【随筆】創作物

祖父が遺した自叙伝的な文章を読んでいたら「映画を見終わった後の空虚感」について言及していた。祖父はその空虚感が苦手で映画を見なくなったらしい。

分かる。同様の理由で、漫画とかアニメとか小説とか映画とか、そういう創作物のキラキラが苦手になった。現実はそんなに美しくないじゃないかと、思ってしまう。フィクションには雑味が無いんだ。現実はもっと苦しくて色々なモノが絡み合っている。

ストレスのレベルによって起こる出来事は変わる。そんなものに因果は無い。世界はそれを平気で責任という言葉を使って因果と呼ぶ。そういうノンフィクションを生きているんだ。


見終わった後の空虚感は現実と創作物のギャップから来るものだと思う。それは大人になるにつれて夢を抱けなくなることと似ていると思う。夢(目標)と現実のギャップに虚しさを覚えるのが辛いから、夢を捨てる。そういうモノだと思う。社会は何だかよく分からない「常識」とか「一般」とか「普通」というものを中心に動いていて、大人が夢を語るのは非常識で特殊で異常なことなんだ。そういうモノだ。


夢を抱くというのは躁になるとも言える。映画や漫画やアニメや小説には人を興奮させ躁にさせる機能があるのかもしれない。でも、躁になれば必ず鬱にもなる。ずっと元気な人は居ない。動けば疲れるのだ。

それでも、僕は創作物を鑑賞したいと思う。それは、単に興奮を求めているからではないからだ。

作る側の視点を意識することで、楽しみ方が変わった。どうしてここでこのセリフを入れたのだろうか。どうしてここの描写を描かなかったのか。どうしてこのタイトルなのか。どうして、何で、何が目的で、何かモデルになったものはあるのか、そういう視点があると創作物もう一度楽しめる気がする。それは作る側の視点を持つことになる。作る側の視点を持つことは作る側になることに繋がる。作る側になることは、もう一度夢を抱くことだ。

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