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どんな情報を取り入れるかで見える世界は変わるけどいつもニュートラルな世界観を持っていたい

たまたま入ったカフェに新聞が置かれてました。
一面のトップ記事は
「北朝鮮の弾道ミサイル発射実験」
についてのものでした。

北海道沿岸の排他的経済水域に落下したそうですね。

「へえ、そんなことが身近で起こっていたんだ」
これが私の間抜けで、正直な感想です。

そういえば、ニュース番組では、評論家を交えて、ことの是非についてあれこれと論じていたように思います。(すぐにチャンネルを変えてしまうのではっきりとは分かりませんが)

新聞は読むべきという思い込み

新聞を取るのをやめてもう5年くらいになるでしょうか。

中学校社会科の教員である私は
一面から三面記事まで、隅の隅までくまなく新聞に目を通すのがかつての日課でした。

大人として、社会科教員として、世の中の動きを知り、自分なりの考えを持つ。
そのために、新聞は必要不可欠なアイテム。

そう思い込んでいたのです。

ところが、ある時期から、だんだんと新聞を読むのがしんどくなっていったのです。

きっかけは、内省でした。

自分は何者なのか?
何のための人生なのか?

今まで外に向いて意識が徹底的に内側に向かっていったのです。

自分の思いが現実を作り出している。

えっ?何それ?どういうこと?

良くも悪くも今までの価値観が大きく揺さぶられ、崩れていくような大変革が自分の中で起こり始めたが今から4年前。

それと同時に、社会で何が起こっているかどうかもあまり気にならなくなっていった。というか、どうでも良くなってきたんです。さらには、その情報を取り入れることに苦痛すら感じるようになったのです。

結果、読まないままに、どんどん溜まっていく新聞を見て、
「もう、新聞は取る必要がないな」
そう思って購読をやめたのです。

もちろん仕事柄、全く世間で起こっていることを知らない訳にもいきません。

Yahooニュースのトップニュース程度のことはネット環境に触れていれば自然と情報は入ってきます。


新聞の読み比べ

今では新聞を全く読まなくなった私ですが、
以前、NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)という『教育に新聞を取り入れる」活動に参加していたことがあります。

当時驚きだったのは、主要5紙を読み比べると、それぞれの新聞によって主張が異なっていることでした。
それまで、「新聞は正しい」と思い込んでいたのです。

しかし、そうではなく、各社それぞれ主張が異なっている。

これは当時の私には、驚きの発見でした。

真実は一つ。しかし解釈は人の数だけ多種多様。
そもそも、人は自分なりの色眼鏡で物事を見ている。
だから、同じものを見ているようで、すでに見えている世界が違う。

これが今の自分の世界観です。
しかし、20年以上も前は、そのような世界観ではなかった。

それだけに、新聞社によって主張が違う。
実際に読み比べた時には本当に驚いたことを記憶しています。


情報リテラシーの難しさ

テレビのワイドショーや週刊誌のゴシップ記事などは全く見ないものの、ネットでは玉石混合の様々な情報が溢れかえっています。

自分の興味のある記事を検索していると、検索エンジンのAIが気を利かせて、どんどん私におすすめの記事を読ませようとします。

そして、いつしか私にとって心地よい記事、興味のある記事ばかりが私を取り囲むようになっている。

でも、ちょっとまったあ!です。

自分に都合の良い記事ばかりに囲まれ、これが判断の源になる。

これって、怖くないですか?

なんだか、裸の王様のような状態ではないかと思ったりもします。

主要5紙を読み比べたように、ネットでもじっくりと情報を吟味する必要性を感じています。

しかし、検索エンジンのAIが気を利かせ、知らないうちに、自分独自の情報ネットワークが出来上がっている。

知りたい情報がすぐに手に入る。
でも、自分独自の情報ネットワークの中では、自分が検索しない言葉や、サイトからの情報とは疎遠になっている。
情報を吟味しているようで、実は似たり寄ったりの情報源のため、大した吟味にはなっていないという現実があるのではないかと感じています。


正しさって何?

「正しさ」自体に疑問を持っています。

そもそも正しさって何なのでしょう?

真実は1つ。しかし、解釈は多種多様。

同じものを見ているつもりでも、人はそれぞれの『色眼鏡』で見たいように世界を見ている。

その前提で、さらに解釈が入る。だから、他人の考えに100%共感しているつもりでも、実はかなりの部分で分かり合えていない可能性が高いのではないかと。

さらに、人は時として、「自分の方が正しい!」と意見をぶつけ、相手を論破しようとします。


しかし、そもそも、絶対的な正しさなんて、この世に存在するのでしょうか。

『正しさ』は、時代や状況その他諸々の事情によって決まる相対的なものなのではないか?

私は、そんな風に感じています。

そもそも、『妥協のない正しさ』をぶつけ合った先の最悪のシナリオが戦争だと思うのです。

それぞれの正しさのために、尊い人命が失われている。

ちょって冷静に考えてみましょう。

命は尊いですよね。
なのに、戦争になると、敵は殺していい?

命は尊い
これは誰もが認める絶対的な正しさだと思ってました。

というか、これこそは絶対的な正しさであって欲しい。そう願いたい。

しかし、現実そうはなっていない。

互いの正義のために、人命が失われている。
戦争の状況下においては、相手の国を倒すことが唯一の正しさになっているのが現状です。

終わりに

同じ環境にいても、見えている世界は人それぞれ。
その見え方に大きな影響を与えているのは、日頃接している情報も含めた環境だと感じています。

どんな環境に身を置くかによって、世の中の見え方は変わってきます。
できるだけニュートラルに世の中を見て生きたい。

そのためには、他人と自分とは見えている前提が違うこと。
正しさは決して絶対的ではなく、相対的に決まっていること。

そんなことを頭の隅に置きながら、人生を歩いてみる。

すると、
そんな見方もありだね。
とちょっと寛容になれるような気がします。

時には、理不尽なことや、不利益なことですら、
大いになる学びと気づきを得た!
と解釈できるようになれるのではないかと。

そうなると、人生無敵。
全ての経験が、人生を味わい深いものに変換されていくことでしょう。


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