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禅の思想「驢馬が井戸を覗く」~現前の意識化

更新 2024年4月8日

 これは、曹山そうざん和尚の驢覰井(ろしょせい)の話頭の考察です。禅問答には無意味の意味があり、哲学的詮索は、かえってその妙を壊しかねません。が、曹山の真意を再確認するために、私なりに説明をつけてみます。下記 1~10 項は、鈴木大拙の「禅の思想」の解説をもとに執筆し、11 項は「東洋的な見方」の解説を読んで追加したものです。

1. 話頭の概要

 まず、大拙の「禅の思想」の第二篇の「驢覰井ろしょせい」の節から、この話頭を現代的に書き下します。

 曹山和尚がごう上座に、

「仏の真法身しんほっしんは虚空のごとし、物に応じて形を現す、水中の月の如し、と言うが、応ずるとはどういうことだろう。」

と問うと、上座は、

驢覰井ろしょせい」(ロバが井戸が見るようなものだ)

と答えます。曹山は、

「悪くないが、八成はちじょう(そこそこ)だな」

という。上座が、そんなら和尚さんはどうですかと問うと、曹山は、

井覰驢せいしょろ」(井戸がロバを見るようなものだ)

とお答えになった。

 この話頭わとうの提示部に続いて、大拙は、苦難に会って安心を得たいと願う心には、必ずそれに応えるものがあるのだと説明します。2021年3月に岩波書店から発行された文庫版「禅の思想」の解説では、円覚寺えんがくじの横田管長も、この大拙の説明を拾っています。ですが、これって、少し横道に逸れてますよね。

 大拙の解説の本意は、この節の最後を見れば解ります。大拙は以下のようにこの節を結んでいます。

 「如井覰驢せいしょろ(井戸がロバを見るが如し)」は全く無意味である。無分別である。が、禅者はそこに意味を読み、無分別むふんべつ分別ふんべつする、即ち意識する。禅成立の理由は実にこの無分別を意識するところに在るのである。

【禅の思想】、第二篇「禅行為」、「驢覰井」

 この話頭のポイント、そして禅成立の理由は、「無分別の意識化」だということになります。

2. 求め-応じ、感得

 順を追ってみていきましょう。最初の曹山そうざんの問いは、「法身ほっしん機縁きえんに応じるとは、何のことか。」です。この問いの後に、大拙は、法身・報身ほうじん応身おうじんについて簡単に解説します。そして、物に応じてという「物」とは、こちらからの呼びかけのことだと説明し、その後、「私たちの願いには必ず、それに応じるものがある」と説明が続きます。この「応じるものを感得すること」を、この話頭の鍵と見ているのです。まず、大拙の応身の説明を以下に引用します。

 応身とは、法身--もっと具体的にして、仏が我らの心の要求に応じて現すところの存在または形体である。

【禅の思想】、第二篇「禅行為」、「驢覰井」

 ここで大拙は、独自の応身の定義をして、応身は、仏が私たちの求めに応じて現す「存在または形体」だとしています。これは、有情うじょう無情むじょうも含めた言い方になっていますね。その後に、「願いがあれば、必ず、それに応じるものがある」と、2ページ近くに渡って力説します。そして、以下のように続けています。

 「形を現す」というのは、虚空こくうというから形と言ったので、ただ応ずるの意にとってよい。こちらで何か感ずるという心持である。

【禅の思想】、第二篇「禅行為」、「驢覰井」

3. 映り合い・双方向性

 さて、強上座ごうじょうざの「驢覰井ろしょせい」という答えは、ロバがふと井戸を覗くようなものだということです。ただフッと覗いた、そのロバの無心の行為の中に、上座は、法身の応じがあると言いたいのかも知れません。または、ロバの目には井戸が映り、井戸の水にはロバが映る、そのように「映る」というところに法身のハタラキを見ているのかも知れません。あるいはまた、ロバが井戸を見た、有情が感受した、その意識のハタラキの出どころが法身だということかもしれません。こんな譬えでは、どうとでも受け取れますよね。ともあれ、この譬えを曹山は80点と採点したわけです。

 そして、「そんなら和尚はどうだ」との問いに、曹山和尚は「井覰驢せいしょろ」と喝破かっぱして、法身ほっしんの全体作用を表現します。北鎌倉の円覚寺の横田管長は、ここに、「驢馬の目に井戸が映っているのと同じように、井戸にも驢馬が映っているのです。」といい、「それと同じように、私が仏を念じることは、仏が私を念じているのであります。」と言います。

 この横田管長のご説明も、双方向性ということよりも、ロバにも井戸にも法身が現れているということかも知れません。管長は、大拙の「禅語を単なる無意味の文字を並べたものと見てはならぬ」という警句に従って、「井覰驢せいしょろ」に意味を見出そうとしているようです。ですが、大拙はまた、「無分別むふんべつ分別ふんべつには意味があってはならぬ。この点では、驢覰井よりも井覰驢の方がよい。」とも書いています。「禅問答は無意味なだけじゃないぞ」といい、また、「意味があってはならぬ」ともいう。「一体どっちやねん!」と聞きたくなりますよね。


4. 別解、無情からの感得

 いずれにせよ、意味を探れば、意味は出てくるものです。ここで、この話を精密に再点検してみると、井覰驢には、双方向性とは別の解釈の可能性が浮かんできます。それは、「法身からの応じは、有情にだけでなく、無情の井戸にも現れているのだ」という直指じきしです。この場合は、「願いには応ずるものがある」よりも、「応じたものを感得する(・・・・)」ところに重心が置かれます。

 井覰驢の力点が双方向性の上にないことは、この曹山の「井覰驢」という結句の後の、残りの1ページの大拙の解説からも窺えます。そこには「求めと応じ」の双方向性の話は出て来ません。その代わりに大拙は、無意味のところに意味を見なさい、分別に騙されずに、無分別の分別で世界を観なさいとアドバイスをするのです。

 「ロバが見るときには井戸も見るのだ」という意味づけ、それもいいですが、敢えて意味をつけるのなら、「有情うじょうからも無情むじょうからも、世界の一切の実働から、無分別の分別で、法身を感じ取りなさい」と読む方が良い気がします。

5. 概念以前・無分別の分別

 この辺で、一息つきましょう。これらの詮索を総括しますと、井覰驢は仏の慈悲の双方向性とか、無情から法身を感得するとか、いろいろに解釈はできそうです。でも、このような見方はすべて、分別による概念化を経過した後の見方です。つまり、驢馬をロバと固定し、井戸を井戸と固定して見ています。しかし、曹山は、このとき、主客未分しゅきゃくみぶんの法身になっています。主客未分の「しょ」の中には、ロバも井戸も入ってしまいます。ロバと呼べるロバはなく、井戸と呼べる井戸もありません。そのような不生ふしょうの場においては、ロバも井戸も「覰」も曹山も一つになってしまっていて、「覰」といっても、何かが何かを見るという方向性はなく、また、井戸から感得するべき法身もないのです。

 主客未分の現前げんぜんの個に対しては、言葉によるどのような表現も当たりません。逆に言えば、現前では、一切が一切と関係して動いていますので、どのように関係性を表現しても差支えありません。現前は分別上で意識され、どうとでも表現されることになります。ここに、無意義の意義が生まれ、無分別は分別されることになるのです。

6. 「無分別の分別」二重の意味

 ついでに、もうひとつ、ヤヤコシイ話をしましょう。大拙が「無分別むふんべつ」というときには、「現前」や「法身」そのものを指す場合と、「非合理な言語表現」を指す場合とがあるようです。最終的には同じところに通じているわけですが、ちょっと混乱しますよね。更に、「無分別むふんべつ分別ふんべつ」をいうときには、「無分別の禅意識の中から分別を打ち出すこと」を指す場合と、「非合理な言語表現に意味を見い出すこと」を指す場合とがありそうです。前者は無分別の禅意識の中から、後者は一般的な知性の上で「無分別の分別」を言うのです。このように、大拙の言葉はいつでも、読者がそれを、無の位相と有の位相のどちらのものとして受け取るかによって、意味合いが変わってしまいます。この辺が言葉の限界ですが、こうしたことが、大拙の書を難解にしている理由の一つです。

7. 分別を断ち切る活句

 どのような理屈をつけても、無分別心むふんべつしんから見れば、本当の現実を離れています。意味を見出そうとすればもう手遅れで、法身はもうそこにはいません。それでは禅は台無しです。「井覰驢せいしょろ」をどのように意味づけても、意味がないのです。実を言えば、「井覰驢」は、黄檗おうばくの打、臨済りんざいかつと何も変わりません。その無意味の表現を機に、ただちに法身に徹底するべきです。すべての意味づけを排除して、そこに無意味の意味を観ます。現前を観ます。法身を観ます。

 曹山そうざんの「井覰驢」は、法身丸出しです。彼の井戸には、ロバも、曹山も、世界も国家も、民族も、戦争も平和も、全部飲み込まれてしまいます。これを法身側からみれば、天地創造、光あれで、壮大な宇宙も何もかも、この曹山の井戸から生まれ出ます。こういうと、また、何やら意味がありげですが、ただ「井覰驢」です。これは分別識の断罪で、それがすべてで、その先はありません。

 ここでの曹山は理屈の外にあります。禅の思想も何もそっちのけで、一大方便に徹しているのです。この一幕の曹山の心を推し量れば、「ロバが井戸を覗く」、上座は常識の範囲を出ていないな。気づきを与えてやろう。「井戸がロバを覗く」のだ。これは、機を捉えた、ある意味洒脱しゃだつで、的を得た一拶です。そして、それで完結しています。

8. 「有」・存在の矛盾の解消

 さて、ここに一言書き添えておきたいことがあります。それは、多くの人に誤解を生みやすい、冒頭の、大拙の、「願いに応じるもの」についての説明のことです。この力説がここにあるために、井覰驢は、井戸と驢馬の双方向の感応同交のことと解釈されます。実は、この「願いに応じるもの」には、もっと深い、より根本的な意味があるのです。それは、この書のもう少し後の方の「能所のうしょ分別ふんべつ」の節で語られています。長いので、意味の保全に注意して、間引き編集しておきます。

 普通の見聞覚知けんもんがくちでは、分別心をこちらに置き、それに対するものを向うにおく。神を経験するという場合にも、こちらの覚知分別心に対して、独一主催の神または最高の実在を向こう側に備えつける。しかしこれでは、向こうの神(実在)もわからず、こちらの心もわからない。だが、どうしてもこのアポリアを突破する道を見出さなくてはならない。すなわち、無分別の分別に徹見しなければならない。そうしてその道がどこかにあるに決まっている。求めれば必ず応じるというのは、仏教でもキリスト教でもどの宗教でもそう信じて疑わないのである。

【禅の思想】、第二篇「禅行為」、「能所の分別」

 「驢覰井」でも「井覰驢」でも、何かひとこと言えば、意味と無意味は同時に隆起します。そこには、人間と法身が、背中合わせに立っています。

 神でも人でも、ロバでも井戸でも、猿でもヘチマでも、何かがここに「有る」と見たときが、無の中に有を持ち出したときで、そこに、存在の矛盾が生じます。人間の分別上の苦悩の元は、すべてこの「存在の矛盾」に基礎をおいています。この「存在の矛盾」は、知性の上でいくら考えても、解決できるものではありません。この「存在の矛盾」を生み出しているのは、知性そのものだからです。大拙は、この「存在の矛盾」から生じる人間の苦悩を「願い」と表現し、無分別に立ち返ることによる「存在の矛盾」の解消を「応じ」と言ったのでしょう。これが、「存在そのものの矛盾」への、法身からの救済です。一見、少し遠い話のような、冒頭の「願いに応じるもの」についての大拙の力説は、はじめから、ここを狙っていたわけです。「存在の矛盾を解消する『法身の働き(応じ)』を感じ取れ(・・・・)」です。

 ただし、知性によって、法身と人間の間に応じを探すことは、既に分別の魔の手に落ちたことを意味します。本当は、「応じ」などというものはありません。無分別の分別で観れば、法身は個で、個となった法身は、何物にも応じることなく、みずから主体的に、自由に動いています。「随処ずいしょしゅれば、立つところ皆な真なり」です。

9. 「無意味の意味」の活作用

 大拙が「禅語を単なる無意味の文字を並べたものと見てはならぬ」と言った本当の意味は、「非合理な表現の意味を理解しろ」ではなくて、「無意味の表現をくさびとして、法身の実働を観よ」ではないでしょうか。「義なきところを義と為すのが、大乗各派を通ずる究極の原理だ」です。つまり、無意味の法身そのものに価値があり、また、その法身を直指じきしする「非合理で無意味な言語表現」に価値があるわけです。ですから、意味を読むのでなく、無意味を活かして使えということだと思います。

 論理を破る「井覰驢せいしょろ」という抜き身の刃を突きつけられて、強上座は息を飲み、すべての念を奪われてしまう。そうして、不生ふしょうの仏心と対面を果たすことになったのかどうか。この結末は誰にも不識ふしき、いつでも非思量ひしりょうとならざるを得ないでしょう。

 妄念を断ち切った人は不生の法身になりますが、法身は主客未分の現前げんぜんにただ滞るのではありません。法身は個人に自由意志を起こさせて、思いのままに、個人の所得底、その人の習得した技、記憶上の概念、その人の思想などを活用していきます。このとき、法身は曹山そうざんをして、記憶の中の井戸とロバとを自在に活用させて、上座を法身に徹底させるのに最もふさわしい「井覰驢」を叫ばせた、これが法身の大悲の働きです。

10. 「現前の意識化」、「かる」ということ

 いろいろと、非思量ひしりょうのところを思量して参りましたが、最終的には、この話頭の価値は「現前の意識化」にあるという考えに至りました。無分別、法身、何と呼んでもいいですが、ここでは「現前げんぜん」と呼びますが、現前は意識化されて初めて人間の知性の上に昇ってきます。私は、以前から、人間の根本は平たく「かる」にあると感じてきました。この「覚かる」は「意識化」と表現するのがよさそうです。「かる」はまた、盤珪禅師ばんけいぜんじ不生ふしょうです。

 明けの明星の光を見て、ブッダは悟りを開いたといいますが、それはとりもなおさず、「現前の意識化」と言えると思います。意識化は、私たち人間の分別・知性の根底にあります。思慮分別しりょふんべつが動き出す前の、世界の「意識化」「覚かる」、それが人間の心の基礎の基礎にあります。

 この意識化の位相には、人間の苦悩というものはありません。意識化の位相が「無分別の分別」であり、法身、仏心、現前の位相であり、また、盤珪禅師のいう「不生」の場ではないでしょうか。それで、禅はこの「意識化」の現場に、人々を立ち返らせようとします。カラスのカーを聞いてカラスと知ることは、現前の意識化です。また、「南無阿弥陀仏」の称名念仏も、アミダという法身の意識化にほかなりません。そして、人間は生まれたときに、この主客未分の、純粋な意味での「意識化」「かる」を授かっています。それを、大人になって再発見する経験を、「さとり」と呼ぶのではないでしょうか。

11. 本当に見るという事

 ここに、大拙の最晩年の著作「東洋的な見方」から、同じ話頭への解説を引用します。

 つまりは、驢が井を見るでも、井が驢を見るでも、いずれでもよいが、一方だけでは、二分性の考え方が抜け去らぬ。自分が花を見ても、木なり石なりを見ても、その花や石が、また自分を見てくれないと、本当のというは発生せぬ。成立せぬ。いわゆる共感とか、感情移入とかいうことも、一方向きでは、それは成り立たぬ。対境がまた主人公になるとき、アイデンティティが可能になり、そこに入不二法門が可能になる。東洋的な物の見方は、この体験をもととして出来上がっている。

【東洋的な見方】、「東洋思想の不二性」「5」

 この解説を読むと、やはりこれは双方向性の話のように見えてしまいますが、少し違います。大拙は上記引用で、「見」の文字と「事」の上に点を打っている。本当の「見ること」とは何かをこの話頭から感得しろと言うのです。長くなりますが、もう少し引用します。

 驢と井とが一つになる、否、不二ふにであるというところは、言葉でいう限り、「驢覰井、井覰驢」であろう。一は静態的で、抽象性に富む。これに反して、不二は動態的で具象性を帯びる。仏教哲学では体・相・ゆうとか体用たいゆうとかに分けてすることもあるが、最も東洋的なところでは、左のごとく表現する。

【東洋的な見方】、「東洋思想の不二性」「5」

 こう言って大拙は、次の項へと話を進めていきます。上記の引用から、この話頭の鍵は「双方向性」ではなくて、「不二」であったことが解ります。体とか用とか言わずに「驢覰井、井覰驢」で不二を打ち出すのです。ここまで読み解いてくると、「禅の思想」の中の求めと応じに関する大拙の記述の部分も、双方向性よりも深く読み取れると思います。

 至心回向ししんえこうの南無阿弥陀仏は必ず阿弥陀の方が本願回向ほんがんえこうとなって体験せられる。自力の往相おうそうは他力の還相げんそうでなくてはならぬ。これが仏教の宗教哲学である。

【禅の思想】、第二篇「禅行為」、「驢覰井」

 双方向という言葉を使うなら、知性の上で言わずに、「概念的に二つに分れる前の二者間」の双方向性を見ることです。普通の双方向ではなくて、不二ふにの双方向です。その不二の全体作用を感得することが仏教の宗教哲学なのだと、大拙は主張しているのです。

 大拙先生の、難解な「驢覰井ろしょせい」の説法について、あれこれ詮索して来ました。長々と書いてきましたが、結局、全部、ダメなんだと思い知りました。ですが、ダメはダメなりに、いくらかは、「禅思想の流れ」を追うことができたようにも思います。

Aki.Z

■更新履歴

2022.9.20 円覚寺横田管長による、鈴木大拙「禅の思想」の「井覰驢」への解説を読んで、この投稿を書き始めた。

2022.9.28 「井覰驢」の狙いは、ロバと井戸、私と仏の映り合いの双方向性よりも、「井覰驢」と聞けば「井戸がロバを見ている」のだなと知るところ、カラスの声を聞けばカラスと知るところにある、という解釈を示した。また、大拙解説の冒頭にある「求めと応じ」の話が「井覰驢は双方向性の話」という解釈を与え、読者を混乱させていることを指摘した。

2022.9.29 この話頭の狙いは、「井覰驢」と聞けば「井覰驢」と知るところにある、ではなく、法身の応じの感得にあると、見方を大きく修正した。

2022.9.30 大拙の言う「応じ」は、存在の矛盾を法身が解消することであることを追記した。その根拠として、「能所の分別」からの引用文を追加した。

2022.10.1 双方向性も、法身の応じの感得も、理屈であり、意味づけであり、本来禅は一問一答であって、「井覰驢」は棒喝と同じで無意味で、この一拶で完結しているのだという見方を追記した。

2022.10.2 大拙は「禅問答は無意味なだけじゃないぞ」といい、また、「意味があってはならぬ」とも言っている。彼が「無意味に意味あり」というのは、無意味の意味を読めということよりも、無意味を活かして使うことだという見方を追記した。

2022.10.3 「井覰驢」と言ったとき、曹山は法身であったとした。そして、そのとき世界は曹山の井戸に飲み込まれていたとし、曹山の井戸は天地創造の場であるとした。また、曹山は強上座の常識的発想を許さず、彼の念を断ち、不生の仏心に正面から向かわせたのだという見方を追記した。

2022.10.4 不生の法身は、法身のままに滞らず、個人としての所得底、すなわち記憶上の概念、思想、習得した技などを自由に活用するのだという見方を追記した。

2022.10.4 これ以上の考察は無理と、一時、断念。

2022.10.5 この話頭の狙いは、9.28当初に書いた、カラスの声を聞けばカラスと知り、「井覰驢」と聞けば「井覰驢」と知るところにあると、本投稿全体の結論を、再び修正した。また、この働きを「意識化」と呼び、また、「かる」とも呼んで、この話頭研究の結論とした。

2022.10.17 大拙の「東洋的な見方」の中の「驢覰井」の解説をヒントに、11 項を追記した。昨日、一年ぶりに、松が岡東慶寺とうけいじの大拙とビアトリス夫人の墓所をお参りしてきた。その後、階下の喫茶吉野でカフェオレを飲みながら、大拙が「体用たいゆう」を論じた文章がどこかにないかと調べているとき、ふと開いたページで、この解説を再発見し、大拙先生に「喫茶去きっさこ」と声を掛けられたような、ありがたい気分で一杯になった。


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