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パパの価値は○○に比例するのか

最近娘の成長が著しい。

もうすぐ3歳になろうとしている今の時期が、世に言う「イヤイヤ期」なのだろう。

お風呂に入ろうと言うと「入らない」
ご飯食べようと言うと「食べない」
寝んねしようと言うと「寝んねしない」

と言う。

最近は「ゼッタイ」「お願いなの」という言葉まで覚えたものだから、

「ゼッタイ寝んねしない!お願いなの」

と駄々をこねる。


こんな時、実家に連れて帰っているメリットを最大限に利用する。
#離婚後娘と会う時には僕の実家に連れ帰っている

「おじいちゃんにやってもらおっか?」
「おばあちゃんと一緒にやってみて」

と言うと、素直に「うん」と言うことが多々有るので上手くあやかっている。

それは非常に有り難いのだが、
なぜだかは分からないが、

パパがご飯にふりかけをかけてあげようとすると、
「おばあちゃんにかけてもらいたいの」と言い

パパが体温を測ろうとすると、
「おじいちゃんに測ってほしいの」と言う。

ついこの間まで「パパ、パパ」だったのに、最近は一転してパパは不人気なのだ。

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▼パパの価値は稀少性に比例するのか
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基本的に何ごとも「価値」は「稀少性」に比例することが多い。
本来同じ100円であるはずの100円札だって、もう発行されていないという「稀少性」ゆえに、100円以上の価格がつく。


自分が小さい時を思い出しても、やはりおじいちゃんおばあちゃんという存在は特別だった。

おじいちゃんおばあちゃんは、自分のことを怒ることも何かを強いることもあまり無く、甘えさせてくれる。
だから両親に対する接し方とは違って、ムキになって反発などしないし、素直に従おうという気にもなったような気がする。

それは、お互い「たまにしか会えないのだから、その時間は気持ち良く過ごそう」と思っていたのかもしれない。
「稀少性」が「価値」を生み、より価値を感じる相手だったから接し方を変えていたのかもしれない。

時間を共有しすぎると、何事も ”当たり前” の存在になってしまう。
"当たり前" の存在になってしまうと "有り難い" ということを忘れてしまう。

親子関係も、夫婦関係も、友人関係も、ビジネスパートナーも。

あらゆる人間関係もきっと、 "有り難い" を忘れない意識や、適度な距離感、適度な時間共有が大事なんだと思う。

そんなことを考えていたが、やはりタイトルの問いだけは腑に落ちない。

離婚後、おじいちゃんおばあちゃんと娘の時間共有が増えた分、パパとの時間共有は減り、ますます稀少性が高まっている。

パパの人気は上がっても良いはずだ。

どうやらパパの不人気は「稀少性」とは別のところに有りそうだ。

PS(追伸)  
配信時間がバラバラですが、LINEで繋がっていれば読み逃し無くお楽しみいただけます。


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