【随筆】リビドー
リビドーってのはフロイトの言い出した概念だ。時折「性欲的なもの」みたいな言われ方をしているけれど、再定義できるモノだと思っている。つまり、ここで述べる「リビドー」はフロイトの言うところの「リビドー」とは違うということを先に断わっておく。
そもそも、リビドーって何かって言うと
ってことらしい。ここの「エネルギー」ってところ。つまり、モチベーションとか自意識とかそういう言葉では中々説明し辛い、その手前か裏側の概念を論じたいのだ。
じゃあその「エネルギー」の正体って何ですかって話なんだけれど、個人的にはそれは身体性による情報そのもの、あるいは付随するものってことだと思う。本能エネルギーにしても心的エネルギーにしても、その正体は身体性による情報交換によるものだと思う。
人間というのは予測装置として生まれる側面がある。少なくとも脳というのはそういうモノだと思う。学習とは予測と結果の整合性を高くしていくことだ。そういう学習が脳を発達させていく以上、脳は予測装置として生まれる。
一番わかりやすいのは移動と視覚の情報交換だろう。例えば、下の画像
この道を歩いて進んだ時に見える景色は大体予想が出来る。視覚の範囲外へと移る部分を取り除けば予想が出来る。
実際には少しづつ草木が揺れたり雲の流れの変化は起こる。けれども、大体の景色は合っているだろう。で、人間は実際に歩くことによってその”正解”を手にすることが出来る。
そうやって予測と結果を自身の身体運動によって学習させていくことが出来るのが人間であり、脳の発達と言える。
で、この予測と結果の脳と身体運動のやり取りってのは、視覚以外でも勿論起こっているだろう。そんな身体と脳のやり取りこそが、リビドーなのだろうと思う。
だから、先ず身体を動かすことがリビドーを生み出す、エネルギーを与えるという点で大事なのかもしれない。
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