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茗荷谷くん #3

玄関は大抵の場合開いている。今日もゆっくりとドアノブを回すと、ゴーっと、換気扇が回る音が聞こえてきた。玄関からかすかに見えるベッドの膨らみが、
あなたが寝ている証拠だった。

洗濯かごには大量の洗濯物が入っていて、昨日食べた夜ご飯のおかずの上には綺麗にサランラップがかけてあって、食器は台所のシンクの中に置きっぱなしなままだった。

おはよう、おーい。
「あ、うーん、ぐぐ」
あなたはそう言って、寝ぐせの付いた髪の毛をかき上げて、大きくあくびをした。
「いまおきた」
知ってるよ。
「ごめんて」
まったくもう、今日は会う約束、してたでしょ。
ごめんごめん、と言いながら、あなたはもう一度布団に潜り込む。
これだから。最近は、自由にどうぞ。こんな感じ。
私が来ても来なくても、
きっとこの人は、こんな感じ。

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             *
当たり前の存在になることが、付き合ったばかりの頃の、わたしの夢だった。
付き合いたての頃、公園のベンチに2人で腰かけて、長いこと色んなことを話したとき、確かわたしは、あなたにそう伝えた覚えがある。
「あなたの当たり前に、なりたいの」
あなたは手に持っている紅茶のペットボトルを口元に充てて、
「そんなの、すぐだよ」
といった。
それでも付き合いたての私たちの間には、重くて気まずい空気が流れていて、
当たり前になるって、難しいのかもね、と二人で笑った。
慎重に、慎重に言葉を紡ぐから
話に花なんか咲くわけもなく、
びっくりしてしまうほどの長い時間をそれでもと二人で楽しんでいたあのときは
今になって、とても羨ましい時間だったと思ってしまう。
ベッドで気持ちよさそうに眠るあなたを見ながら、
「当たり前なんて、あっというまじゃんか」とつぶやいてみた。

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