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第1回|ルナとボク

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。
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◎第1回は、中高生時代の数年間をともに過ごしたルナとの思い出。「ボクは後悔ということをしない。でもルナのことは、もしかしたら唯一後悔していることかもしれなかった」。そんな思いが、大人になったボクの、犬とのかかわり方に繋がっていきます。

 中学から高校にかけてのほんの数年間、家族で犬を飼っていた。マルチーズで名前はルナ。どうしてうちにやってきたか覚えていない。すでに成犬だったので、幼稚園で園長をしていた母の知り合いの誰かが手放して、それを引き取ったのだろう。うちには他にも幼稚園や幼稚園に併設された教会でやっていたバザーの残り物があちこちに転がっていたから。
 

 母も働いていて、幼い弟は頼りにならず、父はその昔、長年飼っていた金魚の鱗についた苔を中性洗剤で洗い流そうとしてすべて殺してしまったという過去を持つ。しつけや散歩はボクの係になった。
 近所の図書館で犬の飼い方の本を探して読んだ。部屋の中で粗相をしたら、鼻をそこにこすりつけながら「だめ!」と叱るべしと書いてあったことだけが強く記憶に残っている。
 うちは狭いマンション暮らしで、家の中に犬用トイレを置く場所もなく、玄関にペットシーツを敷いていた。今から考えれば至極当然なのだが、それだけでトイレができるようになるわけもなく、居間や台所でおしっこやウンチをするたびに叱っていた。

 散歩に出ると、ルナはあっちこっち行きたい方へと進んだ。バレーボール部で朝練もあったボクには余裕がなく、早く散歩を終わらせるべくリードの引っ張りになった。結果、小さい犬を引きずって歩いていた。
 毛がちぢれていてブラシがなかなか通らず、所々が汚れた固まりになり、思い切って毛を刈り込んでしまったこともあった。

 ルナはある日突然いなくなった。母に聞いても「わからない」の一辺倒。「玄関のドアを開けていたときに出でていったのかも」とか呑気な返事しか返ってこない。
 ボクは街中を歩いて、走って、自転車に乗ってルナを探した。ポスターをつくって電信柱に貼り付けたりもした。親戚がやっている寿司屋で迷子になった犬を保護したみたいだよと教えてくれた友だちがいて、そのお寿司屋さんを訪ねたりもした。まったく別の犬だった。
 名前を呼んでもこない。粗相だらけ。散歩でも言うことをきかない、坊主姿の犬。それでもいなくなってから初めてわかった。ボクはルナのことが大好きだった。
 母も父も他界していて真相は闇の中だが、考えてみればマンションの5階から小さな犬が単独で外へ出られるとは考えにくい。躾がうまくいかなかったせいなのか、餌代を賄えなくなったのか、子どもには知らせない大人の事情でルナはいなくなったのだと思う。

 それから30年以上が経ち、大人になったボクは犬を飼うことにした。

 人と一緒に暮らすことは自分には向いていないとあきらめ、さりとて一生独りで暮らしていくのも寂しいと感じていた頃、恩師の佐藤方哉先生が悲惨な事故で亡くなった。そして佐藤先生の葬儀でドッグトレーナーの山本央子先生と知り合った。
 山本先生の愛犬は察子さん。野犬として放浪しているところを警察に保護された犬で、それ故に「察」子さんと名付けたそうだ。察子さんはとても落ち着いていて、ボクたちが話をしていると、知らないうちに足元に寝そべっている。呼べばくるけど、なでてもらおうとしつこく寄って来ることはない。
「こんな、つかず離れずの、まるで人みたいな犬がいるんですね」と感嘆するボクに山本先生は行動分析学にもとづいた犬の飼い方を説明してくれた。行動分析学は心理学の一つで、ボクの専門でもあるのだが、恥ずかしながらそのときまで、行動分析学を使ってここまで犬を訓練できるとは知らなかった。


 山本先生の話を聞きながら、察子さんを眺めながら、ルナのこと、ルナの躾のことを思いだした。
 ボクは後悔ということをしない。あのときに戻って人生をやり直したいと思うこともない。でもルナのことは、もしかしたら唯一後悔していて、やり直したいと思っていることかもしれなかった。

 山本先生はボクにとっては行動分析学の先輩でもある杉山尚子先生と親友で、杉山先生は犬の訓練に日本で初めて「正の強化」という行動分析学の理論と技術を取り入れた、栃木県は那須塩原にあるアニマルファンスィアーズクラブを運営する佐良直美先生と懇意にしていた。佐良先生はその功績により、2006年に日本行動分析学会の実践賞を受賞されていた。ボクも学会理事としてその選考には関わっていたのだが、自分ごとではなかったのだ。
 それがようやく、運命の糸のように、すべてつながった気がした。

to be continued…

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle