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第11回|はるホエーヌを卒業する③

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。*マガジンページはこちら

◎第11回◎
ボクの試行錯誤のかいあって、食べ物が欲しいときの吠えはなくなった。
残すは誰かが家に来たときと、クレートに入れられたとき。
さあはる、ホエーヌ卒業できるかな!?

 犬と暮らそうとボクが思ったきっかけは、山本央子先生の愛犬、察子さんとの出会いだった。犬は吠える。当時のボクはそう信じていた。というか、吠えない犬がいるなんて、想像すらしていなかった。犬は人懐っこく、四六時中かまってもらいたがる。ボクはそう信じてもいた。人と距離を置いて静かに佇む察子さんは、これもボクの思い込みだったことを教えてくれた。

 吠えなくてもいいときに吠えることを、犬業界では「無駄吠え」という。ご飯が欲しいと吠えるのは「無駄」である。なぜなら吠えなくてもご飯はもらえるから。
 散歩中に飼い主とはぐれてしまって吠えるのは「無駄」ではないかもしれない。そうすることで飼い主に見つけてもらえるなら。でも、家の中で飼い主がちょっといなくなっただけで吠えるのは「無駄」である。なぜなら飼い主はすぐに帰ってくるし、その間、家の中は安全だから。
 山に住む野犬が熊に出くわし、吠えて熊を追い払うことができるなら「無駄」ではないかもしれないが、荷物を届けてくれた宅配の青年に吠えるのは「無駄」である。なぜなら宅配青年は犬を襲ったりしないから。

 どのような状況で吠えるのが「無駄」なのかは人が勝手に判断する基準だから、もちろん犬にはわからない。なにしろ犬は、番犬や狩猟犬として人と暮らすという長い歴史の中で、不安や警戒、要求といった場面で吠えるように教えられてきた動物だ。吠えて人の役に立てば優秀とみなされ、その子孫が残されていくことで、吠えやすい特性が遺伝されてきた。
 ところが時代は変わった。日本では700万頭の犬が飼われているが、今ではほぼ室内飼育だ。猟に出るわけでも、侵入者を撃退するわけでもない。飼い主が求めているのは、一緒に遊んだり、寝転んだり、そういう様子を見て得られる癒やしだったりする。犬の役割も大きく変わったのだ。

 チワワのような愛くるしい小型犬にも、番犬や狩猟犬としての特性がDNAの情報として残っているのだろう。おそらくは、愛玩犬としての品種改良が、不安や警戒などの状況に対する反応ではなく、大きさや毛並みといった外見をもとに行われたからだ。「小さいのに勇敢に」とか「虚勢をはって」とか言う人がいるが、勝手な解釈だなとボクは思う。犬はそうするように昔の人によってつくられた種族なのだから。
 それゆえに犬が吠えるのは仕方がないと思っていたのだが、山本先生と察子さんがボクに教えてくれたのは、そういうDNAを引き継いでいても、現代では「無駄」になった場面でわざわざ吠えることはないと人が教えれば、犬はそれを賢く学べるということだった。

 はるの食事、ボクの食事のときの「無駄吠え」はなくなった。残すは誰かが家に来た時と、クレートに入れられたときの「無駄吠え」だ。
 ボクが住むマンションには共用エントランスがあり、来訪者はまずそこでインターフォンを押す。このときに室内には「ピンポーン」と音がなる。はるは顔を上げ、耳を立て、首をかしげたりして音の出どころを探している。ボクはインターフォンに出て、解錠し、山本先生から教えられたように、フードを居間の床にばらまく。はるはそれを食べ始める。
 そのうち、来訪者が玄関にやってきてチャイムを押す。室内にはさっきとは少し違う「ポーン」という音がなる。はるは少しだけ耳を立て、横目で音がなった方向をちらっと見るが、フードを食べ続ける。ボクは床にまだ十分な量のフードが散らばっていることを確認してから玄関へ行き、ドアを開ける。宅配なら荷物を受け取り、急いで居間へ戻る。はるはまだフードを食べている。成功だ。


 家にやってくる見知らぬ人、その前兆となるチャイムの音は不安反応を引き起こすが、不安とは正反対の反応を引き起こすフードを与えることで、不安は減少する。これは「拮抗条件づけ」という技法である。それに、床に散らばったフードを探して食べている間、吠えられない。咀嚼しながら吠えるのは難しいからだ。食べる行動はフードによって強化されて増え、食べる行動が増えるぶん、吠える行動が減る。これは「他行動分化強化」という技法である。どちらも、これまで数多くの研究で効果が検証されているテクニックだ。用語や説明はやや難しく感じるかもしれないが、やることは簡単。犬が吠えそうな場面で、吠える前にフードをばらまけばいい。

 注意点は3つ。吠えてからフードを与えると、要求の吠えを増やしてしまうから、吠える前にばらまくこと。犬ががつがつと食べるフードを使うこと。当初、ボクはこのために、普段は与えない牛肉のジャーキーをあらかじめ細かくちぎり、すぐに取り出せるように容器に入れておいた。そしてフードはけちらず十分な量をまくこと。宅配の受け取りなどに時間がかかって、その間にフードを食べ尽くしてしまうと、玄関から知らない人の声が聞こえてきて、不安を煽ってしまうからだ。

 この技法を取り入れてから数週間で、はるはチャイムや訪問者に対してほぼ吠えなくなった。そこで、床にばらまくフードの量を少しずつ減らしていった。今では共用エントランスからの第一チャイムがなったときの様子を見て、落ち着いていればフードをまかないときもある。それでもほぼ吠えない。興味深いのは第一チャイムがならずにいきなり玄関のチャイムがなるときで、このときはボクも驚くし、はるもびっくりした様子を見せ、ときには吠える。宅配の青年が、マンション内の誰か他の人に共用エントランスを開けてもらい、そのままボクのうちの荷物も持ってエレベータを上がってしまったときや、消防点検などでマンション内を巡回している作業の人が直接玄関のチャイムを押すときに生じるハプニングなのだが、せいぜい月に1回くらいの出来事なので、これはこのまま放置している。


 玄関から室内に入ってくる客人や作業担当者への対応も基本は同じ。吠える前にフードを与える。それでも落ち着かなければ、吠える前に抱きかかえる。落ち着けば床に下ろしてフードをまく。そのうち、はるは客人や作業担当者の足元に用心深そうに近づき、匂いをかぎ、離れることを何回か繰り返したら、クッションの上に座るようになった。はるがうちに来て数か月のうちは、友達が来ている間、ずっと吠えたり、吠えそうになっていて、おしっこをもらしてしまったこともあったが(そう言えば、あれは奥田健次先生がいらしたときだった)、今ではほぼ吠えず、大体は落ち着いている。
 最後に残ったのがクレートに入れられたときの吠え。他の吠えより大きな声で、遠吠えのような唸り声も上げて吠えていた。クレートに入れられても落ち着いて過ごせるように教えることをクレート訓練というが、この取り組みは失敗の連続だった。どのように取り組んだかは別の機会に詳しくご紹介することにして、ここでは結論だけ。

 クレート訓練は諦め、はるはクレートには入れないことに決めた。居間に設置したクレートは最終的には撤去した。そして居間の隅にキャリアを置き、キャリアのドアはいつでも開放した状態で固定して、はるが自分から入れるようにした。入ってもドアは閉めない。
 このことでボクとはるの生活にはいくつかの制限がかかることになった。クレートに入れて犬を預かるドッグホテルは利用できないし、キャリアに入れて電車やタクシーで移動することもできない。犬が苦手な友達は家に呼べなくなった。山本先生には災害が起きて避難するときに困ったことになりますよと忠告された。
 そこで、まずは近隣のドッグホテルを探しまくり、クレートに入れずに預かってくれるホテルを見つけた。ちょうど買い替える時期だったので、自家用車はもしものときには後席を倒して寝泊まりできるワンボックスにした。元々趣味で山登りをしていたのでテントや宿泊道具は揃っている。これらを避難用具として備えておくことにした。

 クレート訓練には失敗したが、はるはホエーヌから無事に卒業した。うちに来たときにはあれだけガン吠えしていたのが嘘のように、今では静かに落ち着いている。数えてはいないが、吠えるのは月に1回程度、予想外のハプニングのときくらいだ。

to be continued…

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle