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第15回「そいつ」2024年1月❷

週一で、同じ映画を見る。ただそれだけ。
観る映画は「遊星からの物体X」、つまり「THE THING」です。

ルール

  1. 毎週1回「遊星からの物体X」をみる

  2. 毎週1回みて、気づいたことを書く

  3. 木曜または金曜の通勤時間で見る

  4. ネタバレとかは気にせず書く


基本は通勤中のiPhone se(3G)。
イヤホンはAppleの有線イヤホン。
ということだったが、最近はもう気にせず休みの日に家で見ることも増えてきた。気にせず楽しみながら観る。

第15回目 2024/1/20(土)

前回からの道のり

(前回の記録からわたし自身の変化)

1/7(日)
チャーリーとチョコレート工場をみて、ダニーエルフマンの素晴らしさを堪能。

1/8(月)〜1/11(木)
勉強と仕事の日々、お酒を我慢する

1/12(金)
フィリップ・カウフマンの「SF/ボディスナッチャー」を見る。変な映画で素晴らしい。
冒頭の「到来」を全く言葉で説明しない。
電話かけまくるシーン、仲間と別れてから歩き出すシーンなんかは異様かつスタイリッシュ。
物体Xのように「なりすます」ことは同じではあるが、「吸収」ではなく「複製」というところが面白い。本作は宇宙人に追われる映画だが、物体Xは探し出す映画でもある。

1/13(土)
友人たちと食事会、友達が増えて嬉しい。12時間近くもダラダラ話して過ごした。みんな音楽、漫画、映画に詳しい人たちで、たくさん教えてもらって楽しかった。
1/14(日)
テスト勉強、合間に角煮作り。
物体X未鑑賞が気になるが、勉強を優先。(鑑賞、記録、整理、noteまでに自分は時間がかかる。)
1/15(月)
通勤中やら昼休みに勉強。
1/16(火)
過去問などを確認。オジサンが学び直しするのに手抜き勉強はないだろと、テキストを何度も読み返す。
帰宅後、テスト一つ目挑戦。

1/17(水)
帰り道「銀矢倉が解散」。目の前が真っ暗。動画を見返し、悲しみに暮れる。しかし俺にはやることが!と、テスト二つ目に挑戦。
1/18(木)
通勤中にテスト勉強したが、残業疲れで結局家で映画。「ゴーストワールド」を観る、ブシェミが素晴らしい、面白い。
1/19(金)
奥さんと長兄と3人で「ダーティハリー」35㎜映写にいく。
兄が「映画の中でホットドッグを食べるシーンがあったはず!」と言って、ホットドッグを食いながら見た。素晴らしい提案。
今見てもとんでもなく面白い。35mmでの映画の質感はとても新鮮で、デジタルリマスターと比較して観たくなる。
1/20(土)
テスト最終日。勉強した甲斐あり、楽勝。
全体的に緩いテストではあった…。
さて、カラブツ!


いくよ/くるよ

前回の記録を書いたあとに「来る」ということが「行く」ということと、どう違うんだろうなと考えていた。ストーリーの進行上、マクレディが現場に行くシーンと、現場を待たせてマクレディが来るシーンと撮り方は異なる。
ダーティハリーのOPでハリーが殺人現場の近くの高層ビルへと向かうシーンがある。
このシーンでは、画面左奥から右手前へと斜めに歩いて「くる」。
ビル角に突き当たると、カメラもゆっくり左から右にパン、そしてハリーも90度左折し、左手前から右奥へと歩いて「行く」。
映画の中ではこういうことを当たり前にやってる。

「くる」が「いく」に変わる

基本的で初歩的なことだけど、これを考えてくとストーリーがどうやって停滞して、どうやってまた動き出すか…ということの面白さに気づける…気がする。たとえばハワードホークスとか、この快感を楽しむ映画だな、といま実感してくる。
映画を見る時の当たり前が、もう一度考えられる。

書き始めてさっそく脱線したが、前回の記録が「いくよ/くるよ」という好き勝手な内容だったので、書き終わってからも色々考えられて楽しかった。今回も好き勝手なこと書こう。
今回選んだのは「開ける/閉じる」という行為について。
というのは前回の記録中に、遊星からの物体Xにはドアが動くシーンが少ない気がしたため。
開けるとか閉じるっていう行為を書き出してみる。前回同様、浅い考察に終わるかもしれないが、他の映画を見る時の意識が少しでも変わるなら万々歳と思おう。

開けるよ/閉じるよ

当然だが、カメラが撮っていない「開ける/閉じる」を考えても仕方がない。
「誰がいつどうやって」それを開けたのか、映されていないのであれば語ることはルール違反。ただしドアを開けるという行為を撮るには「閉じられたドア」を撮る必要となる。映される「閉じられたドア」が、何を意味するかを考えることなら本記録のルール内だと留意。あくまでも映ってるもので考えたい。
(こんなふうにルール確認をするのは、自分自身まだ考えが固まらないから)

ノルウェー基地のドアから考え出したい。
ノルウェー基地に着いたマクレディたちは、立ち上る煙からなにやら異変に気づく。
カメラは基地内部から、壊れた窓枠越しにヘリの到着を映す。破れた窓枠、壁中に開いた風穴、昼間なのに真っ暗な内部。どこからでも入れてしまうような荒れ具合。
この荒れ放題の基地で、ご丁寧にもマクレディたちは玄関ドアを開けて中に入り、「よお、スウェーデン!」と呼びかけてから奥へと進む。
まだ生きてるかもしれないノルウェー隊員への配慮もあるだろう。ドアの向こうは彼らの領域であり、その境界線であるドアの向こうに勝手に入っていくのだ。
同時に、ドア以外を通ることによって基地の異変を認めてしまうことへの恐怖もあるかもしれない。その異変を認めれば、彼らは正式に異変へと関与しないといけない。あくまでノルウェー基地で起きたことはノルウェー隊員の問題としておきたい。
つまり「閉じられたドア」をわざわざ開けることは、「境界線の内側=領域内の人間に対する配慮」と「向こう側との境界をはっきりさせておく」という二つの表れにも思える。

ちなみに彼らは、この後、血だらけの斧が刺さるドアの向こうでノルウェー隊員の結末を知る。最初は引き腰マクレディも「次の部屋に行くぞ」とひっぱり始め、次のドアを開けていく。先ほどの領域のルールが崩壊したことに気づき、もうその異変と関与することから逃れられない。

風通しのよい職場を目指して

一方、対照的なのはアメリカ基地。アメリカ基地も勿論、玄関ドアは閉まっている。
玄関を開けるシーンは少ないが、閉じられたドアの窓から外を眺めるシーンを幾度となく確認してきた。
一方、基地の部屋はどこもかしこもドアが閉まっていない。開け放たれている。
まるでプライベートが一切ないのか、どの部屋も廊下から中が丸見えだ。仲間が部屋でタバコを吸ってても、通信室で寝ていても丸見え。怪我で寝ている同僚がいても関係なく、ローラースケートで廊下を走り回り、音楽を爆音で流す。開けっぴろげで、風通しのいい職場。閉じ籠もるなんて考えられない。
ドアが開けっぱなしの基地というだけあって、ドアを開閉するシーンは少ない映画に思えてくる。
そんななかでドアを閉じるシーンを思い返してみる。

1つは犬小屋を閉めるクラーク。
犬を外に出ないよう管理するため。ベニングスが怒るように、犬は人間の領域には入れてはいけない…というのが隊員たちの感覚だ。(それが一般的かは不問。基地内ルール。)

2つはブレアを倉庫に閉じ込めるシーン。
精神的にまいった人間は、同じ"正常"と思しき隊員の領域に入れさせないため。

3つは帰ってきたノウルズを迎え入れて、すぐドアを閉めるシーン。
雪嵐だけでなく、外から来るかもしれない異変(物体X、および変身した仲間たち)を領域に入れさせないため。チャイルズは明確にここで、早くドアを閉めるように指示を出す。

当たり前のことをいま気づいたかのように言う。ドアを閉めるということは、境界向こうとを遮断する行為であり、それは転じて、閉じ込めること、そして閉じ籠もることを生む。閉じ込める/閉じ籠もることの有用性とは。

お話に入れてあげないよ

閉じ込める/閉じ籠もるを考える前に、境界向こうとの遮断を考える。
日常生活、我々もドアを閉めることを繰り返し、音、冷気、熱、雨、動物、犯罪…。あらゆるものを入れないようにし、同時に外に出さないようにする。境界を定めた以上、こちら側に出納するものは限定される。
映画の世界もわれわれ同様だが、カメラがある以上ここに「物語」が含まれてくると思う。ドアなどの境界線で遮断をした以上、カメラ前に物語を持ち込む術はなくなる。

例えば、もしもノウルズとマクレディが中に入れず、メンバーが閉じこもったままなら。マクレディの小屋でのエピソードは挿話されない。2人は物語から遮断される。
しかし物語は上記2人なしでは停滞してしまうだろう、実際、本作ではマクレディの帰還により推進され、スピーディーに展開されていく。マクレディが自分の物語を境界内に持ち込んだ(物語を披露するカメラ前と言っても良いかもしれない)おかげで、カメラ前ではジョンカペの世界が成立している。
閉じ籠もることはキャラクターにとって安全を担保してもらう代わりに物語を引き受ける責任が生まれる。

一方でブレアを閉じ込めたことにより、ブレアはカメラの前で物語を披露できなくなる。
この状況を打ち壊す方法は二つある。
一つは物理的にドアをぶち壊し、カメラの前に現れること。
もう一つは、物語の推進をブレアが引き受けてカメラを誘い込むことだろう。つまり、ブレアの暗躍という物語でこそ映画の進展を引き受ける方法だ。そうすればブレアの物語を撮るべく、カメラはブレアのもとにやってくる。カメラ前という映画内領域が、アメリカ隊員からブレアへと転回する。隊員は閉じ籠ることは出来るが、ブレアが攻め込んでくるまでは何も語ることができない。これはあくまでタラレバの話なので、本作の考察自体にはなんの有用性もないが、カメラ前領域で物語が進むとはどういうことか考えるには練習になる。
要は、物語の主導権を握られないためにも、ただ閉じ籠ってるだけでは物語が停滞してダメだし、閉じ込めたからといって物語が停滞するなら安心もできない。物語という大きな流れ自体はそれほど寛容ではない、
これは、前回の「いくよ/くるよ」と大いに関連すると思われる。物語を持ち込む、持ち逃げする、待たされる、というのと同時に自分の物語に転回させることもあり得るわけだ。

ダーティハリーを見ていて、印象的なシーンがいくつかあった。そのうちの一つ。
ハリーは、ある時に市長へ決め台詞を残して去って「いく」。バタン、とドアが閉まると、ここで何やら残された市長は、「ふむ、一理あるな…」と妙に納得する。
市長の納得は、ハリーの当を得た主張だけでなく、残された人間のぼやきのような面白さが映される。
これは、現場から離れた場所に残された人間だけの特権でもある。危険な物語が入り込むことなく、閉ざされた市長室。現場では通じない綺麗事だけがまかり通る世界。それゆえに彼は当分の間、分かったような顔して物語から距離を置く。
不幸にも彼の部屋には、外部との繋がりに電話が設置されてるわけだが。

臭いものには蓋をする

人や動物やモノは、カメラのように境界線を簡単に行き来できない。故に、境界を担保するためにも、境界線を補強する。倉庫に物体Xを保管する時は鍵をかけるし、隊員の血液やライフル銃は鍵のかかるところにしまう。外から遮断するためには、角材などを扉に打ちつけて塞ぐ。
とにかく異変が入り込まないように、脆弱な境界線を補強する。しかし、隙間を埋めれば埋めるほど、瘡蓋のように境界線を際立たせる。

ベニングスは銃に撃たれた傷口を、四針縫って塞ぐ。これ以上の身体の異変は起きないかもしれない。しかし、傷口の原因となったノルウェー隊員の奇行、違和感は一層強くなる。四針の刻印は、この物語の違和感を一番最初に身体に取りつけてしまった。
境界線は補強して塞ぐほど目立つ。その外側が気になる。閉じ籠った隊員たちは、ドアの前で屋外の様子から目を離すことができない。
臭いものには蓋をする。蓋の上に重石を載せるほど、蓋をした容器は目立ち始める。中のものが動けば、重石の分だけ音が大きくなる。

ぶち破る、修復する

閉じても塞いでも心配なのは、その蓋が絶対じゃないことを知っているからだろう。鍵を閉じたって、こっそり鍵で開ける奴がいることだってみんな知ってる。鍵がないなら壊す奴だっている。
この映画では開ける行為よりもぶち破るシーンの方が多い気がする。エンタメ映画とはそういうものな気もするが…まあ置いといて。

まず初めにギャリーが窓ガラスをぶち破りノルウェー隊員に交戦する。基地と外の防衛線を一部壊して、攻撃する余地を作る。ただしこれは敵が侵入する余地を生む。つまり境界線を壊すことは、自分にとっても何らかのリスクを持つ
この窓をはじめ、この映画では修理するシーンはない(もちろん修理してるだろうけど)。ぶち破ることの方が大事だから。
パーマーに取り憑いた物体Xも、その最期は、なぜか壁をぶち破り、屋外で爆死する。
マクレディが閉じ籠った火薬室のドアも
斧でぶち破る。閉じ出した相手が鍵で侵入して閉じ籠った途端に、火薬室のドアは別の境界に変わり、今度は残りの隊員が境界をぶち破ろうとする。
ウインドウスは仲間への疑心暗鬼が募り、銃の入ったガラス戸へと走って向かい、ガラス戸の鍵がかかってることに気づき、結局ぶち破って開ける。銃の扉を開けるということは、隊員の安全線が破れたことと同じだ。

勿論、ぶち破ったからと言って元通りにはならない。瘡蓋のような蓋は外されるかもしれない。しかし、今度はかえって残骸が残る。境界線は、関係性を決める一つの要素だ。
境界線を修理をしない限り、ぶち破られた関係性は修復しない。目に余る残骸を見れば、その関係性はさらに悪化する。

解体される、打ち明ける

ベニングスの傷を塞ぐように、体も開いたり閉じたりできるんだぜ(まさのりさん)。
ノルウェー隊員はその遺体を解剖されるし、物体Xももちろん解剖される。体を開くことは知らないことを調べるためだが、知りたくもないことまで知ることになる。そのグロテスクな体内器官がグロテスクな秘密を打ち明ける
ブレアの暴走は打ち明けられた末路と言える。ノルウェー隊員の解剖や、傷口を塞ぐだけのコッパーとは正反対だ。コッパーは物体Xを保管しようとした。

ところで物体Xはあれほど擬態ができるのに、直接対決する際は必ず皮がめくれ、血が吹き出し、犬の頭や節足や触手が飛び出す。正体を大きく覆ったイミテーションをぶち破る。
この生き物が圧倒的に不快なのは、その固体を覆う皮膚という境界線を自らぶち破り、知りたくもない自分を勝手に打ち明け出すことも一つにある。打ち明けることは、相手にその事実を了承させ、その秘密を共有することだ。物体Xにとって、共有した相手は一体化する相手となる。実は誰も知られたくないことがあるように、お互い知らなくていいこと、というのはかなり多い。


来週に向けて

今回もまた自信がないものの、「開ける/閉じる」というぼんやりしたことを考えてみたら。
読み返すと未熟さのごった煮だけど、すこしずつ頑張っていきます

毎週恒例のアイデア書き足し。

  • 音無し鑑賞

  • 光のことをもっと考える

  • 顔、その視線

  • マップ使いながら視聴

  • カメラの位置

  • BGMの特定

  • 別の言語の字幕/吹替

  • そろそろ原作読む

  • 物語に駆けつけるキャラ

  • そろそろオーディオコメンタリ分析

  • 運ぶ人

  • 小道具などの記号

  • 立場の逆転

無理だったら普通に楽しむ。
好きな映画のいいところは、普通に楽しめることだと思う。

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