コスモス・ユニットバス


    こんにちは。もしかするとはじめまして。いかがお過ごしでしょうか。

    私が外出をしなくなってからもうふた月ほどが経ちました。いえ、正確なところはどうもわかりません。実際、私の持っているこのスマートフォンが示している日時が正しいという証拠はどこにもないのですから。ここでの暮らしもなかなか悪くはありません。だけれどもやっぱり外の人間と話すことも重要なのだそうです。それで、届くかどうかもわからないこの文章をしたためているのです。

 これは断固として言い添えておきたいのですが、私が外出をしなくなったのはけっして怠惰のためではありません。いわゆる、不可抗力といったものであることを了解していただきたい。ただ、出られない。この現実をわかってくれる人間が、この世の中に一体どれだけいることでしょうか。いえ、無論病気やその他のっぴきならない事情で外に出られない人々が世の中に沢山いることは私とて承知しています。ですが、私のような理由でこんな状況に置かれている人間はそういないと確信したくなるのも無理はないと思っています。あなたもきっと、私の現状をお話しすればこれに同意してくれることでしょう。

 私もほんの少し前までは東京のアパートの一室に住むごく普通の大学生でした。あるいは、ごく普通と形容するには少々人付き合いに疎く、読書に傾倒している節があったでしょうか(私がこんな文章を書いているのもこの自分の好みのせいであることにお気づきかもしれません)。ともかく、世の中を探せば幾人も私のような人物を見出せたであろうことは疑いようもない事実です。そんな何の変哲もない大学生であったところの私は、現在、ユニットバスで日々を暮らしております。

 事が起こったのは何の変哲もない冬の朝でした。アラームで目覚めた私は鳴り響く高音を止めようとスマートフォンを手に取り、そこで大学の講義が休講になったことを知りました。冬の盛りで朝の寒さの厳しい時期でしたから、それならゆっくりシャワーでも浴びて暖まろうかと、スマートフォンを片手にユニットバスに向かったのです。普段通り白色の扉を後ろ手に閉めた時の、妙にじめつき耳に残ったあの音は、その後に続くはずだった私の未来のあげた断末魔の声だったのでしょうか。いえ、それも現在から思い返してそう思うだけの事、当時の私はさしたる違和感も覚えてはおりませんでした。その違和感が圧倒的な現実となって私を襲ったのはそれから少し後のことです。

 シャワーの前にと用を足し終えた私は、そこでバスタオルを外に置いたままにしていたことに気づきました。そうして何の気なしにドアノブに手をやると、鍵をかけたわけでもないのにこれがうんともすんとも言わないのです。私も始めはドアノブの調子がいかれたものと思い押したり引いたりねじってみたり、果てには体当たりをしてみたり、様々なことを試しましたが一向に状況は改善しません。私の加える力は目の前の物体に響いている様子もなく、ただ真っ黒な闇に光が吸い込まれていくように消えていくばかりなのです。運よく持ち込んでいたスマートフォンを使って友人や管理人に連絡を取ることも試みましたが、不思議なことに圏外の表示を光らせたまま、こちらも何の解決策ももたらしてはくれませんでした。日頃あまり丁寧に扱っていなかったこの精密機器がタイミングを見計らってへそを曲げてしまったものと思ったのですが、そこで私はもう1つ不可思議なことに気が付きました。いくら使っても、スマートフォンのバッテリー表示が100%から減る様子がないのです。インターネットには繋がらず、バッテリーは減らず、しかし時計やインターネット環境を必要としないアプリの類にはどうやら目に見えた異常は見当たらない。こうして状況の打開を図るのにも疲弊した私は、よくわからない事態に巻き込まれたのだとなんとなく理解するに至りました。

 そうして、(スマートフォンの表示を信ずるならば)2ヵ月が過ぎようとしています。ここでの暮らしにも大分と慣れてきました。幸い飲み水の調達や用便の処理には困りません。水道光熱費を口座引き落としにしておいてよかったと、これは心底そう思いました。また、慣れてしまえばバスタブ氏の中で眠るのも快適なものです。懸念していたのは食事についてですが、都合の良いことに空腹を感じることはありません。やはり私はなにか不思議な現象の只中にあるようです。 

    さて、こうして最低限の生活が保証されてしまうと、最も問題となったのは外界との交流が絶えたことでした。あなたにも1度は経験があることでしょう。風邪などをひいてしばらく外に出られず人と交流を持たないと、それはそれは気がめいってくるものです。そこで救いとなったのはユニットバスの住人たる、洋式便器氏、バスタブ氏、洗面台氏の三氏の存在であります。あなたは驚くかもしれません。事実私も最初は当惑しました。しかし現実は現実です。モノが言葉を話すという状況は外界ではありえないことかもしれませんが、ユニットバスの中に不可思議にも幽閉され長きを過ごしている今、これを疑うことはむしろ不当です。何より一旦割り切ってしまえば、彼らは良い話し相手となってくれました。特に私を慰めてくれたのはバスタブ氏です。バスタブ氏はその存在感のある暖かなフォルムが示す通りとても優しい方です。非常に親身になって私の話を聞いてくれましたし、何より私の好きな作家にかなり造詣の深い方なのです。一度どこで学んだかしつこく尋ねて、私はバスタブの世界にも学校のあることを知りました。これは考えてみれば至極当然のことで、人間的視点でしか物事を見ていなかった自分に気づかされ、大層恥ずかしかったのを覚えております。バスタブ氏は気に入った作品をそのまま記憶している様子で、時にはそれを暗唱してくれさえします。こうして私は、ユニットバスの中でもかなり楽しく過ごしているというわけなのです。

    そうこうするうちに私は大変な問題に思い至りました。この問いはあなたにも心して聞いていただきたい。さて、外界にあった頃私が送っていた生活とユニットバスでの生活の一体どこに、どのような差があるのでしょうか。ユニットバスの中でも以前と全く変わらない生活を送っている。私はそう答えざるを得ません。三氏と会話を交わし、時には洋式便器氏(ちなみに彼はこの呼び名を嫌っており、自分をドクターと呼ぶように言っています。確かに彼は博士の名に違わぬ博識な紳士で、私にこれを拒む理由はありませんでした)と洗面台氏の些細な言い争いを仲裁することもあります。私を含めた4者の利害が対立する際にはルールを定めますし、反対に目的の一致するときには団結して行動します。一度皆でまとめた小品集の出来は素晴らしいものでした。是非あなたにも読んでいただきたい。

    話が少しそれましたが、こうして考えると私にとってユニットバスは十分に社会の体を成しているのです。それは外の世界にいた時と何ら変わることはありません。ユニットバスは、元来不浄なものの通る場所ですし、それは今でも同様です。その意味では私が現在身を置いているのは数多ある中でも最底辺に位置する社会なのかもしれません。しかし、それ故にそこには全てが集まっています。排出物は全ての終着点なのですから。つまりユニットバスは、社会であると同時に宇宙なのです。全ての凝縮から発し、それらを内包する宇宙そのもの。私はそう信ずるわけです。そんなユニットバスという社会・宇宙がその真の価値において外界に劣ると、一体誰が断言できるというのでしょうか。

    さて、つい1人で熱くなってしまいました。これは私の悪い癖なのです。うっかり外界が目に入らなくなってしまう。実は、この手紙も洗面台氏の提案でしたためています。洗面台氏の意見では、私、そして我々の形成する社会はもっと外の意見を取り入れるべきだというのです。これには私も大いに賛成するところです。如何に優れた社会と言えど、他者の視線を失っては衰退の一途を辿るばかりでしょうから。唯一の問題はこれをどのように未だ見ぬあなたに届けるかということですが、それについてはバスタブ氏が快く請け負ってくれました。

    

少々疲れてきました。こうして文字を綴ることをこんなに負担に感じるとは思ってもみませんでした。運動不足のせいでしょうか、このところ少し体力が落ちたようです。想定していたより長くなってしまいましたが、最後まで読んで、そうしてお返事を頂けると嬉しく思います。どうでしょうか。あなたの生きている世界は今どんな状況でしょうか。私たちの社会、そして宇宙を、あなたはどう思われますか。



「203号室の彼、またトイレに閉じこもってるの?」
「そうみたい。個室だからまだいいけど。この忙しいときにさ、正直どうにかしてほしいなあ。消毒の事とか考えると面倒で」
「なんでまた好き好んでそんなとこに」
「若くしてあんな病気にかかって入院して、つらいことも多いんじゃない」
「そりゃあそうだろうけど」
「でもやっぱり気の毒だな。この前の当直の時連れ戻しに行ったら、私、なんでだかバスタブにされてて」
「なにそれどういうこと。ちょっとまずいんじゃないの」
「まあ、ドクターもご存知みたいだし私らにはどうしようもないし」
「そうかもねえ」
「でも良い兆候もあるよ。この間手紙を書くって言いだしてね。誰かに渡してって預かったんだけど、読む?」

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