星の味 ☆15 “壺のような日”|徳井いつこ
海が近づいてくると、すぐにわかる。大気中の光の量が増えてくる。あたりいちめん眩しくなる。
山が近づいてくると、すぐにわかる。雲が頭上をゆく。焚火の煙のようにすばやく流れる。
神戸で育った私は、海と山が近接している土地の特性を、からだで覚えた。雨が降る前は、海の匂いが濃厚になり、船の汽笛が大きく響いた。
六甲おろしと呼ばれる山風は、海から吹く風と違っていた。冬の颪は、子どもが手を広げて立つと、本当にもたれられるくらい強かった。
八木重吉のこんな詩を読むと、ああ懐かしい、と思う。
それが ことによくすみわたつた日であるならば
そして君のこころが あまりにもつよく
説きがたく 消しがたく かなしさにうづく日なら
君は この阪路をいつまでものぼりつめて
あの丘よりも もつともつとたかく
皎々と のぼつてゆきたいとは おもわないか
神戸の坂道。上ってゆけばゆくほど、どんどん急になり、ふうっとため息をついてふり返ると、眼下にきらきら光る海が見えた。よく晴れた日は、大阪湾の向こうに遠く紀州の山々が望まれた。
八木重吉は、24歳から27歳までの3年間を、神戸の御影で暮らした。家庭教師の教え子だったとみと念願の結婚を果たし、英語科教師として御影師範学校(現・神戸大学)で教鞭をふるった。
結核を患い29歳で夭折した重吉にとって、この新婚時代は、もっとも幸せな時間だったという。彼の奇跡のような詩のほとんどは、御影時代に生まれている。生前に出版された唯一の詩集『秋の瞳』は、その時代の結晶だった。
御影という地名は、神功皇后が古い泉にその姿(御影)を映したという伝承からついたとされ、花崗岩の別名「御影石」の語源ともなった。海近くには灘五郷の酒蔵が並び、山手には御影石の石垣や門柱を配した落ちついた家々が連なっている。
重吉が暮らしたのは御影のなかの石屋川、住吉で、借家暮らしだったが、桃子、陽二というふたりの子どもに恵まれた。
偶然にも、私の住んだ場所と重なっていたから、詩を読むと、ときにふと情景が見えるような気がする。
この虹をみる わたしと ちさい妻、
やすやすと この虹を讃めうる
わたしら二人 けふのさひわひのおほいさ
虹はどこにかかっていただろう? 海へと流れ落ちる六甲山系のいくつもの緑のひだから立ち上がっていたかもしれない。
重吉ととみは、仲のよい兄妹のような夫婦だったという。日曜には、カンパスとイーゼルを抱えて、眺めのいい丘に写生に出かけた。チョコレートやキャラメルを持って後を追うとみに、重吉はシューベルトのセレナーデを歌うようせがんだという。
壺のような日 こんな日
宇宙の こころは
彫みたい!といふ 衝動にもだへたであらう
こんな日
「かすかに ほそい声」の主は
光を 暗を そして また
きざみぬしみづからに似た こころを
しづかに つよく きざんだにちがひあるまい、
けふは また なんといふ
壺のような 日なんだらう
どこか深い力に駆り立てられているようなのは、最初の詩とつながっている。
彫みたい、とそれは言う。微かな幽けき声を、重吉は聴き逃さない。それは「宇宙のこころ」の声、と同時に、重吉の衝動だったろうか?
「甕」という詩もある。
甕 を いつくしみたい、
この日 ああ
甕よ、こころのしづけさにうかぶ その甕
なんにもない
おまへの うつろよ
甕よ、わたしの むねは
『甕よ!』と おまへを よびながら
あやしくも ふるへる
壺も甕もうつろ。
そして、楽器もうつろだ。
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう
うつろは震える。うつろは鳴る。
なにより大いなる「うつろ」は、頭上に広がっている空だった。
空が 凝視てゐる
ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
おそろしく むねおどるかなしい 瞳
ひとみ! ひとみ!
ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
かぎりない ひとみのうなばら
ああ、その つよさ
まさびしさ さやけさ
重吉はときどき、とみを呼んで「プーちゃん、ケツだよ」と、できたての詩を見せることがあったという。とみは「本当に傑作ね」と笑い、ふたりで喜び合ったらしい。生まれたばかりの詩をリボンで綴じて手製の小詩集に仕立てるのは、とみの役割だった。
そのなかにあった一篇。
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかつたのです
ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福れながら
あの平安であった日々に、重吉をひたしていた「かなしみ」は、いったい何だったのだろう?と、とみは回想『琴はしずかに――八木重吉の妻として』に書いている。
人間の心はそのなかに生まれた、とうたわれた「光」。その一字を題に冠した四行詩がある。
ひかりとあそびたい
わらつたり
哭いたり
つきとばしあつたりしてあそびたい
重吉が繰り返しうたった「かなしみ」は、生きて呼吸していることと、ほぼ同義語だったのかもしれない。
詩「壺のような日」のなかで「光と 暗を」を彫んだ「宇宙のこころ」は、べつの詩ではこんなふうに語られている。
宇宙のこころはかんじている
いまの世はくちた世であると
そして
あたらしい芽がこの世から出ないなら
焙きほろぼすにしくはないと
偽善者やぬすびとだけがいけないのでもない
純情の人といえどもかなしき不具者である
ああ さむげに
ひかるように かんじている 宇宙のこころよ