【考察】【感想】映画チョコレートドーナツが伝える普遍性

2012年に公開されたドラマ映画「チョコレートドーナツ」は、1970年代のアメリカを舞台として描かれており、社会背景的にLGBTへの偏見が色濃く残っています。

2020年現在からして見ると、検事が「性的趣向が子供に悪影響を及ぼすことを否定できない」と平然と言ってのけ、裁判長もそれに同調するという背景に、「え、これ事実なの?」と思ってしまいます。

この映画で伝えたい事はまず間違いなくそういった「差別」という概念の悲壮性だと考えられます。

差別を売り物にしているのか

LGBTや障害をテーマに、それをエンタメとして形にすると「差別を売り物にするな」という批判をする人がいます。

この作品の主役や子役は極めて温かみのあり叙情あふれる演技をしていましたが、もし主役が女優だったら、もし子役が一見して健常者の顔の整った男の子だったら、ここまで心に届いて考えさせられることはありませんでした。

それほどまでに、一般的な優しい女性、普通の可愛らしい子供のように、ごく自然に、普遍的な女性と子供を演じていました。

つまり、普遍的な描写として描かれる家族の物語に登場する人物の違和感と、それが故の悲運によって、物語性が濃くなり、エンタメとして評価を得やすくなったという構図になります。

逆説的に、これが面白い作品である限り差別はなくなりません。差別を売り物にするなという批判はここにあります。

違和感を取り沙汰して、それをエンタメとして際立たせてしまっているという点です。

違和感を受け取ってそのままにしておくのであれば、その視聴者の意識には違和感が厳然として残されるでしょう。

ですが、この作品を見てその違和感を受け入れることはできます。

それは前述の普遍性に共感することで違和感を単なる個性として分離することです。

普遍的で暖かい理想的な家族として振る舞うルディやマルコに対し共感したできたならば、ルディやポールがなぜ何の偏見もなくマルコを受け入れられるのか、ゲイであることを受け入れられるのか、を考えざるを得ません。

我々と全く同じ感性を持って幸せに暮らそうとする姿に対して、提示された違和感との間における不和の理由を考えざるを得ません。

そして考えた先に、人間の普遍的な感性の概念に十分触れたならば、「なんだ結局人間として我々と一緒じゃないか」と思うことが出来、見た目だけの違和感を独立して切り取ることができるのです。

切り取ることが出来たら、あとはその違和感を制御して仕舞えばいいのです。

気にしないでもいいし、普通の人がそれぞれ持っている個性と同じようにカテゴライズすればいいだけです。

作品の対差別としての価値はここにあります。

差別を売り物にしていると批判する人は、この方法論の図式における、普遍性と異常性(違和感)が切り離せず癒着し、結果として異物とみなしてその先を見ようとしない傾向にあります。

そのような人は、きっと「正義」という言葉が好きで好きで仕方がないでしょう。

再度になりますが、この映画は普遍的で深い共感を呼び起こすことでこの方法論を辿ることができます。

そして同様の経路を辿ることが出来た人物も作中に登場します。

検事のポールです。

彼はゲイであるものの、当初はそれをアウティングせず、隠して暮らしていました。

ルディに職場を尋ねられた時も、非常に困った対応で、一度突き放したりもしました。

極めて素直に率直に生きるルディに対し、葛藤しながら現実は厳しいということを再三忠告したりもしていました。「怖いもの無しで羨ましい」ともいいました。

ルディと一緒に過ごすときにさえも、周囲には彼を、いとこと称し、関係を隠していました。

ですが彼は、ルディを突き放した後は必ず葛藤し、ごめん許してくれと受け入れてきました。

ルディには見られない葛藤のシーンは、彼には何回も描写されました。

そういった葛藤を経て、作中、徐々にではあるものの、ルディの率直さと感性の普遍性に触れ、前進していきます。

それは同時にゲイである自らを受け入れることにもなります。

次第に自分だけでなく、当初拒んでいたマルコの存在も受け入れるようになり、自宅に匿う決意までします。

途中、相手の弁護士に「愛に飢えたのは子供ではなくて、二人の男だったか」
というセリフを言われますが、この言葉について彼は、描写はなかったものの、恐らく何かしらを葛藤したと私は考えます。

愛に飢えていたのが我々であっても、そうだとしても、マルコは望んでいるのです。

その愛に対する飢えのなにが悪いのか。それが家族という概念の普遍性ではないかと、そう考えた気がするのです。

「太っているダウン症の子供を他に誰が見るのか!」と裁判官に訴えるシーンはまさに、障害と普遍性の両面性を分離できたポールが、障害の側面のみ誇張される世の中の不条理への不満をぶちまけている描写です。

ハッピーエンドとは何か

物語の結末は三人にとってのハッピーエンドではありませんでしたが、世界は変わりました。

単純に審理に勝ってマルコを引き取る展開になるよりも、手紙でマルコの悲惨な死を伝えることで、より鮮明に、克明にその運命を作った当事者の意識を変えることが出来たはずです。

それは偉大な死でした。

たとえ物理世界の運命が決まっていても、その過程や意志は死を意味のあるものに変えます。


それはマルコにとっても、彼としての意味のある期間だったと、それが後付けであったとしても、そう考えてしまうのです。

宇多田ヒカル氏は可愛そうという言葉はその一瞬の断面だけでは決められないと言っていましたが、それは死であっても同じだということなのかもしれません。

チョコレートドーナツの原題はAny Day Nowという題名ですが、これはルディが最後に歌う歌の一節にある言葉です。

“Any Day Now, Any Day Now I Shall Be Released”

監督はこの映画に、今ではなくてもいつか、いつか解放されるという思いを込めたのでしょう。


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