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幽霊とは

「幽霊っていると思う?」

私はふいに投げかけられたその質問の返答に窮した。”存在”の定義が曖昧だったからだ。
この人の言う「いる」は「存在それ自体」について言及しているのか?それとも「存在を前提とした現象の有無」を聞いているのだろうか?
幽霊という言葉を使っている時点で恐らく怪奇現象と換言可能な後者であることは推察される為、ここで私は「いると思うよ。」と答えるのが妥当なのだろう。

昔はよく河童が散見されたそうだ。翻って現代ではその噂を耳にする事すら無くなった。
恐らく人々の共有する概念に内包される、または類似する要素を体験したとき、それが始めて名前のついた現象として認識され、”幽霊”が現れるのかもしれない。
畢竟、「前提として幽霊が存在し、現象が確認される」のではなく、「現象が先に共有されていて初めて幽霊が認識される」というある種のコペルニクス的転回解釈である。「皆が忘れない限り、あいつはいつも胸の中にいるんだよ!」という美辞麗句は 案外存在の本質に迫っているのかもしれない。恐らく人々の記憶から消えることで居なくなった幽霊もたくさんいるだろう。その現象はまた違う名前で象られていく。

”体験と意味を結びつける”というホモ・サピエンス独自の機能が、シンクロニシティという非合理性を合理性へ導く過程の副産物として自己防衛本能を呼び起こし、恐怖を予測した結果が人々の間で幽霊として共有されているのかもしれない。それで五感で幽霊を感じられるのだから人の思い込みの力はすごい。

これが仮に動物であったなら完全に独立した2つの点の経験として体験され、両者の意味に線は引かれない。「~が起こったら~する。」という条件式は、”体験と体験を結びつける”という学習反応に過ぎない。よって彼らはたとえ物体が空中に浮いていても、それが目の前に落下するまでは驚かないのである。

しかし、「理解出来ないものを、共通認識を用いて無理やり腑に落とす」という作業は、一見合理的に見えて実はかなり危ういところにあると感じる。「わかった。」で終わらせて思考を停止させ、それ以外の周辺を全く無視してしまう可能性を孕んでいるからだ。

確かに理解できないものを理解できないまま受け入れることは困難を極める。
理解できないものは「幽霊」のように、何かの言葉やジャンルに無理やりカテゴライズしてしまう方が遥かに簡単で、かつ理解出来たような気がして安心できるだろう。「○○が嫌いだ」「好きだ」「優れている」「劣っている」という評価を下しやすくなる。

昨今叫ばれている多様性やLGBTも、自ら言葉を作ってその檻の中で苦しんでいるという同一の構造に映ってしまう。そりゃあ言葉を作れば評価も作られるだろう。
あなたはLGBTだから認められるのではなく、あなただから認められるのだ。
私は多様性という言葉よりも、そこから溢れるあなたを知りたい。

新発売のジュースも共通認識を纏った綺麗なラベルを眺めるだけじゃ分からない。
中身を飲んでみて初めて、「他人と味覚を共有出来ない」という絶対的な孤独が生じ、だからこそ自分だけの好きや大切が生まれるんだと思う。

たまに物体が空中に浮いていたっていいじゃないか。


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