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愛した5年間

四月の社員報に新入社員として載せるので、少し質問に答えてください。

そういって内定先の人事の方からメールが来た。
質問の内容はよくあるもの5つくらいだった。
その中にあったのが、「学生生活を一言で表すと?」だった。

この質問への答えは「愛」それしかないと思った。

私の大学生活5年間は、愛にあふれたものだったと思う。

愛する友人たちに出会い、過ごしたこと。
愛する推しに出会ったこと。
好きなことをたくさんしたこと。
親からの愛を理解できるようになったこと。
愛する生徒たちと一緒に勉強したこと。
愛する作品で卒業論文を書いたこと。

それぞれについて書くと長くなりそうだけど、長く書いてもいいのがnoteですよね?

1. 愛する友人たちに出会い、過ごしたこと

私は昔から環境運がすさまじく良い。
周りには最高の友人ばかり。
私も素晴らしい人間なのだと錯覚してしまいそうになるくらい、大好きな友人に囲まれてきた。
類は友を呼ぶ、たぶん私の場合はそうではなくて、
素晴らしい人間で囲んでいないとコイツはだめだ。
そういう神様の采配だと思う。

私の交友関係は決して広くない。
広げる努力というのもあまりしない。
人見知り、知らない人が怖い。そういう名目でいるけれど、
出会った人たちがどこまでも魅力的で、飽きないくらい一緒にいる時間が楽しいから、わざわざ新しい出会いを必要としていないのだ。

中学の時、高校の時に出会っていたなら、絶対に仲良くなっていなかっただろうな(というか私に見向きもしてくれなかっただろうな)と思う友人もいる。
この大学で出会えて本当に良かった。今だったんだ、そう思えた。
タイミングが良すぎた。奇跡。

反対に、もっと早くから出会っていたらよかった、そう思う友人もいる。
本質的に似ているというか、近しいものがあって、
たぶん教室ではおとなしくしていたんだろうな、という。
(決して、決してdisではないです。すみっコぐらしラブ。)
もっと早く出会っていたら、もっと楽しい時間を長く過ごせていたんだろうなと思います。
仕方のないことだけれど、もっと一緒にいたかったな。

みんな先に卒業して、やっぱりなかなか会うことも連絡を取ることもなくなってきているけれど、
久々に会おうよって連絡とか、snsの投稿にいいねとかメッセージとかをくれて、
私は飛び上がるくらいうれしいです。
私の愛はしつこくて重いです。 
これが届くことはない友人の中にも、私の大切な人はたくさんいるでしょう。
私はずっと待っています。
これが届いているみんなも、久々に連絡してみるか、って軽いノリで連絡ください。
連絡できないくせに寂しがりでみんなのこと大好きマンなんです。
知っておろう?

2. 愛する推しに出会ったこと。

出会えてよかった愛する推し。
毎日毎秒私を癒してくれる。
この推しに出会えたのも、愛する友人に出会ったからです。
愛する友人のおかげで出会えた愛する推し。
これぞ愛の連鎖。素晴らしき鎖。

入学したときは、まさか自分がアイドルに貢いでいる世界線なんて
これっぽっちも想像できなかっただろうな。
今では毎日推しの歌声で目を覚まし、
SNSに張り付いて推しの動向を逐一チェックして、
CDのリリースやグッズのために毎月積み立てをし、
一つ一つの供給で騒ぎ立てている。

サイン会に当選するために同じCDを何枚も買う。
ランダムトレカという未知の悪魔。
こういう新しい界隈でも今は楽しくやっている。

可愛くて愛おしくてたまらない推し。
推しのおかげでハッピーライフ。

3. 好きなことをたくさんしたこと。

歌うこと、音楽を聴くこと、友達をおしゃべりすること、映画を見ること、本や漫画を読むこと、料理や製菓をすること、ごろごろすること、旅行すること、美味しいものを食べること、水族館に行くこと、絵を描くこと、、、

挙げればきりがないけれど、たくさんあった時間の中で
こういう好きなことをたくさんできたかなと思う。
旅行はもうしばらく行けていないけれど、また機会はあるはずなので
まだまだ諦めていない。
全国に散らばった大好きな友人たちに会いに行ける日を楽しみにしている。


4. 親からの愛を理解できるようになったこと。

私は愛されてこなかった。
そう思ったことは一度もなかったけれど、
私は愛されている。
そう思ったこともなかった。

良くも悪くも我が家は放任主義だった。
自分で考えなさい。自分でやりなさい。
勉強しなさい、と言われたこともなければ、
いい点を取って褒められた記憶もない。
なんとなく、姉と同じ高校に行くよね?という
無言の圧のようなものはあったかもしれないけれど、
基本的にはすべて任されていた。

これがどれほど大きな愛故だったのかと、考えたこともなかった。

私に興味ないのかな、と思ったこともあった。
でもこの扱いは姉と同じだったから、それは違うらしいと感じていた。
きっと、あなたの人生なんだから好きに生きなさい、
そういう無言のメッセージだったのかもしれない。

母はもしかしたら私と同じで、話すのが苦手なのかもしれない。
この母にしてこの子あり。
母にもポエミーなところがあるので、私は母によく似たのだろう。

過ごしてきた3年間に自信が持てずに、
半ば逃げるようにして休学を決めたときは
さすがにすぐにいいよとは言ってくれなかったけれど、
私がそのまま大学を辞めるのではと思ったからみたいだった。
大学という場所に、私は合っていたと思う。
というか教授と合っていたという感じ。
大学を辞める気はなかった。
それを知ると、頑張りなさいね、とそっとしておいてくれた。
休学中も復学後も、特に何しているのと連絡してくることもなく、
放任主義は健在だった。
私にはとてもありがたい親だった。

私もいつか子を持つことがあったら、母のようになりたいと思った。
私は何かと迷惑をかけていたけれど、
恩着せがましく育ててやっただろ、と言うこともなく、
自分の夢や生き方を押し付けてくることもなく、
いつも私が生きたいように支えてくれていた。
大学だって行きなさいなんて言われたこともなかったけれど、
(自称)進学校に入学したのだから大学に行くのなんて当たり前だと思っていたし、
地元の大学に文学部はなかったから県外に行くのも当たり前だと思っていた。
こんな自由を任せるには、相応の負担というものがあったはずだ。
けれど、何にも言わずに送り出してくれた。

母は子育てに成功した。私はそう思う。
決して、出来のいい子に育てた、そういう成功ではないけれど、
子は素直に母に感謝している。
母のような母になりたいと思っている。

勝手に家族が欲しくて産んだのだから、最後まで面倒を見ろ、と
言われても本当はおかしくないはずである。
しかし子は勉強は進んでしていたし、自立するために就活だって頑張った。
自立するまでに余分に一年迷惑をかけたけれど、
この先は自分自身の力で生きていこうと考えている。
いつかおいしいご飯に連れて行こうとか、
早く結婚して安心してほしいなとか、
そのうち実家に戻って一緒に暮らそうかなとか、
老いていく母をどうやって支えていくのがいいかを考えている。
決して自慢できた娘じゃなかったけれど、
基本的に放任していたにしてはいい仕上がりなのではないだろうか。


5. 
愛する生徒たちと一緒に勉強したこと。

大学5年間のうち、塾では約4年間バイトしていた。
入学してすぐ先輩に誘われた塾は2年で辞めてしまったけれど、
就職を考えたとき、やっぱり塾が向いているのではないかと思った。
それを確かめるためにまた塾でバイトを始めた。
最初に働いていた塾の生徒たちももちろん可愛かったけれど、
所詮バイト、の気持ちがどこかにあった。バイトなのでそれでよいのだけれど。
休学中に始めた塾では、時間があったからできたことだけれど、
バイトにしてはよく自分の時間を使っていろいろなことを考えた。
プリントを作ってみたり、小学生用に英語のアクティビティを作ってみたり、
とにかく生徒のことを考えて動いていた。

私が頑張ったからと言って生徒の成績が上がるわけではなかったけれど、
少しは、この人は自分のことを考えている、ということが
伝わっていたなら嬉しい。確かめる術はないけれど。

いつしか生徒のみんなが可愛くて仕方なくなった。
宿題をしてこなかった時、授業中にウトウトしていた時、
そんな時は少し語気を荒げてしまったこともあったかもしれないけれど、
すべてはみんなへの愛から来ていたものだった。
私が手伝えることは少ししかないけれど、
みんなが少しでも楽しく勉強できたら、一つでもできることが増えたら、
可愛いみんなの未来が少しは明るくなれる。
みんなの思い出の中に、私という存在を少しでも置いていてくれたら
こんなにうれしいことはないのでしょう。

なったことがないからわからないけれど、
少し、親ってこういう気持ちだったのかな、と思うことがあった。
学校の先生とは、きっと似たような気持ちを抱いているのだろうな。
なんとなく、身近にいた大人を追体験したような気がした。

塾の生徒たちと一緒に勉強した日々は、私の5年間の中で、
まぎれもなく大切な思い出になりましたとさ。


6. 愛する作品で卒業論文を書いたこと。

まさか実現するなんて思っていなかった。
私は愛する作品「獣の奏者」で卒業論文を書いたのだ。

この出発点は高校の頃だった。
好きな本が英訳されていたら、英語の勉強がはかどるのにな。
そんな思いを抱いていた。
当時はまだ上橋さんは国際アンデルセン賞を受賞する前で、
国内での評価は高かったけれど、海外に出てはいなかった。
彼女の作品が英語に訳されていたら、きっと肌身離さず持ち歩いて
いつでも読みながら勉強していたに違いない。
もう何なら私が大学卒業したら翻訳家になってこの本たちを世界に届けるか。
なんて漠然とした思いを抱えて大学に進学した。
日本語か英語か、とにかく言語について勉強したかった私は
人文学部に進学し、そこで運よく翻訳に詳しい先生に出会ったのだ。
進級面接のときにこの話をすると、やってみたらいいじゃない、と
予想外に私の野望が叶ったのである。
(正確には野望の出発点に立てた。)

好きな作品だから、英語に訳すだけだから、って簡単だってもんじゃなかった。
自分の英語の知識がすべて疑わしくなるほど、私は何も知らなかった。
一日一文も進まない日もざらにあって、嫌になってしばらく放って置いたこともよくあった。
それでも何とか方向も決まって、この翻訳研究をする意義、私だけの新しい試みも実行できて、
最終的には翻訳と翻訳論を完成させることができた。
長い間苦しんだけれど、ちっとも嫌いになんてならなかった。

目覚ましに好きな曲を設定すると嫌いになる、という現象はよく起こるが、
この作品に関しては、
愛する作品を隅から隅まで嘗め回すように読み込んで、
もっと愛が深くなったのだ。
一年休んでなかったらきっとこんなちゃんとした(ように見える)卒論には
ならなかっただろうと思う。

やっぱり私の5年間は全てが正解だったのだ。


去年、私の4年間には何もなかったと泣いていた私は、
本当はこんなにも愛のあふれた日々を送っていた。
私はこの5年間のすべてを愛している。
それだけで、もういいよね。
何も残せなくても、何者にもなれなくても、
きっとこれで十分なんだ。

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