメンタルな空気が漂っていたおかげで、そんなに冷静にすっぱりと「はあ?何言ってんだお前」というような言葉は出てこなかった。ただ、勝手に私が彼を待っているものだと信じ込んで、そのために頑張ると言い出している彼を見て何か焦りを感じたし、早く彼が間違っていることを教えなければいけないと思ったし、その時は可哀そうにも思っていた。彼が勘違いをしている以上、残酷なようでも伝えなければと思った。

「ごめん、でも私もう付き合っている人が……」
「…………」

 
 本当を言えば、付き合っている人がいるかいないかは関係がない。しかし、稲田にとって、女と付き合うというのは女を所有することであるから、「誰かと付き合っている」と突き付けられるのは、イコール「この女は既に誰かのものである」と突き付けられたも同然であるから、一番ショックなことであっただろう。私がこの時、単に「いや、もう付き合う気はないから」とハッキリ言っても食い下がられたかも知れないが、「既にあなた以外のものになりました」(と、価値観の違う私はそんなことは思っていないが、飽くまでも彼にとっての意味合い)と告げられたのは効果が大きすぎたらしい。
 確か、チェーホフじゃあないが、脚本だったら「間」とはっきり書かれそうな空白があって、やがて稲田は泣き顔でぐちゃぐちゃに怒り出した。別に殴られたわけでもないし、「裏切者!売女!(なんと、変換できない……)」と罵られたわけでもないが、ひどいとか信じられないとか、俺のこれまではなんだったとかなんかもう色々思いのたけをぶちまけられたような記憶はあるのだが、兎に角稲田が激昂して泣きじゃくっていて、感情的な言葉で私を責め続けたということだけが確かな記憶である。
 つまりこういうことだ。私は、稲田に別れを告げ、別れ話が済んだ時点で、ちゃんと別れは完了し、二人は別々の道を歩いていると認識し、他の恋愛にも踏み出してみていた。しかし、稲田にとって、私が切り出した別れ話は恐らく、まだ稲田を想うものの、あまりの稲田の不甲斐なさを案じた私は断腸の思いで、いつか成長したお互いが手を取り合うために一度冷却期間をおくことで稲田に試練を課した……といったような、そんな事情で不本意に切り出されたものだったらしいのだ。だから、私が他の男を作ったなどというのは浮気と等しい仕打ちであり、許せない所業だったに違いない。が、勿論私にしてみれば謂れのない話である。そもそも恋愛は自由だから、彼と付き合っているときに別の人に気を惹かれて、他の人好きになったからバイバイ!というのも別にそこまで残酷な仕打ちではない。カルメンじゃないが、恋愛は自分の意志でどこかに固定させておけるものではない。しかしこの場合、私は、まず稲田が無理になって別れて、新たな出会いが訪れたので先に踏み出してみただけなので、より一層何も悪くはないはずである。しかし、稲田からすれば、再構築目指して頑張っている自分の気も知らないでさっさと他の男を作っていたなんてひどい女だ!というわけである。因みに、これは最近知ったのだが、彼は自分の母親に「ソラリスが他の男を作って自分をふった」という風に伝えていたらしい。手前がクズ過ぎて嫌われたと正直に申告するには、彼はマザコン過ぎたらしい

 そういう訳で、別れは済んでいるにも関わらず、よりを戻した訳でもないのにけんか別れにも等しい別れその2を経験し、某主人公の言葉を借りると私の心に「後味のよくないものを残した」稲田を置いて、翌日は楽しく旅行に出発したわけである。

 さて、この夏の旅行の後、一度帰国すると、日本では色々なことがあったのだが(サークルの後輩が亡くなっていたりもした……)、稲田からも結局お詫びかなにか、兎に角連絡があったと思う。直接会ったかどうかは忘れてしまったが、兎に角私は「別れた」という事実の存在する世界に生きていたから、もうそれ以上はなにもないものと思い込んでいたのだが、稲田の方はそうではなかった。
 確か、旅行がどうだったとかそんな話を稲田に、多分メールか何かでしたとは思う。ひょっとすると電話だったかも知れない。旅行先で母が足を大けがして、まだけがの名残があって歩くのが少し大変であるというような話もした。このことは重要なので、読んでくれている人には念頭に置いてもらいたい。
 次の旅行に出発する少し前、ある日、どこかに出かけて行った母から笑顔で告げられた。なんと、稲田と会ってきたのだというではないか。え、なにそれ。しかも、母が笑いながら語った内容が衝撃的過ぎた。
 まず、稲田から、私のことで話し合いたいと連絡があったのだと。要は、別れたくないから間を取り持ってほしいということだったのだと。そして、稲田の都合で指定した喫茶店に母は"歩いて"いき、そこで母は一応私自身が別れたことを全く後悔していないし付き合いたがっていないということを告げ、ついでにうっかり稲田がいい仕事コースにつけなかったことをはっきり指摘してしまったとか、次々と予想もしていなかった事実が降りかかってきたのだが――極めつけは支払いの時だ。
 母はその時丁度良い小銭を持っていなかったので、1000円かなにかを出したのだという。しかし、稲田はそれを貰って出せる丁度良いつり銭がなかったらしく、結局母が50円程多く出すようなことになったらしいのだが……いやいやいや。ちっちぇー話のようだけど、いやいやいや。
 まず、別れを受け入れられないお前の都合で、足を怪我していることを知っているのに、お前に今までさんざん飯と寝床を提供してきた家主を呼び出したんだよな???もう大学も卒業して、就職浪人中とはいえ外交官になって世界中連れまわる位の気概があった男なのだから、コーヒー代くらい、礼儀上出すべきではないのか。私も、サークルのOBに用事で呼び出されたことがあるけれど、当然コーヒー代などはおごりであった。稲田の場合、完全に自分の我儘な要求に応えてもらう形なのだから、コーヒーどころか昼食を奢っても良いくらいだと思うが、割り勘どころか、多く出させて平気でいるというわけなのである。
 この時、私はさすがに怒りを覚えて、すぐに稲田にメールをした。表現は、↑のように険しいものではなかったけれども、彼があまりにも礼儀知らずで筋が通っていないことをはっきりと指摘した。母は、まさかそこまで私が大きくとると思っていなかったらしく、「え、いいよやめときなよ」みたいな感じであったが、そういうわけにはいかない。私が連れてきたクズ男が家族に迷惑をかけたのは事実だし、だめなことはだめだと指摘するべきだと思った。きっと、彼は恥じ入ると思ったのだが――私が甘かった。
 彼からの返信には、恨みつらみがどろどろとあふれ出すような文言が溢れていた。「あなたの悪罵」という表現だけがはっきりと記憶に残っているが、兎に角、自分がいかに傷つけられたかということだけが綴られている。そして、これはもう旅行に出るほんの数日前…せいぜい2日前とかだったかも知れない。ああ、本当にくだらない男と付き合って、沢山の時間を無駄にした!!と、私は残念な気持ちでいっぱいになり、稲田とはもう二度と関わりたくない!と心底から思ったし、がっかりした。本当に失望であった。
 しかし、流石の稲田も一応人の子なので、次の日、稲田から自分の振舞を恥じ入るメールが届いていた。よくわからないが、50円はポストに入れておいたとかなんとかそんなこともあった気がするが、細かくは忘れてしまった。50円のことで怒っているのではなく、本当なら私に無断で母を呼び出すべきではないし(考えても見て欲しい。ふられた男が元恋人の家族に危害を加える話もよくあるではないか)、呼び出したのならせめて飲み物くらいはこれまで世話になった相手に対して負担するべきだというのに、おまけに多く払わせるなんてキチガ×なの??と言いたくもなる。稲田も、「小さい自分」をむき出しにしたことが恥ずかしかったのだろうが、もう誤魔化せはしない。私はこの時、赦す返事をしたのか、怒ったままの返事をしたのか、返事などしなかったのか、分からない。この時はもう、ただただ、残念な男と付き合ってしまった、あんな男だったなんて!!という気持ちばかりが残り、旅行第二弾に出発する機内では、「ああ早く異国の土を踏んで、全部忘れたいわー」という心境であった。


 この辺りが稲田の真骨頂であったが、稲田との関りはこれでも完全には切れなかった。なので、このシリーズはまだ終われないのだが、凄く書きたかったことを書けたので、次の更新はだいぶ後のことになるだろう。とりあえず、結構すっきりした気分である。



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