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ミュージシャンがアウトドア会社を興す起業記録7

久しぶりに武道館で初めて演奏した時のステージからの眺めを見返して、客席から見るよりだいぶこじんまりしてるな、と改めて思いました。

前章からの続きです。アメリカ・シカゴで英語にもまれカルチャーショックを受けながらも自分で選んだ道を邁進して行きます。

学生寮では、毎週末パーティーが行われてました。
それまでパーティーというものに参加した記憶がなかったので、言葉は知っていても一体何をするの?というのが気になりながらもとりあえず首を突っ込んでみました。

要はどんちゃん騒ぎの飲み会。

ビールやテキーラをラッパ飲みしながら、あーでもないこーでもないと大笑いしながら最後にはみんなダウンする(笑) 翌日食堂で真っ白な顔をした友達と朝ごはんを食べながらまた翌週には別の階のパーティーへ。

無駄な時間のように思えた毎週のこのパーティー。これが実は後で大変な英語の進歩に繋がっていたことを知ります。

三浦海岸にて 秋の夕陽

学校では、全て英語で様々な授業を受けて行きます。音楽用語も「短3度」(ドからミフラット)が「マイナー3rd」といった具合に英語ならではの表現を覚えながら、「今度の日曜日空いてる? Lawrence.Aveのナイトクラブにとんでもないドラムのやつが来るから一緒に行こうぜ」と同じクラスのMikeに誘われたのは入学して数ヶ月のこと。

英語がろくに話せない日本人の僕に特に親切にしてくれたロック好きのギタリストMikeは、話しても理解できてないと分かったのか、紙に「5月13日、6pm アパートの前で」と書いて渡してくれました。

Mikeのおじいちゃんは実はハワイの真珠湾で日本人の攻撃で亡くなった方だった、と知ったのは数年後のことでした。日本人を見たら卵でも投げつけたい気持ちのはずだろうに、彼の両親の教育が素晴らしく、許し許される、ということをとても大切にMikeに教えていたらしい。

そんな彼と車の中で何の話をしよう? ナイトクラブに行ったらどうやってビールを頼もう?と不安だらけだったのに、Mikeはゆっくりゆっくり話をしてくれて、分からない言葉を全て丁寧に説明してくれながら運転し、クラブではボディガードのように自分に付き添ってくれました。

その後、5年の間自分にとってベストフレンドとなってくれたことは言うまでもありません。

次の章では、自分にとって初めてのベースの先生、Scottとの出会いからを書いていきます。

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