【連載】異界をつなぐエピグラフ 第2回|モンタージュ式エピグラフ、あるいはザナドゥへの道|山本貴光
第2回 モンタージュ式エピグラフ、あるいはザナドゥへの道
まさに奇蹟ともいうべき創意工夫の極地であった。
S・T・コウルリッジ(★1)
1.エピグラフは扉そのもの
前回、「エピグラフは異界をつなぐ扉のようなものだ」と書いた。
これはものの喩えというもので、実際にはエピグラフは扉ではない。てなことは言うまでもなく、お分かりいただけると思う。
などと述べておいて恐縮だが、こう書いている私の頭のなかでは、エピグラフはまさに扉のようなものとしてイメージされている。どういうことか。話はいささかひょんなところから始まって、しばし迂回路を辿ることになる。
「ハイパーテキスト」という言葉を目にしたことがあるだろうか。インターネットを使っている人なら、毎日のようにお世話になっている仕組みである。例えば、こんなふうに文中に下線が引かれている場合、ここをクリックしたりタップしたりすると、別のページに移動する。
いまご覧いただいたのは、藤本なほ子さんによる連載「エピグラフ旅日記」の第1回だった。本から本へとわたりあるいてエピグラフを蒐集するという人が、これまで地上にどれくらいいたかは知らないけれど、その様子を見せてくれる文章というものを私はこれまで読んだことがなかった。先ほどの比喩を使えば、本の扉を開いては、そこに異界への扉がないかどうかを見て歩くわけである。早く続きを読みたいのだが、藤本さんの連載は毎月末の掲載予定で待ち遠しい。
その藤本さんが創元社の内貴麻美さんとともに企画したのが『エピグラフの本(仮題)』という本で、その本の制作チームに私もお呼びいただいたというのが事の次第だった。いまこうしてこのような文章を書き綴っているのも、同書をつくる一環なのである。
2.迷宮を彷徨うように
それはさておき、先ほど「こんなふうに文中に下線が引かれている場合」という個所をクリックすると、藤本さんの連載第1回が掲載されたページに移動した。この仕組みには名前があって「ハイパーリンク」という。かっこいい。
要するに、インターネット上に存在する複数のページをつなぎあわせる仕組みだ。バラバラに存在するページのあいだをぴょんと飛び越えるので、かつては「別のページにジャンプする」と言われたりもした。
登場した当時はなんて便利なんだろう! と感激したものだった(いまもそう思っている)。というのも、なにしろそれ以前の世界では、ネットワークを介してよそのコンピュータに保存されているファイルにアクセスしたかったら、その所在地を文字で入力しないといけなかったのだから。それがクリック一つで済んでしまう。
こうしたハイパーリンクの仕組みを含むウェブがすっかり普及した結果、いまでは至極当たり前のものになって、いちいち意識されることも少ないかもしれない。単に「リンク」と呼ばれたりもする。
さて、ハイパーリンクによって相互につながれたテキストのことを、「ハイパーテキスト」という。ハイパーテキストは、テキストが網目のようにつながりあっているので、始まりも終わりもないし、どこから読み始めてどこで読み終えても構わない。ちょっと読んではあっちへ飛び、そこからまた別のページへ……という具合で、迷宮をあちこち行ったり来たりするような読み方をすることになる。
ここではもっぱら文章に注目しているけれど、それに限らず画像や動画や音楽その他、コンピュータで扱えるデータであればリンクできる。というのは、日々ネットを使っている人ならすでにご存じのとおり。
これでようやく話を進める準備ができた。
3.ザナドゥへの道
このハイパーテキストというアイデアを考えたのは、テッド・ネルソンという人だった。彼は1960年代から「ザナドゥ・プロジェクト」といって、コンピュータのネットワーク上に置かれた複数のファイル(データ)を扱いやすくする仕組みを構想してきた。
なぜそんなことが問題になるかといえば、いまならかえって理解しやすいと思う。というのも、コンピュータを使っていると、アプリや文書や画像や音楽や動画をはじめ、使うほどにどんどんファイルが増えてゆく。いまでは個人で使うコンピュータでも、数千という規模のファイルを扱うことは稀ではない。これらのファイルが単にバラバラに置かれているだけでは単なる混沌と変わりがない。
ではどうするか。文書を例にすると分かりやすい。文書をただバラバラに置いておくのではなく、ある文書が別の文書を参照しているといった関連づけをコンピュータで扱えるようにすればよい。そうすると、バラバラの点だったもののあいだに線が引かれ、複数のファイルを星座のように認識できるようになる。つまりファイル同士をリンクでつなごうというアイデアだ。インターネットが一般に普及し始めるのが1995年頃だから、かなり早くからいまのウェブのようなものを考えていたことが分かる。
「ザナドゥ」と聞いて、映画やゲームを連想する人もいるかもしれない。これは、イギリスの詩人、サミュエル・テイラー・コウルリッジ(1772-1834)の詩「クーブラ・カーン」(1797か1798年頃執筆)に登場する都市の名だ。「ザナドゥ・プロジェクト」もコウルリッジにあやかっているらしい。
クーブラ・カーンとは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーン(フビライ・ハン/忽必烈汗)のことで、「ザナドゥ(Xanadu)」は彼が治めた元(げん)の都城の一つ、「上都」を英語で表記したものだった。
「上都」は中国語でShàng dū(シャンドゥ)と読む。この都市の名は、1275年にここを訪れたマルコ・ポーロ(1254頃-1324)の口述でつくられた『東方見聞録』にTchandou、Ciandu、あるいはChanduなどと音写されて、ヨーロッパでも知られるようになる。そこではこんなふうに語られている。
ここで言われる「マイル」が、現在の尺度でどれほどの長さなのかは分からないのだが、調査資料によると、上都の中心部である皇城と呼ばれる城壁に囲まれた方形の地域は、東西が1410メートル、南北が1400メートルにわたるという(★3)。
それから時代は下って17世紀、イングランドの牧師、サミュエル・パーチャス(1577頃-1626頃)に『パーチャス、その巡礼』(1613)という本がある。パーチャスは旅行記を蒐集していたようで、それらの本から抄録して編んだのが『パーチャス、その巡礼』だった。彼の生前に四版まで出ているというから、好評を博したのだろう。同書でアジアの諸地域を扱ったパートにザナドゥが現れる。
細部に違いはあるにせよ、マルコ・ポーロの本を下敷きにしている様子が窺える。ただし「上都」のローマ字綴りは、Tchandou、Xamduをはじめ本によって何種類もあって、現代の校正者が見たら卒倒するかもしれない。
コウルリッジはこのパーチャスの本を読んで「クーブラ・カーン」の着想を得たと言われている。その詩はこんなふうに始まる。
パーチャスとコウルリッジの原文は英語で書かれていて、冒頭部分を並べるとこうなる。
コウルリッジは、パーチャスの文をなぞるように書き始めている。見ようによっては一種の引用とも言えそう。そしてこれに続いて詩人は、幻視した上都の光景を歌い上げているのだった。
このコウルリッジの詩を源として、「ザナドゥ(Xanadu)」という都の名前が、桃源郷の代名詞として後世の人びとに刺激を与えることになる。
例えば、オーソン・ウェルズが監督・主演・共同脚本を手がけた映画『市民ケーン』(1941)はその一つで、映画の冒頭、大きな城とそれを囲む広大な庭の様子が映されたあと、「ザナドゥの城主 死亡」というニュースが報じられる。それに続いて先ほど見たコウルリッジの詩の冒頭が画面に引用され、死亡した新聞王チャールズ・フォスター・ケーン(Kaneという名にはCanあるいはKhanの音が響いているようでもある)をクビライ・カーンと対比しながら、ケーンが建設を進めたザナドゥがいかに壮麗な城であったかが紹介される。
テッド・ネルソンは、コウルリッジの詩とともにオーソン・ウェルズがこの映画で描いた未完の壮大な宮殿も念頭に置いていたようだ。
4.テキストには「窓」がある
さて、長々とザナドゥの由来について述べてきた。エピグラフはどこへ行ったのか。そろそろ話を戻してゆこう。
テッド・ネルソンは、「ザナドゥ・プロジェクト」でハイパーテキストという仕組みを構想した際、いま見た「ザナドゥ」をめぐる複数のテキスト同士の関係のような状態を念頭に置いていた。つまり、あるテキストが別のテキストを引用して書かれる。こういうものを、どうしたらコンピュータで扱えるかというわけだ。
先の例では、マルコ・ポーロの本を参照したサミュエル・パーチャスの本があり、それを参照したS・T・コウルリッジの詩があり、という言葉のリレーを眺めた。こんなふうにして、あるテキストが、既存の他のテキストを支えとして作られることがある。学術論文などはその分かりやすい例だろう(★6)。
テッド・ネルソンは、こうしたテキストのあり方を、コンピュータで包括的に、かつ誰でも手軽に扱えるようにする仕組みを考えようとした。ここでは詳しく説明しないが、「ザナドゥ・プロジェクト」では、ただテキスト同士をリンクさせるだけでなく、テキストが更新された場合の処理や、他のテキストを引用する際に生じる著作権の処理、あるいはそれに伴う使用料の処理といった運用の際に生じるさまざまな課題への対処も構想されていた。その全貌は『リテラリーマシン』という本にまとめられている。最初の版は1980年に自費出版で刊行され、以後いくたびも改訂を重ねられている本だ(★7)。ここで必要な点に絞っていえば、彼はあるテキストが別のテキストを引用する様子を「窓(Window)」という比喩を使って表現している。
先のザナドゥ(上都)の例を図示すれば、こんなふうになるだろうか。
コウルリッジの「クーブラ・カーン」という詩のテキストに、サミュエル・パーチャスの本の一文が引用されている。「クーブラ・カーン」の当該箇所には「窓」があり、そこから背後にあるパーチャスの本の当該箇所が見えている。パーチャスの本の当該箇所にも窓があり、その向こうに原典であるマルコ・ポーロの当該箇所が見えている。こんな具合である。
これは窓が一つだけの例だったが、一つのテキストにもっと多くの窓が開いていることも少なくない。例えば『オックスフォード英語辞典(OED)』のように、既存の本や論文から例文を選んで載せている辞書は窓だらけである。この比喩表現がいいのは、あるテキストがそれだけで成り立っているわけではないという状況を、視覚的に意識できるようにしてくれるところだと思う。
テッド・ネルソンは、こんなふうに多数のテキストが互いに参照しあったりしながら混在する状態のことを「ドキュヴァース(Docuverse)」と名づけている。ドキュメントのユニヴァース(宇宙)だ。ザナドゥ・プロジェクトは、放っておけば無秩序なゴミの山のようになってしまうコンピュータやネットワーク上のドキュヴァースを、人間の身の丈で扱いやすくするためのソフトウェア、ひいてはそうしたドキュヴァースを使ってものを考えたり創造したりする思考の道具を提供しようとしたのだった。
さて、もうお分かりかもしれない。「エピグラフは異界をつなぐ扉だ」と記すとき、私の脳裏にはこうした「窓」が思い浮かんでいる。エピグラフもまたハイパーテキストのように、あるテキストに「窓」を開けて、それとは別のテキスト、異界を垣間見させる仕組みなのである。
私はいろいろなものを読むとき、そこにある「窓」から見える景色のほうへ足を伸ばす。今回はもっぱらエピグラフではなく、「ザナドゥ」という語をめぐるドキュヴァースの小旅行の様子をお見せしたが、同じようにしてエピグラフを見かけるたび、その「窓」から見える異界へと足を伸ばしたくなる。ただ、毎回「窓」から出入りするのもなんなので、これを「扉」と呼びたいと考えている。扉は扉でも、窓のように向こうが透けて見えるガラスの扉である。
5.モンタージュ式エピグラフ
最後にエピグラフの実例に触れておこう。外ならぬ『リテラリーマシン』にはたくさんのエピグラフがある。例えば「1987年版の献辞」には次のようなエピグラフが並ぶ(★9)。
私もこれまでそれなりにいろいろなエピグラフを目にしてきたけれど、一度に六つも並べているのにはそうそうお目にかからない。いまひとつ意図が見えない文もあるものの、面白いことにストーリーがあるように見える。
テッド・ネルソンは、パーソナルコンピュータの登場を受けて、これこそは人びとに思考の新たな力と自由を与える道具だと考えた人の一人だった(それについては1974年に自費出版で出した『Computer Lib / Dream Machines』に目一杯、ハイパーテキスト式で書かれている)。そしてザナドゥ・プロジェクトとは、過去の厖大なテキストから未来につくられるものまで、人びとが自由に使える創造の場、知の大宮殿建造の企てであった。
この文脈を念頭に置くと、例えばホラティウスの引用は、省略された部分を補ってラテン語原文から訳し直しておけば「言葉は消えるが書かれた文字は留まる(Verba volant, scripta manent)」となる。これはもっぱら書かれた言葉でできたドキュヴァースを指すのだろう。また、アルキメデスのものとされる引用は、ザナドゥ・プロジェクトのように無謀に見えることもアイデア次第で実現できるという気概を表しているように思える。
最後に置かれた映画『オズの魔法使い』のドロシーのセリフはどうか。激しい嵐のなかで気を失ったドロシーが、目覚めたあとでそれまでのモノクロームの世界から、花が咲き乱れる色鮮やかな世界に足を踏み入れて最初に口にした言葉だった。明るい、しかし見慣れぬ異世界へ進んでいくというわけである。これはザナドゥ・プロジェクトが実現した暁に人びとが体験することになる世界を示唆しているのだろう。
解釈の是非はともかくとして、こんなふうに引用を並べることでストーリーをつくるエピグラフを、「モンタージュ式エピグラフ」と名づけよう。モンタージュとは「組み立て」を意味するフランス語で、特に映画用語として使う場合には「編集」、カットをつないでシーンを生み出すことを指す。映画監督のラルフ・ネルソンを父にもち、当人も映画を撮ったことがあるというテッド・ネルソンにあやかって、そんなふうに考えてみたのだった。