ヒーローになりたかった少年の唄2022②
ポリコレ
ポリティカル・コレクトネス
(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。
若い頃インディーズバンドでTVの音楽番組に出演したときのことだ。
司会のタレントに「君達まだ音楽でご飯食べられてないんだよね?普段はどんなバイトしてるの?」と聞かれた。
ドラムのやつが「土方です」と言った瞬間、スタッフが飛んできて「NG!」だという。
あぁ、そうか「土方」は差別用語でNGか…
彼は気づき、あわてて「え〜と、土木工事の仕事をやってます」と言い直した。
(生放送じゃなくて良かった〜)とか思いながら、僕の番が来た。
「自分はペンキ屋やってますね」
また彼がすっ飛んできて「それもNGですっ!!」と止められた。
???
(「ペンキ屋」は差別用語じゃねーだろ)と思い「ペンキ屋もダメなんすか?」と聞くと「塗装業」と言いなおせという。
意味がわからなかった。
収録後マネージャーに話すと「TV業界はスポンサー関係がうるさいから色々NGワードがあるのよ。法律とかじゃなくて局や番組の自主規制ってやつだよ」と教えてくれた。
どうもその番組は〇〇ペイントさんだか〇〇リフォームさんだかがスポンサーで、そこの社長が「ペンキ屋」という汚らしい言い方を嫌がるということらしい。
ふざけんなっ!
汚らしいのは俺たち現場の職人だけで、テメーらはいつもエアコンの中でキレイなカッコで机の前に座ってるだけじゃねーか!!
ペンキ屋の俺が「ペンキ屋」って言って何が悪いんだ!!
と、若かりし僕は猛烈に腹がたった。
「言ってはいけない言葉」というのが、人間社会には昔から色々あって、確かに「この言い方はあまりにも人を傷つけるから、人前で使うのはやめたほうがいい」っていう言葉は多い。
「めくら」「片輪」などの身体的な欠陥を指す言葉などは特にそう思う。
そういう言い回しが普通になっていた日本の過去自体、そう呼ばれる側の人に対する配慮が全くない、モラルの低い恥ずかしい過去だと僕も思う。
しかし、個人的には物語のセリフの中に臨場感を出すために差別用語が使われる場合や、本人が差別の当事者で敢えて使う場合など、悪意のない使用には、規制をかけたりするべきではないと思っている。
悪いのは言葉ではなく「悪意」そのものなのだから。
AIのパトロールでポリコレ違反を単語だけで判断されたら、当然この記事もアウトになるはずだ。
しかし、説明に必要な単語を書かないわけにはいかないので、そのまま続けよう。
悪意などなにもない。
「穢多」「非人」などの社会階層を指す言葉も、少し前まで普通に使われていたし「チョン」「チャンコロ」などの出身国を指す言葉や「土人」「クロンボ」などの人種にかかわるもの。
日本では色々なシーンで「差別用語」というものが今もまだかなり使われている。
最近では「情弱」「B層」「DQN」など新しい差別用語もどんどん開発されていて、特にネットの世界ではそんなネットスラングが日常会話になっている場合も多い。
もちろん日本だけじゃない。
世界中で「差別用語」はどこでも使われている。
「ジャップ」「チョッパリ」「日本鬼子」「ヤポーシカ」
我が日本人も、世界中から侮蔑の呼ばれ方をたくさんされている。
心ある人がこういう悪意のある「差別用語」をなくしたいと考えるのは当然のことであり、そういう人達が集まって社会運動を起こすことは、国や世界のモラルアップのために絶対に必要だし、素晴らしい活動をしていると思う。
しかし、この方向があまりに極端になりすぎると、本当に何も言えない世の中がやってきてしまいそうな怖さがある。
行き着く果は「言論統制」である。
戦時や内戦下などの特殊事態にある国では「言論統制」が行われる事が多い。
そういう場合、基本的には国のリーダーや軍の上官への誹謗中傷を制限したり、戦争に反対したり、士気の落ちるような言葉などを制限したり、政府の方針ではでないイデオロギーなどに言及することを制限したりする。
日本も特に第二次世界大戦の戦時下では、憲兵による非常に厳しい言葉の検閲が行われていたことはご存知の通りだ。
ファシズムなどの全体主義国家や共産主義国家には特殊事態でもない普段から、言論・情報宣伝を総括的に担当する政府機関が設置されている場合が多い。
さらに特別な政治・思想警察組織が随伴している例も少なくない。
こういう国家では「言論統制」は日常であり、下手なことはいえない。
捕まったらいじめや拷問、下手をすれば殺される場合さえある。
日本の近くにもそういう国がある。
そんな国の言論や行動の統制具合を見ていると、まあまあ今の日本はゆるくていい国だなぁと思える。
だが実は「言論統制」の魔の手は刻々とこの日本、いや、日本を含めた世界中の国に迫ってきていることが、世の流れを見つめているとぼんやり見えてくる。
◆メリークリスマス“がなくなったアメリカ
これだけではない。
女子競技に元男性のトランスジェンダー女性が初参加したり、LGBTの運動で暴力事件が多発したりと、アメリカの左派は非常に強硬にこのポリコレを推し進めている。
ポリコレに真っ向から反論したトランプ元米大統領は、予想以上に多くの米国民から歓迎されたが、これは暴走したポリコレに疲れ果てた人がかなり多かったのも一因なのかもしれない。
当時の現役大統領のツイッターアカウントを永久凍結するなどという、極端なやり方はどう考えてもポリコレの「暴走」である。
アメリカがこういう全体主義的な波に完全に飲み込まれてしまったら、次は確実に日本だ。
すでにアイドルグループの衣装がナチスドイツの軍服と酷似しているということで炎上したり、オリンピック開閉会式の制作・演出のトップが20年以上前のコントで「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)」のネタをしていたとして降ろされたりと、その兆候がかなり出てきている。
ポリコレに少しでも反論するとすぐにたたかれることから、「まるでポリコレは人をたたくための棒だ」といわれるようになり「ポリコレ棒」などという言葉までできた。
言論の自由の行き過ぎも怖ろしいが、ポリコレの言葉を借りた言葉狩りや逆差別は更にもっと怖ろしい。
特に言葉を扱う創作活動家にとって、虚構の中にまで極端なポリコレを持ち込む風潮は、文化芸術の根幹を揺るがす大問題なのだ。
トランプ当選の時のような反ポリコレの機運が日本にも高まってほしいと思う。
そしてその反ポリコレ派たちはポリコレ推進派たちよりも、目に見えてモラルの高い人物である必要があるのだ。
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