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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第15回|井上義和・坂元希美

【番外編 2】国葬儀のルールなき日本で公に尽くした名もなき死者たちを「弔う」には 

(取材/構成:坂元希美)

 1926年に定められた国葬令が戦後に効力を失って以来、どのような人をどのような場合に国葬儀とするのか、明確なルールがこの国にはない。安倍晋三元首相が2022年7月8日に凶弾に倒れ、「葬儀を国において行う」と閣議決定してから、葬儀実行幹事会が3回の会議を行って一般献花の実施要項まで決まったのは9月21日。準備に2か月以上を要した国葬儀は、賛否が激しく割れる中で27日に営まれた。

 この状況を受けて岸田文雄首相は29日、「国民のより幅広い理解を得て、国葬儀を執り行うにはどうしたらよいか。適切な金額や規模はどうかなど、今後の国葬儀のあり方について国民各層の議論を踏まえ、幅広い理解をいただけるよう必要な検討を行っていきたい」と述べ(※1)、10月から21名の有識者にヒアリングを行って12月22日に「論点の整理」を公表した。けれども、「あり方」は明確になることなく今に到っている。

 そもそも国のため、公のために尽くして亡くなった人を弔うとはどういうことなのか。著書『未来の戦死に向き合うためのノート』『特攻文学論』で、国に尽くした将兵や自衛官の死とその受容について問題提起をしてきた社会学者、井上義和氏に聞いた。(取材日:2023年8月10日)

※1 朝日新聞2022年9月29日〈国葬検証で有識者から意見聴取へ 岸田首相が表明 論点や意見を整理〉

結局作られなかった国葬儀のルール


――政府は、国葬儀に関する明確なルールは定めないということで決着したようです。

 様々な立場の識者からヒアリングをして、「これは難しい」と再確認することになったのでしょう。松野博一官房長官の記者会見によると、時の内閣が判断し、執り行う際には国会に説明して、終了後に国会に報告する――という現状そのままとなるようです(※2)。明確なルールを作ったり、今回の反省を踏まえて新しいことをしたりはせずに、仮に今後誰かの国葬儀をするかどうかという事態になっても同じことを繰り返すということです。

――8月下旬にまとめられた「故安倍晋三国葬儀記録」で、松野官房長官は8年超首相を務めた安倍氏が選挙運動中の非業の死を遂げたことで「国の公式行事として開催し、海外からの参列者の出席を得る形で執り行うことが適切と判断した」と序文を寄せました。国葬儀に値する人物の基準が示されたとも感じられるのですが。

 政治家で功績が非常に高い人、つまり安倍元首相レベルという前例にしたいのでしょう。しかし、政治的業績のレベルを測ることは可能なのか、もし安倍氏が病死であったとしたら国葬儀にはならなかったのかなど、やはり課題があるように思います。

 おそらく今後、国葬儀の基準やルールを作る機会はないでしょうから、その時の内閣で同じことを繰り返していくのでしょう。

 私は今回で一番問題だと感じたのは、死者が出てから開催について2ヶ月半にわたって議論することになったことです。死者はもちろん、弔いの機会を待たされている人も傷ついたでしょうし、政治家としての安倍氏に批判的だった人にも「弔うのは良いが、業績は肯定できない」など葛藤を生んだでしょう。この居心地の悪さをそのまま放置することになるのです。

安倍晋三国葬儀の会場となった日本武道館
(photo by しんぎんぐきゃっと)

――政治家であれ著名人であれ、亡くなってから「この人はその儀礼に値するかどうか」を議論するのはつらいなと感じます。

 亡くなってからその資格があるかどうかと問われるのは、関係者はもちろんつらいでしょう。傍から見ていてもつらいし、その議論に参加するのもつらく感じると思います。

 だから、明文化できなくてもある程度のルールがあることは必要ではないでしょうか。たとえば、総理経験者だったら慣例として内閣葬や党との合同葬にするといった合意が野党も含めてできていれば、すぐに儀礼の方針が政府から発表されて、数週間程度で決定できる。国民としても故人の業績や評価の是非とは別に喪に服する期間が明確になりますから、弔うことに葛藤が生まれることはなくなるはずです。

――天皇や国王など、君主の国葬は基本的にルールが定まっていて議論抜きに行われることがほとんどですね

 国家の存立の根幹に関わる君主の国葬は、世論調査や国会で是非を議論するものではなく、ほぼ完全にマニュアル化された儀礼です。それに対して、政治家の国葬については、革命や戦争や建国などで強力なリーダーシップが求められた激動の近代に生まれたもので、平和な現代には無理があります。

明治天皇の大喪の礼(伏見桃山御陵)

 たまたま国家のリーダーにあった人を国として弔うために、亡くなった時点での政治的な業績で評価しなければならない、その業績評価によって儀礼のランクを決めなければならない、というのは、本来おかしな話なのです。

 そもそも政治家の評価は、選挙の結果はもちろん歴史的な振り返りによって事後的かつ総合的に定まってくるものです。支持者にしても国葬儀実現のためとはいえ、性急に業績の正当化を図らなければならないことは、相当つらいはずです。おそらくこの1年で私たちはこうしたおかしさを感じ続けてきたのではないかと思います。

※2 「執り行うことを決定した場合、国会に対して説明する。終了後、その概要について国会に報告することが適当だ」「国葬を検討するにあたっては、取りまとめた論点と意見などを踏まえ、時の内閣において、責任を持って判断していく」とも語り、実施基準は明文化しない方針も示した。
毎日新聞2023年7月3日〈首相経験者の国葬「終了後、国会報告が適当」 官房長官が初言及〉

公に尽くして命を落とす名もなき人を「弔う」とは


――この3年間にコロナ禍やロシアのウクライナ侵攻で死が身近になり、死者の遇し方までも変わった世界へと私たちは急に放り込まれた感があります。

 これまでも東日本大震災など自然災害や大規模な事故はあり、多くの方が急に亡くなる事態に直面してきましたが、その中で消防や警察、あるいは役所の職員や原子力発電所に勤務する人たちなど、自分の命が助かるよりも職務を優先して亡くなった方はおられたでしょう。多くは後々になって報道やドキュメンタリーでその事績や遺族のことなどを知るわけですが、そうした公に尽くして亡くなった人たち(公の死者)を社会の中でどう受け止めていくのかまでは、繋がってこなかったように思います。

 現在でも医療従事者や介護従事者などが非常に健康リスクが高い環境に身を置いて職務にあたっていますが、社会のために命をかけて職務を遂行する人たちに特別手当てをつけたり拍手を送ったりというだけではなく、然るべきリスペクトの示し方、たとえば公からのねぎらいの言葉や儀式が必要でしょう。

2020年、イギリスで行われた「Clap for Carers (医療・介護従事者に拍手を)」キャンペーンには、王族や首相も参加。写真は同年5月14日に首相官邸から拍手を送るボリス・ジョンソン首相(当時)。

――医療従事者やエッセンシャルワーカーがいなければ、私たちは安心・安全に暮らせないことがあらわになりましたが、そうした「名もなき人」たちが不幸にも命を落とし殉職したとしたら、社会としてどう扱うべきなのでしょうか。

 私が『未来の戦死に向き合うためのノート』で使った表現で言えば、肯定と包摂を区別することが大事です。死者の包摂は、死の否定と両立しうるということです。

 まず、最前線で身体を張って業務を遂行する人びとを、リスペクトを込めて社会全体で包摂することです。殉職者を包摂することは、しかし、殉職を生んだ危険な現場の現状まで肯定するのではありません。その背景にある制度・政策などの責任を免除するのとも違います。それらは大いに批判して改善していくことが必要です。ここの切り分けができないと、死者へのリスペクトが、死の美化(=批判封じ)に見えてしまいます。

 死者への儀礼に生前の活動に対する評価を混ぜない、という話ともつながります。

 有名な死者であっても業績で評価される政治的な部分と、亡くなった時にその人をどう遇するのかは切り分けるべきです。安倍氏の国葬儀は、それが一緒になってしまったがために非常に難しいことになってしまいました。ルールや慣例に則って、公に尽くした死者としてリスペクトをもって弔い、政治家としての評価は別に行うのが本来のあり方だと思います。死者でなくとも国家や社会、共同体といったものを守るために最前線で働く人たちを業績と切り離して処遇し、その存在をきちんと包摂することが求められます。

 これは戦死者にも当てはまると思うのです。その戦争が侵略戦争か祖国防衛なのか、あるいは戦勝国か敗戦国かという戦争そのものの評価と、実際に祖国のために戦った人を社会としてどう遇するかは区別しなければなりません。

 戦争の評価が変わったからといって戦死者の処遇もコロコロ変わるというのは、国家として大変不誠実ですし、将来、祖国のために身体を張ろうという人はいなくなるのではないでしょうか。また、戦死者へのリスペクトが共有されていればこそ、戦争の評価について忌憚のない議論ができるのではないかと思います。

アメリカ合衆国に奉仕中に死亡した軍人の遺体を作戦地域から本国に送還する「Dignified transfer(尊厳ある移送)」

――公に尽くして亡くなった名もなき人たちには、どういう遇し方ができるでしょうか。

 エッセンシャルワーカーという言葉が示すように共同体の根幹を支える人たちは、たとえ政権が変わったとしても関係なく存在しますね。そうすると、揺るぎない存在からのねぎらいの言葉や行為が相応しいと思います。君主制の国では国王、大統領制の国では大統領といった国家元首にその役割が可能だと思います。日本では天皇ですね。政治(議会)から距離を取っている建前のもとにある存在は、業績評価や世論の動向からも距離を取っているので、共同体の根幹に素直にコミットできるのではないでしょうか。

 選挙によって変わりゆく代表ではなく、共同体そのものを代表する、国家そのものを象徴する存在が示す行為は、公の死者に対する処遇の仕方として次元が違うものになるでしょうし、これこそが本来の元首の仕事といっていいのかもしれません。

 私は国や共同体を「祖国の物語」として表現してきました。それは世代で受け継がれていくもの、命を投げ出した人たちの記憶と共に続いていく物語です。祖国の死者を弔う、祖国を守るため最前線で頑張る人をねぎらうことは元首に最もふさわしい仕事だと感じます。これまでも皇室は福祉関係など弱い立場にある人のために働く団体や機関に対して配慮を示し、ねぎらってきたことを考えると不思議ではありません。

自衛官という宙吊りでインビジブルなエッセンシャルワーカー


――自衛官も国の根幹を支えるエッセンシャルワーカーだと考えれば、戦死は「公に尽くして命を落とすこと」ですね。

 毎年、秋に行われる自衛隊殉職隊員追悼式(23年は10月21日に実施)では、皇族の臨席は伝えられていません。内閣総理大臣は出席しますが、行政府の長であり自衛隊の最高指揮官なので国の代表というよりは上司の立場です。自衛隊においては、ねぎらいや弔いを行う場に国家の象徴は不在で、もちろん国民も不在なのです。

 8月15日の「全国戦没者追悼式」には天皇が自ら足を運んでお言葉を述べますし、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑での慰霊行事「拝礼式」には、必ず皇族が臨席します(23年は佳子内親王が臨席)。対して自衛隊殉職隊員追悼式には皇族は関わっていないようですし、式は非公開でほとんど知られることなく一般国民から切り離されています。

2023年の全国戦没者追悼式

 今のところは任務中の不慮の事故による殉職で、遺族も不幸な事故によるものと納得するかもしれませんが、もし防衛出動や偶発的な武力衝突によって自衛官が命を落とす事態となれば、戦死です。

 自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」という服務の宣誓をして、国からの命令で出動するので、その意味では殉職と戦死では大きな違いがあります。防衛大臣でも総理大臣でもなく、国家がその死に対して一番の責任を負うべきで、戦死した自衛官をきちんと遇しなければいけません。

――その時の政治状況によって、死者の扱いが揺らぐのは困りますね。

 防衛省、自衛隊の内部では、海外派遣をするようになってからずっとこの問題を抱えています。自衛隊員を送り出さなければいけない防衛省幹部や、部下を率いて危険な現場に出なければならない上官たちは葛藤を続けているのに、この問題は防衛省の中で留められてしまっている。

 政府は自衛隊が活動するのは憲法上「非戦闘地域」に限られるから、戦死の可能性はないという建前を振りかざしますが、実際には現地の状況は刻々と変化し、ときには銃弾が飛び交う中で任務にあたることもある。もし戦死者が出てしまったらその処遇がどうなるのか、まったくわからないまま自衛隊は最前線に赴くのです。

 自衛隊の運用のあり方に対する批判とは切り離して、自衛官の戦死者=「公に尽くした死者」の喪に服するあり方を示すことが必要です。こちらも死者が出てから議論を始めたのでは、死者も遺族も国民も傷つくことになるでしょう。

2012年、伊丹駐屯地で開催された日米共同方面隊指揮所演習「ヤマサクラ61」で模擬記者会見に参加した陸上自衛隊の隊員たち

国民を説得できるのは「正当化の言葉」ではなく「包摂の言葉」


――自衛官の戦死について、政府の責任問題とは別に死者の遇し方だけでも決めておくことは可能でしょうか。

 可能ですし、国の責任として必ずやらなければならない。政府も国会もこれまでこの問題に正面から向き合うことを避けてきましたから、非常に困難なプロセスになることが予想されますが。おそらく有識者会議が設置されて、事務局が取りまとめながら方針を作っていくことになるのでしょう。

――この有識者会議で各分野の専門家が意見を述べる意味は何でしょうか。

 国葬儀後のヒアリングのときと同じような方針で臨めば、論点が多岐にわたって大変難しいことになりそうだから、結局結論は先送り、という結果になるでしょう。

 他国の事情は調査できるでしょうが、自国の軍人を国家が弔うことは当然のことなので、わが国とは議論の前提が違います。ほかならぬ「わが国が」、軍人の死を社会の中でどう遇する「べき」か、というのは当事者性の高い規範的な命題なので、他国の事情や歴史的事実に関する知識をいくら積み上げていっても、答えは出てきません。広告代理店や葬祭業者など実務方面からの専門家でも同じで、具体的なアイデアをいくら積み上げていっても、答えは出てこないでしょう。

――もし、井上さんが有識者として会議に臨むとしたら、何を目指しますか。

 歴史上、議論してこなかった国の儀礼について、どういう理屈で戦死者を遇するのか、国の儀礼とするための論理性を提起したいですね。このインタビューでもお話ししてきたように、何と切り離し、何と結びつけるのか、原理的な議論が必要だと考えています。

 その後、政治指導者は国民が納得できるように説得する責任があると思います。説得できる言葉、「包摂の言葉」を持っているかどうかが鍵になります。どうしても政府として国民に説明しようとすると、批判から身を守るための「正当化の言葉」を使いがちです。これは政策論議のために使う内向きの言葉で、それが政治家たちの言葉になってしまっています。

――「正当化の言葉」は、心に刺さらないですね。

 自分を守るための言葉は刺さりません。「包摂の言葉」はバラバラになった人々の心を一つにまとめ上げるような言葉で、モードが違います。

 例えば、ゼレンスキー大統領の言葉がそうです。彼はウクライナと世界の人たちに向けて心をひとつにするための言葉を発しています。あれは「正当化の言葉」ではなく、まさに心を繋ぎとめて行動を促すための言葉で、「包摂の言葉」は、これに近いと思います。前に進むための言葉、人々に力を与える言葉、物語の言葉と言ってもいいかもしれません。

2022年12月、アメリカ議会での演説するゼレンスキー大統領


 おそらく、公の死者を語るときには、過去と未来をつなぐ物語のなかに人々を位置づける「包摂の言葉」のモードが必要になります。

公の死者に備える「終活」が必要だ


――世の中では人生の最期を迎えるにあたってさまざまな準備を行う終活や、万が一に備えて家族や友人などに伝えておきたいこと、自分の希望などを書き留めておくエンディングノートが浸透してきました。状況は変わるかもしれないが、「その時」について検討しておくことは、死にゆく人にも残されゆく人にも悪いことではないという理解は得られそうです。

 安倍元首相の国葬儀が遺した最大の教訓は、突然の不慮の死はあり得るのだということ、弔いについて準備がなければこれだけの混乱と分断を産むのだということだったのかもしれません。

 政府は「死を前提にするのか」という批判を恐れずに、公に尽くして命を落とした人をどう遇するのかについて、国葬儀も含めてすぐにでも検討を開始すべきです。


 次回は「まだまだある特攻文学映画」シリーズに戻り、《ターミネーター2》をお届けします。サイボーグは特攻文学的に見ると、どう位置づけられるのでしょうか。

どうぞお楽しみに!


◎著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

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