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●間違いなく、今の私の1/3は山本文緒さんでできている

山本文緒さんが亡くなった。

昨夜このニュースを知った時、にわかには信じられなかった。あさイチに出演されたのを視たのって、あれはいつだった?

調べたら、昨年の12月18日。そうか、去年だったのか。

その頃の私は、10月に自分の手術、すぐに父の余命宣告、看取りに通って12月上旬の葬儀を終え、まだまだバタバタとしていた。


新しい作品『自転しながら公転する』を紹介していた。久しぶりの新作だよね、いつか読もう、と思った。

入院中も、山本文緒さんの本を一冊読んだ。文庫になってから手にしていたのに、最初の数ページからなかなか読み進んでなかった作品『アカペラ』。

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平成23年8月発行。10年前だ。読んだのが昨年なので約9年寝かせていたことになる(笑)でも読んでみたら、その時が最適だったんだよね。不思議。


直木賞を受賞した作品『プラナリア』が、山本文緒さんとの出会い。私はこの本に救っていただいたんだ。

この本、と書いたのは表題作品の"プラナリア"だけじゃないから。

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軽度の鬱を患った私は当時、ひとり暮らしをやめ実家に戻った。病院に通ったり少しずつ生活を戻しながらも

「誰も私のことなんかわかってくれない」

という気持ちが、いつまでも心の奥にこびりついていた。これはこのまま抱えて生きていくんだろうな、と思っていた。

そんな時、どういう経緯だったかは忘れたがこの本を知り、無性に読んでみたいと手にした。


びっくりした。

誰も私のことなんかわかってくれない」という心の主人公がいた。

あ、私だけじゃない、ここにもいた。と涙が出た。


急に視野が開けてきて、世の中そういう心の人が他にもいるんだ、と知ったらこびりついていたモノが少しだけ剥がれた。そして、それで、そのままでいいんだとわかった。

「誰も私のことなんかわかってくれない」

絶望にも似たこの心は、いい意味で当たり前のことで、いい意味で諦めで、ある意味、希望なんだ。


それからは、山本文緒さんの作品をとにかく読み漁った。登場人物に共感したいというよりは、山本文緒さんの書く文章を浴びたくて、飲み込みたくて、次々と。

文体やリズム、使われる言葉が心地よくて、私の"何か"と呼応して、例えば右肩のちょっと後ろ側の、右手の人差し指がちょっと届くくらいの箇所をひっかいてきた、みたいな感覚になる。それが全身のあちこちでおこる、そんな感じだ。

だからね、どの作品のこの言葉が好きとか、うまく書評ができない。


そもそも、感覚人間の私は、瞬時にどこがどうとか顕すのがあまり得意ではない。もしそれが出来ている時は、心から感動してないときだ(ちょっと言い過ぎかな)。

本はもちろん、映画やドラマ、舞台もそうだけど「良かった、とにかく良かった」と終わった後に心底思えるモノは、すぐに説明がつかないものだ。

じっくりと反芻しながら、その"良かった"はどこからくるのか分析めいたことをしてわかっていくだけだ。でも、その分析は本来必要ない。本能が"良かった"と震えた状態でいるのが、いちばん心地いい。最近は特にそう思える。

昔の私は、どうしてそうなのか、そう感じるのかそう思うのか、を解明したくていちいち分析して納得して腑に落としていた。別に今もそれは嫌いじゃないし、むしろそうやって納得することは好きだ。他の人の講釈を聴きながら、"だから私はそう感じたんだな"、と腹落ちするのも楽しいし。

だけど、最近はあんまりそれをしない。感動を頭で考えるのはもったいない、心で感じたままでいたいから。

逸れたが、山本文緒さんの作品には、そうやって"感覚"で触れ続けていた。他の作家さんもいろいろと読んできたが、文体がスッと入ってくるのは女性の方が多い。特に山本文緒さんの作品は、肌触りとか体温とか、匂いや色など、私自身の五感が鋭くなっていくのがわかる。血の巡りが活発になるのも実感する。


久しぶりに読んだのが『アカペラ』で、そのすぐ後にテレビ出演されてる姿を拝見して新作を知った。嬉しくて、あさイチにすぐにメールを送った。鬱だった私が『プラナリア』で救われたことへの感謝。放送中に読まれることはなかったけれど。

そういえば『プラナリア』のあとだったけど、山本文緒さんも鬱を患ったのよね。雑誌でそのことを語っていたことがあった気がする。


1日経って、今こうしてわりと冷静に文章を書いているけれど、昨夜はホント、あとからあとから涙が溢れてきて、しまいには声をあげて(正確にはその声を必死に押し殺して)号泣。

山本文緒さんに対して、何か言葉を発したいとTwitterを開くも、どんな言葉も今の自分のこの感情を表すには薄っぺらくて、絞り出してあげた言葉がタイトルの一文だ。

間違いない。約20年前に救っていただいた、このお礼をいつか直接伝える機会が欲しいと思っていたけれど、叶わなかった。

だから昨年のあさイチに送ったあのメールが、ご本人に届いていたらいいなと願っている。


Twitterには「解き放たれて、どうぞゆっくりとおやすみください」と続けた。

あさイチでみた山本文緒さんは、にこやかでおおらかで、お元気な様子だった。ご本人の普段を追うことはしてなかったから、こういうことは本当に突然だ。父と同じ膵臓がんだったというのも胸がキュッとなった。いろいろとお身体もお辛かったでしょうからと書いた、私なりのお悔やみの言葉です。


今日は目がボンボンに腫れていた。今も冷静だと言いつつ、書きながら思いが強くなってくると涙が顔を出してくる。

山本文緒さんのTwitter、さっき初めて見にいったけれど、作品にからむ幸せでいっぱいでした。


最新刊『ばにらさま』は急いで購入したけれど、いつか読もうとしていた『自転しながら公転する』はどこも品切れで、すぐにお迎えできない。

きっとまた、最適な時に読むために私の手元にやってくるんだろうな。


作品がある、生きていた証があるってことは本当に素晴らしい。いつでも触れられる。しばらくは、今までのたくさんある作品を繰り返し読んでいけばいい。本って、その時の自分の状態で感じ方が違うからいつでも楽しめる。


「あぁ、山本文緒さんの新作が読みたい」

私はいつ、そう思うんだろう。

そんな、幸せな叶わない言葉を口にできる日を楽しみにしよう。


山本文緒さま

たくさんの作品を本当にありがとうございます。どうぞゆっくりとおやすみください。    かしこ

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