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織田作之助『競馬』初出翻刻版(第一節)▶杉本竜氏による〈競馬に関する解説と注釈〉付

敗戦後間もない昭和21年、雑誌『改造』の4月号に掲載された織田作之助の短編小説「競馬」。ここでは、仮名遣いを初出のままに翻刻します。加えて、『近代日本の競馬―大衆娯楽への道』(創元社刊)の著者である杉本竜氏に、競馬と『競馬』に関するオリジナルな解説&注釈を各節ごとに付けて頂く、その初回です(太字が注釈のある部分)。

 朝からどんより曇つてゐたが雨にはならず、低い雲が陰気に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走つてゐた。午後になると急に暗さが増して行つた。しぜん人も馬も苦しい気持に沈んでしまひさうだつたが、しかしふと通り魔が過ぎ去つた跡のやうなむなしい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走レースが荒れて大穴がでるからだらうか[1]。晩秋の黄昏がはや忍び寄つたやうなかげの中を、焦燥の色を帯びた殺気がふと行き交つてゐた。
 第四コーナーまで後方の馬ごみに包まれて黒地に白い銭形紋散らしの騎手の服[2]も見えず、その馬に投票してゐた少数の者も殆ど諦めかけてゐたやうな馬が、最後の直線コースにかかると急に馬ごみの中から抜け出してぐいぐい伸びて行く。鞭は持たず、伏せをしたやうに頭を低めて、馬の背中にぴたりと體をつけたまま、手綱をしやくつてゐる騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱつと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと目を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いてゐる先頭の馬に並び、はげしくり合つたあげ僅かに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴[3]だ。そして次の障碍競走レース[4]では、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるやうに落馬し、騎手が一人その場で絶命するといふ騒ぎの隙をねらつて、くさり厩舎の腐り馬と嗤はれてゐた馬が見習騎手の鞭にペタペタと尻をしばかれながらゴールインして単複二百円の配当[5]、馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票してゐた[6]といふ話が伝へられるくらゐの番狂はせである。
 そんな競走レースが続くと、もう誰もかれも得体の知れぬ魔に憑かれたやうに馬券の買ひ方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅れや落馬癖の有無、騎手の上手下手、距離の適不適まで勘定に入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛筆で印をつけて来た者[7]も、場内を乱れ飛ぶニユースを耳にすると、途端に惑はされて印もつけて来なかつたやうな変梃な馬を買つてしまふ。朝、駅で売つてゐる数種類の予想表[8]を照らし合はせどの予想表にも太字で挙げてゐる本命ほんめい(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買ふといふ小心な堅実主義の男[9]が、走るのは畜生だし、乗るのは他人だし、本命ほんめいといつても自分のままになるものか、もう競馬はやめたと予想表は尻に敷いて芝生にちよぼんと坐り、残りの競走レースは見送る肚を決めたのに、競走レース場へ現れた馬の中に脱糞をした馬がゐるのを見つけると、あの糞の柔さはただごとでない、昂奮剤のせゐだ[10]、あの馬は今日はやるらしいと、あはてて馬券の売場へ駈け出して行く。三番片脚かたあし乗らんか、三番片脚乗らんか[11]と呶鳴つてゐる男は、今しがた厩舎の者らしい風体の男が三番の馬券を買つて行つたのを見たのだ。三番といへばまるで勝負にならぬ位貧弱な馬で、まさかこれが穴になるとは思へなかつたが、やはりその男の風体が気になる、といつて二十円損をするのも莫迦らしく、馬の片脚五円宛出し合って四人で一枚の馬券を買ふ仲間を探してゐるのだつた。ある男はこの競走レースは穴が出さうだと、厩舎のニユースを訊き廻つたが、訊くたびに違ふ馬を教へられて迷ひに迷ひ、挽馬場と馬券の売場の間[12]をうろうろ行つたり来たりして半泣きになつた挙句血走つた眼を閉ぢて鉛筆の先で出馬表を突くと、七番に当つたのでラツキーセブンだと喜び、売場へ駈けつけて行く途中、知人に会ひ何番にするのかと訊けば、五番だといふ。さうか、やはり五番がいいかねと、五番の馬がスタートでひどく出遅れる癖があるのを忘れて、それを買つてしまふのだ。――人人はもはや耳かきですくふ程の理性すら無くしてしまひ、場内を黒く走る風にふと寒寒さむざむと吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみてゐた[13]。
 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑ひも迷ひもせず、朝の最初の競走レースから1の番号の馬ばかし買ひ続けてゐた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニユースも聴かず、一つの競走レースが済んで次の競走レースの馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらひもなく誰よりも先に、一番! と手をさし込むのだつた。
 何番が売れているのかと、人気を調べるために窓口へ寄つてゐた人人は、余裕釈釈とした寺田の買ひ方にふと小憎らしくなつた顔を見上げるのだつたが、そんな時寺田の眼は苛苛いらいらと燃えて急に挑み掛るやうだつた。何かしら思ひ詰めてゐるのか放心して仮面めんのやうな虚しさに蒼ざめてゐた顔が、瞬間カツと血の色を泛べて、ただごとでない激しさであつた。
 迷ひもせず一途に1の数字を追うて行く買ひ方は、行き当りばつたりに思案を変へて行く人人の狂気を遠くはなれてゐたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかへつて普通でなく、度の過ぎた潔癖症の果てが狂気に通ずるやうに、かたくななその一途さはふと常規を外れてゐたかも知れない。寺田が1の数字を追ひ続けたのも、実はなくなつた細君がかずといふ名であつたからだ。〔※第二節に続く〕


「競馬」初出冒頭頁(『改造』昭和21年4月号)

杉本竜氏による解説と注釈(第一節)

 織田作之助の短編小説『競馬』の初出は昭和21年(1946)4月ですが、戦後の競馬は同年10月から再開するため、本作で描かれている競馬の風景は戦前のものです。
 本作は、「よく考えてみると「競馬」の小説の筋は、淀競馬場の帰りの道すがら、僕に話して聞かせたお喋りの一つだったのだ」と評論家の競馬仲間・吉田留三郎が述べているように、戦前から構想されていたものでした。二人は京阪線の淀駅が混雑するのに辟易して、省線(鉄道省など政府の管理に属した鉄道線)の神足こうたり駅(現在のJR長岡京駅)まで歩くことがあり、その道すがら織田作が吉田に語っていた小説の原型のひとつだったようです。
 
 近代日本の競馬について簡単に触れておきますと、いわゆる「近代競馬」はイギリス人の手によって横浜の地で始まりました。その後日本人の手による競馬が実施されますが、馬券を本格的に伴うものは明治末年に始まります。
 しかし、刑法では賭博は禁止されていたため、政府は「黙許」という態度を取りました。ところが競走の公正面などをめぐって各地で騒擾事件が相次いだため、明治41年(1908)に馬券は禁止となります。禁止後、馬券を発売しない競馬が細々と実施されていましたが、大正12年(1923)の競馬法成立によって1人1競走につき20円の単勝(1着を当てる馬券)1枚という厳しい条件のもと馬券発売が認可されることになります。昭和6年(1931)には複勝(3着までに入れば的中の馬券)が認可され、空前の人気となりますが、本作はこの「公認競馬」を舞台にしています。
 
 織田作自身も競馬を好んでいました。織田作を競馬に引き込んだのは小説家・藤沢たけで、一緒によく淀(京都競馬場)や鳴尾(阪神競馬場)へ通っていました。ただし資金繰りには苦労しており、1日に使うのは最高でも百円程度でした。織田作は二・三番人気の実力馬を買う比較的固い狙いで、大穴は買わない慎重派だったようです。無頼派作家の印象が強い織田作の、また違った一面をうかがい知ることが出来ます。
 以下、本文に則して競馬に関する部分の注釈を述べていきます。本編を読んだ後にまとめ読みしていただいても結構です。
 
★1こんな日は競走レースが荒れて大穴がでるからだらうか。
 大穴、とは勝つことが予想されていない競走馬が勝ち、高配当が出たことを指します。もともとは「財布に穴をあける」など損をしたことを指す言葉が転じて用いられたようです。
 
★2黒地に白い銭形紋散らしの騎手の服
 当時はターフビジョンや場内テレビがありませんので、自分の購入した馬を確かめるには馬の毛色や騎手の帽子・服色で区別するしかありませんでした。袖の模様が不明ですが、おおよそ下記のような勝負服だったと想像されます。

黒地に白い銭形紋散らしの勝負服

 ★3僅かに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴
 「鼻」とは1着馬と2着馬の着差です。続いてアタマ、クビ、それ以上は馬身で表示します。
 「単勝」とは1着を的中させる馬券です。戦前の競馬では、単勝(大正12年〔1923〕導入)、3着までが的中となる複勝(昭和6年〔1931〕導入)の2種類の馬券に制限されていました。単勝、複勝、枠連、馬連、馬単、ワイド、3連複、3連単、WIN5とさまざまな馬券が発売される現在とは隔世の感です。
 また、現在は馬券の購入に際しては制限がありませんが、戦前は1レースに付1人1枚(20円、のち単複各1枚)の購入しか出来ませんでした。また、払い戻しは最大10倍までと大変抑制的でしたので、200円が最高の「大穴」だったのです。本作の舞台と考えられる昭和10年代後半においては、20円を現在の貨幣価値になおしますとおおよそ約3~5万円と大変高額でした。これでは庶民にはなかなか手が出ないのでは・・・と思われますが、そこには抜け道がありました。これについては後述します。
 
★4障碍競走レース
 現在でも障害レースは実施されていますが、当時の「障碍競走」は軍馬育成のために重要な機会であるとして、陸軍から実施を要求されていました。昭和5年(1930)には、障害競走を横浜・東京・阪神・京都・中山・小倉では9競走以上、函館・札幌・新潟・福島・宮崎は7競走以上実施すること、という通牒が出されています。
 
★5見習騎手の鞭にペタペタと尻をしばかれながらゴールインして単複二百円の配当
 見習騎手とは騎手になって間もない若手騎手のことです。こうした経験の浅い騎手がベテランと伍していくために、昭和6年(1931)に減量騎手制度が認められます。昭和8年の段階では、

一、第一着賞を得たることなき者は五キロを減ず。
二、第一着賞を得たること五回以下の者は三キロを減ず。
三、第一着賞を得たること十回以下の者は二キロを減ず。
四、前各号の適用を受くる者は未成年者に限る。但し昭和八年秋季に限り二十五歳以下の者にもこれを適用す。(以下略)

と定められていました。減量という恩恵を受けた見習騎手が穴をあける例もあったのでしょう、このレースは大荒れで「単複二百円の配当」が出ています。これは単勝(1着を当てる馬券)と複勝(3着までに入れば的中の馬券)が共に最高配当であったことを示しています。従来、的中者のいない場合の売上金や大穴が出た際の剰余金は主催者の収入となっていたのですが、昭和6年以降は投票者へ払い戻しされることとなりました。これを「特配」といいます。このため、荒れたレースは賭け金が割り戻されることになっており、単複配当200円のこのレースも特配が発生したと思います。ただし特配があったことを描くと、作中における大荒れの競馬場の異様な雰囲気が失われると考えたのか、織田作は触れていません。
 ちなみに昭和14年(1939)秋の阪神競馬で単複200円の大穴が出た際の特配はそれぞれ16円・2円でした。単勝に限っていえば20円賭けて16円戻って来る訳ですから、それほど大きな損失とならなかったことがわかります。
 
★6馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票してゐた
 馬主は自分の馬の馬券を購入出来ますが、旧「競馬法」5条により騎手・調教師は出来ませんでした。これは現在でも同様です。調教師・騎手が馬券を購入出来ると、不正騎乗による利得の可能性が発生し、賭博で最も重要な公正性を保てないため、主催者は峻厳な態度でのぞんでいました。にもかかわらず半ば馬券購入を当然視しているファンの態度は当時の競馬の在り方をうかがわせ、大変興味深いものがあります。
 
★7前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅れや落馬癖の有無、騎手の上手下手、距離の適不適まで勘定に入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛筆で印をつけて来た者
 ここでは、競馬という「知的推理娯楽」に勤しむ競馬ファンの日常を描いています。競馬好きで知られ、自らの馬主であった菊池寛は、「我が馬券哲学」において、次のように述べています。

 自己の研究を基礎とし人の言を聞かず、独力を以て勝馬を鑑定し、迷わずこれを買い自信を以てレースを見る。追込線に入りて断然他馬を圧倒し、鼻頭を以て、一着す。 人生の快味何物かこれに如かんや。

 このように、さまざまな文人が競馬に魅かれたのも、単なる丁半賭博に留まらない推理娯楽としての一面をそこに見出したからだと思います。織田作もその例に漏れず、昭和16年(1941)5月には「競馬本」を8冊購入しており、随分研究をしていたようです。ちなみにこの年の5月18日に開催された日本ダービーの勝馬セントライトはのちに日本競馬史上初の三冠馬となりますが、達成当日の京都競馬場に織田作は出向いており、収支はプラスだったようです。
 このように、競馬が丁半賭博ではなく、綿密にデータを駆使し研究することで的中にたどり着く、という〈論理〉は、競馬法を成立させる上で刑法の賭博の例外を設け、また国民の愛馬心を育むためにも不可欠だったのです。
 
★8朝、駅で売つてゐる数種類の予想表
 こうしたデータを駆使した予想に必須だったのがいわゆる競馬新聞です。競馬新聞は競馬法成立翌年の大正13年(1924)から発売されています。現在にあるような各出走馬の過去成績をひとつのボックスの中に収めたような表記(馬柱)は、日本で発明されたものです。
 余談ですが、自身も競馬ファンであった寺山修司は本作「競馬」のヒロイン一代のモデルを織田作の妻である一枝に仮託して「織田一枝 ―織田作之助の小説「競馬」のヒロイン」という詩を詠んでいます。ちなみに、寺山は競馬新聞「馬」を愛読していたのか、それを手にした写真が残されています。
 
★9本命(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買ふといふ小心な堅実主義の男
 固い馬券を狙う織田作の馬券方針が垣間見えます。あるいは織田作自身を投影した箇所でしょうか。
 
★10あの糞の柔さはただごとでない、昂奮剤のせゐだ
 このファンの言葉は、大変貴重な証言です。馬への興奮剤の使用は禁じられており、昭和5年(1930)にも畜産局長から興奮剤の使用に関して留意するようにという通牒が改めて発せられましたが、根絶には至らなかったようです。興奮剤には、玉露を粉末にしたものを卵の黄身と練団子にしたものが用いられ、それにビールや洋酒などもあわせて使用されたそうです。当時何か馬に異常があると興奮剤を使用していたとファンは考えていたことがうかがえます。
 
★11三番片脚かたあし乗らんか、三番片脚乗らんか
 これは分割購入を呼び掛ける掛け声です。先ほど紹介しましたように1枚20円の馬券は一人で購入するには高額でしたので、「馬の片脚五円宛出し合って四人で一枚の馬券を買ふ仲間を探してゐる」と、4人で分割し、1人5円ずつ出して共同購入がなされていました。馬は四本脚ですので、一本分(4分の1)ずつ購入するという意味です。共同で購入した馬券を持ち逃げする人間がいるなど、分割購入の仕組みを悪用した詐欺事件も起こってはいましたが、政府はこの購入方法自体は禁じておらず、分割購入によって競馬は大衆の娯楽として受容されていったのです。
 
★12挽馬場と馬券の売場の間
 挽馬場とは曳馬所、下見所ともいい出走前に競走馬を歩かせ状態を見せるところで、現在はパドックと呼ばれます。競馬場に初めて行く人に、「ここで走るの?」と尋ねられたことがある方も多いのではないでしょうか。
 現在の馬券は機械販売やインターネット販売が主ですが、当時は対面販売で、かつ一人一枚を徹底するため売場は一方通行の作りになっていました。また、馬券を購入するところは購入者の顔が見えず、手だけ出し入れ出来るような穴が開いた作りになっていました。このため、馬券売り場のことを「穴場」と呼びます。

笠松競馬場の旧馬券売場 2021年12月30日筆者撮影

★13人人はもはや耳かきですくふ程の理性すら無くしてしまひ、場内を黒く走る風にふと寒寒さむざむ吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみてゐた。
 事前に周到な予想をしていても、現場の雰囲気に飲み込まれ自分の予想に自信が持てなくなる、という経験は競馬ファンなら誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。おおよそ80年前の競馬場も今と変わらぬ風景であったのか、と思わされる描写です。こうした心理は、作家・芹沢光治良も「しかし、いざ馬券を買うだんになると、群集心理に影響されて、予定の馬を買わずして損をしたりしたが、それが却って面白かった。」と述べているように、その「迷い」こそが面白いとしている点は競馬の魅力の一側面を見事にあらわしていると思います。
 また、競馬は一年中開催していますが、そのハイシーズンは春と秋になります。何かと華やかな、カーニバル的な要素のある春競馬と、どこかしら物悲しい雰囲気を感じさせる秋競馬はそれぞれに違った趣があります。
 
参考文献
大谷晃一『生し愛し書いた』講談社、1973年
オダサク倶楽部編『織田作之助』河出書房新社、2013年
『近代作家追悼文集成 第31巻』ゆまに書房、1997年
『昭和14年秋季 競馬成績書』競馬前夜通信社、1939年
芹沢光治良『芹沢光治良文学館11』新潮社、1997年
寺山修司『かもめ 寺山修司メルヘン全集9』マガジンハウス、1994年
『日本競馬史 第4巻』日本中央競馬会、1969年
『日本競馬史 第5巻』日本中央競馬会、1970年
古井由吉編『馬の文化叢書9 文学 馬と近代文学』馬事文化財団、1994年

<織田作之助が人気声優により令和の舞台に召喚される!>

無頼(ぶらい)

大大阪下のいちびり――人呼んで「オダサク」

出演:速水奨・木島隆一・堀江 瞬・今井文也/サックス演奏:佐々木晴志郎
《会場》
クレオ大阪中央 ホール
(大阪市立男女共同参画センター中央館)
《開催日時》
2022年9月25日(日)16:00開演(15:30開場)
★☆チケット絶賛発売中☆★
※詳しくは下記をご参照下さい。