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『進化が同性愛を用意した:ジェンダーの生物学』「はじめに」公開

(編集部より)
創元社は、2023年6月23日に、坂口菊恵著『進化が同性愛を用意した
ジェンダーの生物学
』を刊行いたします。
地球上の生物の間では、同性愛はまったく珍しくない。実に1500種を超える動物で、同性間の性行動が観察されている。その理由と性の多様性の本当の意味を生物学の視点から明らかにする一冊です。
今回のnoteでは、本書の中から「はじめに」を公開いたします。
ご高覧いただけますと幸いです。


『進化が同性愛を用意した』書影


はじめに――「ジェンダー」を生物学に取り込む

 わたしはもともと進化心理学の立場から、ヒトの性行動の個人差や、性ホルモンのはたらきについて研究していた。

 進化心理学では、ヒトの生物としての普遍的な特徵を、進化の産物としてとらえる。人間の文化も、環境に応じた進化適応の産物とみなすのが身上である。あらゆる点において、生物にとっての共通通貨――それぞれの遺伝子がどれだけ効率よく自己を拡散させられるか――をもとに仮説を組み立てようとする。

 ところが、性的マイノリティの存在は、遺伝子が自らを効率よく拡散させるために個体の行動を操作するはず、という前提に反するように見えるパラドックスだった。同性愛者は自らの子孫を残すのには不利であるにもかかわらず、その出現は遺伝的な影響を受けていると考えられたからである。
実は、生物学寄りの研究者たちは、もともとヒトを含む生物の性が多様であることを知っており、自ら子孫を残さない同性愛の性的指向がなぜ集団に存続するか説明しようと、知恵を絞ってきた。しかし、いずれもそれほど説得力があるものとは言えなかった。

 だが、ヒト以外の生物でも同性間の性行動がひろく見られることが認識されるに従い、生物の性行動は異性間で、直接的に生殖をめざして行われるはず、という前提が崩れつつある。多くの生物はもともとは両性愛であり、同性との性行動が特にコストである種において、同性間性行動への忌避が進化したのではないか、というモデルも出されている。

 ヒトの性行動に関しても、現代の生物学の基礎が欧米で確立してきた時期の一般社会の認識にもとづく「異性愛が普通で正常である」という前提を取り去るならば、同性間で性行動をとる人間はマイノリティでもなんでもなかったことに気づく。「普通」とされる性行動のあり方は、生物学的な性ではなくて、社会的な性役割によって規定されていたのである。
 
 すなわち、典型的な性行動を規定するものは、「生物学的」な性別ではなく、その社会におけるジェンダー・ロール(性役割)だつた。

 生物学の議論から、かなり離れてきてしまったように感じられるだろうか?

 実は、ヒト以外の生物でも、性別のパターンは2つにハッキリと分けられるものであるとは限らず、生殖腺の性と、外見あるいは行動の性別の区分が一致しない個体が存在する。すなわち、一つの種の同じ性別内に、ジェンダー・ロールが異なる個体を擁する生物が存在するのだ。

 そして、主に異性のみと性行動を取るか、あるいは両性と行うか、という行動パターンは、ジェンダー・ロールによって決まっている。

 もちろん、わたしとしては、すベての多様性を文化や学習の違いで説明してしまおうとしているわけではない。

 そうではなくて、「ジェンダー」という概念を生物学の枠組みに取り込むことによって、個体の発達と生物学的な素因や進化適応との関係を、より精緻に明らかにすることができるのではないか、という提案である。

 生物学の分野でも、歴史学においても、最近までわたしたちが当然と思い込んできた性の二分法が、普遍的なものとは言えないことを示す発見が相次いでいる。

 分野横断的な俯瞰によって、従来考えられていたような「雌雄の差異の実在」を議論の前提とする本質主義的なロジックが崩れ、新たな共通理解ヘとアップデートされていく眺望のはじまりを、お楽しみいただけると幸いである。


【目次】
Part 1 同性愛でいっぱいの地球
Part 2 ヒトの同性愛を生物学からさぐる
Part 3 生物学的説明の限界
Part 4 ジェンダーの生物学
Part 5 ヒューマン・ユニバーサルな同性愛
Part 6 宗教戦争としてのホモフォビア・トランスフォビア
Part 7 多様性は繁栄への途


[著]坂口 菊恵(サカグチ キクエ)
1973年、函館生まれ。函館中部高校卒業後、宅浪を経て二十歳で上京、家出。数年のフリーター生活後、東京大学文科III類に入学、東京大学総合文化研究科広域科学専攻で博士(学術)を取得。東京大学教養教育高度化機構にて特任教員、現在は大学改革支援・学位授与機構 研究開発部教授。専門は進化心理学、内分泌行動学、教育工学。著書に『ナンパを科学する(東京書籍)』『科学の技法:東京大学「初年次ゼミナール理科」テキスト(東京大学出版会、共編著)』『脳とホルモンの行動学:わかりやすい行動神経内分泌学(西村書店、分担執筆)』など。