部屋の隅をごきぶりが這っている。

 部屋の隅をごきぶりが這っている。
 
 豆電球のオレンジの下で、横になりながら文章を書いている。スマホを顔にうんと近づけて、眩い液晶を網膜に焼き付けながら日本語を書き連ねる。その頭の後ろで、ごきぶりが壁を登っている。
 生まれてこの方二十年住み続けたマンションの一室にごきぶりが湧き始めたのは、三四年ほど前からになるだろうか。初めは一匹見つける度に絶叫していた妹たちも、今では無視して飯を食べるようになった。
 掃除はしない。最早したところで意味の無い段階まで来てしまった。もっと早期に駆除していれば、とも思うが、家族全員面倒くさがりだし、かくいう僕も「掃除した所でどうせいつか汚れる。ならば生活不可能になるまで放置した方が省エネだ。駄目になってから大掃除すればいい」と考えるたちなので、この茶色いごきぶり達が去ることは無いだろう。

 そうして、ここまで来てしまった。

 駄目なってから動けばいい。
 その繰り返しで、僕のこころも駄目になってしまった。

 じゃあ、今からでも全てを片付けてリスタートを切るべきなのではないか。そう何度も考えてきたが、ついぞ実行に移すことは無かった。今もその気は起きない。見えないところに隠れたごみを全て引き出し、まとめて捨てて、バルサン焚いて、どうせだしその間にキャンプでも行けば万々歳だ。そこまで分かっていながら何もする気が起きない。
 何も、する気が、起きない。

 僕には自室が無い。家族全員が寝る場所と、食べる場所と、トイレと風呂とキッチンと物置。これが家の全てだ。学校を卒業するたびに物置を片付けて僕の部屋にする予定が立ったが、それはいつも気がついたら消え失せていた。僕も自室が欲しいという気持ちがあまり強くなかったので、何も言わなかった。今、僕がこうして横になっている一畳の万年床。これがパーソナルスペース。これで事足りた。
 目を閉じ耳を澄ますと、家族の大きないびきの中にごきぶりの歩く音が少しだけ聞こえる。頭の後ろの襖の中にでも彼らのコロニーがあるのだろう。僕の家族はたくさんだ。

 自室が無い話の繋がりでもう一つ言うと、勉強するスペースも無い。強いて言えばリビングだが、大抵誰か居てうるさいので、あまり良い環境ではない。とはいえ小学校では勉強に困らず、中学校では塾があり、高校では自習室があったので、さほど問題は無かったように思う。まあ高校は殆ど勉強しなかったが。

 こうして書いていると、僕には無いものがたくさんあったのだな、と気づいた。
 
 今も本来持ち得るべきものが色々と無い。就学意欲だとか、倫理観だとか、常識とかマナーとか。色恋も少し前には持っていたが、もう萎んでしまった。そういう若人としてのあるべき欲求、節度を、僕は粗方取りこぼしているようなのだった。もう拾いに行くのも面倒臭い。

 とはいえ世の中には僕より恵まれない人々が日本の人口より多くいるし、僕より脆いこころをすり減らして働き納税している人も同じくらいいる。そんな中で、僕はぐうたらと生き延びているわけだ。いつかこの駄文が世間様の目に触れた時、言葉は易しくとも確固たる憎しみと嫌悪によって茶杓で砂山を崩すようなヘイトを浴びせられるかもしれない。お前は何をのうのうとしているのだと。恥ずかしく思えと。
 恥ずかしくないです。嫌う社会の生き血を吸えて、ハッピーハッピーです。
 一応、そういう風に明示しておく。

 今僕の指先に触れたごきぶりは、我が家のごみ山を住処として、まな板にこびり付いたままの肉や魚のかけらを食って生きている。昼間は上位生命体の活動領域を避けて逃げ過ごし、夜中にゆっくりと這い出し、いみじくも自分らが生きる分だけをこそいでいく。それについて、僕は何とも感じない。
 あなたは何を感じるか?
 何を感じようか?

 僕は小説を書いている。その九十九パーセントは僕の頭の中だ。一パーセントである十万字分を出力して世に出した時はとても楽しかったが、思った以上に返ってくるものは少なかった。手当り次第に、出版社のフォーラムから匿名掲示板まであらゆる場所に投げつけてみたが、返ってきたのは、

「 」「 」「 」「序盤で飽きた」「 」「 」

 これ。
 
 冷静に考えれば、僕は素人である。そりゃこうもなろうというものだ。世にひしめく作家達はこのような閑散とした逆境を乗り越え、研鑽を積み、内に眠るもの全てを吐き出しても越えられない壁を血すら吐いて乗り越えることでその地位に登り詰めている。それを適当な空き時間にちゃっちゃと書いたもので超えてやろうなどと、烏滸がましいこと青二才の如し。へこたれることすりゃ許されない所業。

 なのでまあ、僕は僕の為に書くことにした。

 とはいえ、読者が増えてくれるに越したことはないので、折を見ては清書して発表する機を伺っているのである。

 結局、全ては己に帰するのだと思う。
 そう考えると社会的生活を営むことの、なんとチンケなことか。目の前の取るに足らない一個人の為に気を揉むことの、なんと無意味なことか。大宇宙は全ての為に。小宇宙は己の為に。僕は僕の小宇宙を回すことで手一杯なのだ、世界がどーの地球がどーの隣のホニャララさんがどーの、ぜんぶ勝手にやっててくれ。俺を一人で生きられるようにしてくれ。

 ここまで書いておいて、僕は僕の話しかしていない。

 昔から、特に最近は人への関心が薄い。顔と名前が繋がらない。雑談がつまらない。人の身の上話が何も面白くない。失敗談とか、恋バナとか、愚痴とか、何にしろ他人のする他人の話などこの世で最もつまらない作品としか思えない。だから僕の話には、僕以外ほとんど出てこない。僕は僕が一番好きだから、僕の話しかしたくない。
 そう。僕が一番好きなのは僕だ。
 だがどうにも、僕はあまり好かれないらしい。
 好きな人が他人にうっすら嫌われていると、とても嫌な気持ちになる。自分が嫌われていると、これも嫌な気持ちになる。つまり僕は嫌われていると感じた時、人の二倍嫌な気持ちになっている。とてもかなしくなる。そんなだから、友達も数えるほどしかいない。恋人も一週間で離れてしまった。人と触れ合う度に傷つく。もう疲れた。

 だが。しかし。そうぐずついていては生きていけないのがこの世界である。

 こんな人間がやるべきことは何か。とにかく話すことだ。人と繋がろうとし続けることだ。この自傷行為を積み重ねなければ、駄目なものがもっと駄目になってしまう。
 幸い、常人への擬態はこなせるようになった。高校の同窓会でも僕と話して笑ってくれる人が多かったように思う。嫌われはしなかったのだから、勝ちだ。
 
 だがこの擬態は、負荷が強い。

 理解できない者には一度想像して欲しいのだが、あなたが南米アマゾンの奥地に存在する集落に置き去りにされたとして、生き抜く為にはその民族の風習へ自分を同化させに行く必要があるわけだ。異郷の風俗はきっと肌に合わないと思う。だがあなたは余所者であるからして、その地で生きる為にはめちゃくちゃにフレンドリーかつ親和性の高い人間を演じなければならない。身につけるのは化学繊維ではなく葉っぱと毛皮だ。食べるのはハンバーガーではなく虫やイモだ。飲むのはスプライトではなく煮沸した水だ。虫の汁で身体に文様を描き、神に捧げる踊りを習い、知らない言語を一から学び直す。さあ服を脱げ、スマホを捨てろ、村の長に頭を垂れて生きる許しを得るのだ。

 擬態するとは、こういうことである。

 何をオーバーな、と思われるかもしれないが、どうせ理解できないなら多少誇張した状態のものを知っておいて欲しい。そのくらいが共感するには丁度いい。

 さて、部屋の隅のごきぶりからアマゾン奥地の集落で暮らすことの難しさまで話が飛躍してしまったが、そろそろ夜が明けてきた。書きたいことはまだまだあるが、睡魔も限界に近づいているのでここまでとする。

 僕は陽の当たる中で寝る。月の上る頃に起きる。
 
 部屋の隅を這う、ごきぶりのように。
 

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