見出し画像

名作にくらいつけ! 安部公房 「砂の女」(2) ~雄弁な沈黙、同質な沈黙~

 (3000字程度)

 一人の時間が好きだという人はいくらでもいるだろうが、沈黙が好きだという人の話はほとんど聞かない。
 隣で無言でいても気にならないという人は、確かにいる。家族や友人など、相手が、沈黙ができたところで関係性が揺るがないような存在であれば、心おきなく沈黙に浸ることだってあるだろう。
 しかしそれは、互いに気心が知れているから不快を感じないということであって、相手がだれであれ沈黙そのものへの耐性が強い人というのは、あまり聞いたことがない。
 人の間に横たわる壁に風穴を開けるには、意思疎通するよりほかに残されていない。意思疎通が滞った途端に、一人でいる時以上の孤独を味わわされるというのは、人に背負わされた性のようなものであり、あるいは逆に、他人と結びつくために授けられたギフトのようなものである。

 しかし、世の中には、意図して黙り込む人がいる。沈黙の裏に、何らかの意図が含まれていることがあるのだ。
 
 これほど厄介なものもない。なにしろ、意図があることは明瞭であるのに、その意味するところはぼんやりとしか把握できない。ぼんやりとしか掴めないのだから、どこからどこまでならあり得ることかと意味の限定を試みたところで、ほとんど無限といえるほどの解釈の余地が残るばかりである。

 誰の話か。何の話か。もちろん砂の女の話だ。
 二木順平が自ら落ち込んでいった穴ぐらのような家。そこに住む、あの女についての話だ。

 文庫本をぱらぱらとやってみればすぐにわかるが、小説「砂の女」では、一行で収まる程度の会話文が頻繁に出てくる。そのほとんどが女と交わされる会話なのだが、登場人物が驚くほどに少ないので、主人公が今どこにいてどんな状況にあるのか、主人公の二木も、また読者も、その女とのやり取りを通して知るというスタイルが採られている。

 つまり、小説「砂の女」は、会話劇という要素をそなえているのだ。

 女との会話の中からせめてわずかなヒントでも得られないものかと、二木は会話を通して少しずつ核心に近づいていく。しかし、核心に至ったと思った途端、まるで貝のように女は殻を閉じてしまうのである。 
 
 男を穴の中に留めておきたい女の方から、口を割ることなどあるはずもない。何を企んでいるのかいくら尋ねられたところで、自分の方からヒントを与えるなど、到底無理な相談なのだ。
 逃げられるか否か。それは、男の一生を左右するのみではない。女の一生をも同じく、左右するのだ。だからこそ女は黙る。
 女の沈黙は、まず第一に、男を確実に引きずり込むための手段として現れる。

 しかし重要なのはここから先で、女は男が罠にかかって後も、実はしばしば沈黙している。この女の沈黙は、策略のために作られたものばかりではない。この女の思考や感情の在り方を描くためのものとしても、小説中で作用しているのだ。

 女の沈黙の裏には、様々な感情が潜んでいる。憐憫も、悲しみも、憤りも、怒りも、喜びの期待でさえも、言葉ではなく、沈黙の中で表現されている。
 女の気持ちを読み取る際に重要なのは、言葉ではないし、沈黙そのものの中に何かが示されているわけでもない。
 沈黙の、その後に表される、行動、声音、目つきなど。これら非言語的な表現こそ、この女を理解する重要な鍵となるのだ。
 
 それゆえ、女の沈黙は、大きな意味の広がりを持つものとなる。
この女の沈黙は、実に雄弁なのだ。

 沈黙こそ雄弁だというこの逆説を、作者の安部公房が意図していたとしても、少しも不思議ではない。安部公房は劇作家でもあったのだから、沈黙が人に与える効果を彼が十分に理解していたと考えた方がむしろ自然なのではないだろうか。

 ここで、再び作品世界の方に向き直ってみよう。意図して沈黙していたのは、穴ぐらの中の女のみであっただろうか。答えは否だ。

 村人たちの沈黙がある。彼らの沈黙とは、悪質そのものだ。作品中では、ロープが引っ張り上げられる場面が幾度となく出てくるのだが、それは、決まって村人たちの沈黙と共になされるのだ。
 村人の姿はこちらからは見えない。ロープが引っ張られる瞬間、誰かが合図の声を発するわけでもない。しかし、ロープが引っ張られている以上、そこに村人がいるのは、嫌でも認めなければならないほど確かなことだ。

 彼ら村人たちは、個人として描かれることはほぼ皆無だ。彼らは、疑い深い目の老人だとか、高い声で笑う娘だとか、酔っぱらった若者だとか、そんな風にしか存在を明示されない。彼ら村人は、作品中で、個人として描かれることを徹底して拒否されているのだ。

 それでは、彼ら村人たちの沈黙はどこからやってくるものなのか。何に基づいているのか。

 敵意である。それも、単純明快でかつ一枚岩の敵意である。そこには、敵意以外に何かを読み取るほどの些細な余地さえ残されてはいない。

 村人たちは、自分たちを、外の世界から見放された被害者だと捉えている。そして、外の世界の人間を加害者だとみなしている。
 それゆえ彼らは、その敵意を隠そうともしないし、二木のようにさまよい込むような人間がいれば、徹底的に利用する。ひどく酷使したのちに雑巾ように捨ててしまう暴力性すら持ち合わせている。
 彼らは、外の世界の無関心を受け入れる代わりに、村の統治者であり、立法者であることを選んだのだ。

 そんな彼らが二木に対して感じる思いはとなれば、それは敵意以外にあり得ない。彼ら村人は、全員が、同じ程度に、二木に対して憎悪の念を抱いている。その点において、彼らは一枚岩なのだ。穴ぐらの女のような、複雑な思いを抱くものは一人として存在しない。

 彼ら村人の在り方は、私に、軍国主義時代の日本を思わせた。少なくとも、その描き方として、そう捉えても遠く外れてはいない具合に描かれていると、そんな風に感じられた。

 安部公房は旧満州で終戦を迎えた。満州からの引き上げの際には、少なからず、大変な経験もしたものらしい。それが原因だったかどうかわからないが、安部公房は著作の中で自らの経験にはほとんど言及しない。エッセイを読んでも、エッセイとは実は名ばかりで、自分の見た夢を小説風に再構成した文章だったりする。神経質と言えるほどに、自らについて語ることを避けているのだ。

 自分たちを被害者に見立てた上で、一度敵とみなしたものに対しては、どこまでも残酷な振る舞いを取ることが出来る。
 内側に向けても、皆に同質であることを求める。全体のために個を犠牲にすることを求める。裏切者は連れ戻され、即座に地下に閉じ込められる。

 そして、加害者としての自分たちの姿を、認めることは決してない。

 この村人たちの姿こそ、戦時中の日本人の全てだと、そんなことを言うつもりなどない。そうなれば、安直に過ぎるともいえるだろう。
 しかし全てとは言わずとも、かつての日本と、小説中の村人と、根っこでは通じている具合に描かれていると、そう思わずにはいられないのだが。

 安部公房に聞いたら、純粋に小説だけ読めと、やはりそう言われてしまうだろうか。


この記事が参加している募集

書いたもので役に立てれば、それは光栄なことです。それに対価が頂けるとなれば、私にとっては至福の時です。そういう瞬間を味わってもいいのかなと、最近考えるようになりました。大きな糧として長く続けていきたいと思います。サポート、よろしくお願いいたします。