第五話 大きな芝生としての本屋
こんにちは、ジョージです。
今回は本とひとの関係性についてのおはなしをしてみたいと思います。
もし前回までのお話をまだ読んでいない方はこちらから。
イッピキオオカミたち
僕はずっと、色々な人に支えられて生きていると思っているが、自分のことを人に委ねるのが苦手な気質であったがために、常に「一匹狼」であったと思う。
もちろん学生時代にサークル活動をしていたりもしたし、当然高校時代は部活もやっていた。よっぽど社交的な人間であったと自負しているのだが。
人と考えることが少し違っていたりしたのだが、その根底にはただのコミュティ嫌いということではなく、単なる同調圧力に対しての居心地の悪さだったような気もする。
藝大に行って、結構みんなイッピキオオカミ出身者のような匂いがして、
「イッピキオオカミたちの群れ」
という言葉がぴったりな、謎めいた集団だったことをよく覚えている。笑
シェアの合理性というながれ
僕が建築の勉強を始めたのが2009年の春。
その時代に流行っていた言葉が「シェア」
学生の間にシェアハウスや、シェアバイク、シェア○○などが氾濫していて、「シェア=正義」という風潮があったのを強く覚えている。
どうしたら効率よく社会が関係性を作れるか。
同じ趣味の人と色々なものをシェアしたり。
シェアという言葉には、ある種の合理性があって、その言葉はとても存在感があったように思える。
みんなで同じ方向を目指して
学び始めて数年が経ち、2011年、東北大震災が起こった。
その後、社会も建築教育の場も今までの教育と全く変わっていた。
コミュニティを意識した提案だけがとても評価されていたように感じる。
悪知恵を持って言えば、「都市」という中での「コミュニティ」というテーマで作品を作れば、一定の評価がもらえたような感覚でもあった。
希薄という言葉から思うこと
そして2020年今回のコロナを迎えることになる。
このコロナはまたしても世界に大きな影響を与えた。
社会と個人が大きく分断されたように感じた。
突然「密を避けましょう。」なんて言われて、「えっ?コミュニティは?」って目まぐるしく情勢は変わった。
人と繋がるすべが、「デリバリー」と「オンライン」のみになってしまった。
今の時代に自分たちが生きていく上で必要な関係性ってどんなものなのだろうか。
たとえどんなにコロナが憎かったとしても、こうして色々と立ち止まって考えてみるのもいいものだ。
コミュニティがうまく成立しなくなった瞬間に、
なぜだかよくわからないが、個人的には少しだけスッキリしたのだ。
Facebookの投稿がしやすくなった気がした。笑
(これは僕が筆不精であるのも原因ですがw)
今までのつながりに、少しばかりの居心地の悪さを覚えていたのかもしれない。
もっと「うすいつながり」「かるいつながり」などがとても重要なのかもしれないと思い始めた。
希薄というのは本来ネガティブシーンで使われがちだが、もしかするとそれだけではないのかもしれない。
必要とされすぎることに少し疲れ、今までの状況は荷が重かったような気もした。
つまり、自分が必要とされ、求められることを求めてコミュニティに属するというものではなく、
存在と自由が保証された安心できるフィールドに属していたいだけなのかもしれないと思った。
大きな芝生の設計をしてみる
「青々とした芝生って気持ちいいですよね。」
これって、結構多くの人が共感してくれる。
なんというか、人間の本能的なところなのかな。なんて思うのですが。
なんか、僕は本屋としてまちの人たちや棚主の人と関わってみて、この場所が「芝生のような場所」になったらいいな。と思っているのです。
(これは吉祥寺のブックマンションに行ったときに、中西さんが僕の思ってることをズバリ言葉にしてくれたのです。感謝。)
とにかく芝生を青々とさせて、魅力的にしておく。
ゴミが捨てられたりしたら取り除き、
踏み荒らされたら養生して手入れする。
これが僕の仕事だと思っている。
その芝生には
・1人で転がっている人もいれば
・友人とランチをしている人もいて。
・パートナーと素敵な時間を過ごしている人もいる。
・そこで大道芸を始める人がいてもいいし。
思い思いの使い方ができて、みんなが「自分の場所」だと思える場所にすること。それが求められているのではないかと思う。
別にチューリップを植えたりまでしなくても、十分に美しい芝生ってありますよね。
だから僕は自分のことを「店長」「店主」ではなく「管理人」と言っている。
偶然性のかけらを拾って
少し話は変わるのですが、
普段から建築や企画の設計をするときに考えていることがあります。
それは「偶然性を高める設計」ということ。
例えば
「この曲がり角は出会い頭にぶつかると危険だから、道幅を広げましょう。」
という人がいたとして、
「えっ、そこの曲がり角で、走っていた女子高生と男子高校生が出会い頭にぶつかって、そこから恋が芽生えて。。。という可能性を「ゼロ」にしてしまっていいのだろうか。」
なんて考えてみたりするのです。
そもそも、そんなこと考える人なんて滅多にいないと思うのですが。
とはいえ、僕がやりたいことは、危険性を高めることではないので、安全に偶然性を高めてみようと思うわけです。
極端な例えだけれども、まちなかに偶然何かが起こる可能性スポットが多ければ多いほど、いい意味で人生が狂う可能性が高まるような気がして。
これはAIのアルゴリズムなどでは到底企画できない出来事の設計な気がして。
そのほうが豊かなまちや暮らしが生まれる気がする。
旅する本棚
その偶然性を高める試みとして、「旅する本棚」を始めてみた。
JRさんに、西日暮里駅の通路に本棚を作っていただきそこの管理をBOOK APARTMENTでしているものだ。これはいわゆる無料の貸し借り本棚。
かわいい本には旅をさせよ
これはコンセプトのもとに、自分の本を旅に出すことができる。
旅するのは本なので、本が主人公。
こういう場所には台本がない物語が生まれる可能性がたくさんあると思う。
そのような場所なのか機会なのか、を設計することが豊かさにつながると信じてみたいと思う。
そう考えてみると、この本棚もある種「芝生」の役割をしているのかもしれない。
さて、いよいよ次は、新しい物語のはじまりの話に。
P.S.
僕は今あたらしい本屋を作ろうと画策中です。この話を次回。
https://camp-fire.jp/mypage/projects/370846
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