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禅問答:馬祖・百丈「鴨はどこに」

更新 2024年4月8日

 百丈懐海ひゃくじょうえかい馬祖道ばそどういつ一の間に起こった問答は、「現前げんぜんの意識化」に狙いを定めています。まず、円覚寺えんがくじ横田管長のページからカモ(野鴨子やおうす)の問答を引用します。オリジナルは、小川隆先生の現代語訳で、春秋社の『禅思想講義』にあります。

馬祖と百丈が歩いていたとき、カモの飛んでゆくのが目に入った。
馬祖、「何だ?」
百丈、「カモです」
「どこへ行った」
「飛んで行ってしまいました」
すると、馬祖は百丈の鼻をひねりあげた。
---- イタタタタ!
百丈は思わず、悲鳴をあげる。
そこで馬祖は、ひとこと、
「飛んで行ってなどおらんじゃないか」」

 これに、小川先生は、「かくされた主題は、飛び去ったカモではなく、そのカモを見る百丈その人のほうだったのでした」と解説してくださっています。

 この話頭に見るべきは、百丈の心と、馬祖の心の位相の違いです。馬祖は禅を実地に深く経験していますが、このときの百丈は未だ不徹底でした。馬祖は百丈とは違って、自然界の個物を自分の外のものとは考えていません。カモを、自分の外に在る独立した個とは観ていないのです。禅経験なしには馬祖の心理は推し量れませんが、少なくとも、彼は、森羅万象が自分と同根であることを、禅意識の上で体感しています。

 「隠された主題は百丈その人だった」というのは、自分と環境を峻別するなということでしょう。「その人」を、主客未分しゅきゃくみぶん現前げんぜんの人と見ればいいわけです。ですが、「その人」を普通の意味の、個人としての百丈その人とみるのであれば、そのような理解は、未だ二分性の分別識に縛られています。この話は、「カモ」や「百丈」を、固定した個と捉えているうちは決着がつきません。馬祖の禅意識の上では、百丈も馬祖も、カモもネギもありません。一切は、主客未分の現前の内容です。

 馬祖の意識は、時間と空間を超えています。百丈は、カモを空間的に捉えて「飛んで行く」といいますが、現前意識げんぜんいしきには、そことかこことか言う固定された場所はありません。飛んでいくカモは馬祖とひと続きです。また、百丈とひと続きです。百丈はまた、カモを時間的に捉えて「飛び去ってしまった」といいますが、現前意識は「即今只今そっこんただいま」を離れません。「視界から消えたカモ」の現在の所在を想像して、そこに無分別智むふんべつとの関係を探ろうとしても、それは既に分別意識の働きです。そのような詮索を続けるうちは、この問答の意味は解りません。横田管長が解説の結びとした「今頃、カモは、どこに?」の一句は、この点で読者に気づきを与えようとする教導です。

 馬祖は知識より前に現成げんじょうしているカモを直指していますが、百丈はそれに気づきません。その上、馬祖の「どこへ行った」という誘導尋問に引っかかて、「飛んでいってしまった」などと、歴史的記憶の上で昔話をしています。それで、馬祖は百丈の鼻を捻り、彼を主客未分の現前に引き戻し、「カモは飛び去った」などという分別上の寝言から弟子を解放しようとしているのです。

◆  ◆  ◆

 さて、今、こうして、馬祖と百丈とカモの過去の因縁を辿って、彼らの想いの内容を想像して参りました。しかし、これらはすべて、歴史的記憶の再現です。彼らにとっては、生きた現実であったかもしれませんが、上記の解説は、架空の物語の後追いに過ぎません。今ここの生きた現象ではないわけです。現前してもいないことを、あたかも現実のように語ってみただけです。このような解説は、いわば、空想の跡追です。

 私たちの立っている現前には、馬祖も百丈もカモもいない。それどころか、日常意識の中には本当は何も無いのです。私たちの仮想現実を構成している概念や観念や認識、すなわち「過去の古びた記憶」を外してみれば、対象的に捉えられるものは何もありません。私たちが現実と信じて疑わないものは、記憶の中にだけあるのです。もし、今ここで鼻を捩じられたら、私たちも一瞬にして、夢の中から引き戻されるでしょう。

 記憶を外してみれば、主客未分の、記憶される前の宇宙が、万物ばんぶつはらんで共に動いて現前しています。見るものが動くもので、動くものが見るものです。これを、無限といい、永遠といい、古人は無といい、くうといったのでしょう。記憶を通して現実を観るのでなく、世界を現前に、行為的に直観するとき、馬祖も百丈も野カモも、初めて、私たちに本来の姿を開示するということになるでしょう。

Aki.Z

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