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大切な人の自死とグリーフをめぐる語り合い――wish you were hereの対話を通して|第1回 母の死が自殺だったと知ってから 

0歳のときに自死で母親を亡くした筆者が、小学生のときに母を自死で亡くした友人とともに、自死遺族や大切な存在を自死で失った人たちとSNS等で繋がって対話をする活動と、それぞれの率直な思いを話し、受け止め合う音声配信を、約2年間続けてきました。10人のゲストの人たちとの、自死にまつわるテーマでの話しあいや、聞いてくれた方からのメッセージからの気づきと、筆者自身の身近な人の自死の捉え方や心境の変化、グリーフについての学び、大切な人を亡くした人たちへのメッセージを綴ります。

※この連載では、遺族の立場から、自死・自殺についての話をします。それに関連するトラウマ的な体験をしたことがある人や、死にまつわる話が苦手な方などは、読んで辛くなることもあるかもしれませんので、お気をつけください。
※月1回更新

生きていると、人生のどこかで、自分にとって大切な人が自ら命を絶ってしまうことがあるかもしれない。日本では、年間2万人以上が自死・自殺で亡くなっている。亡くなる前にその人は、自分は一人だと感じていたかもしれない。けれど、実際には、その人のことを大切に思っている人がきっといて、亡くなったことにショックを受ける人たちがいる。
捉え方や、沸き起こる感情は人それぞれだけど、大切な人の自死を受け止めることは、多くの人にとって簡単じゃない。
その事実に打ちのめされ、向き合い、時に距離をとりながら、心のどこかに置き場所を見つけていく歩みは、それ自体が、精神疾患のリカバリー(回復の過程)にも似たところがあるように思う。

遺された自分も心を病んだかのように、それまでと世界が違って見える。大切だったその人がもういない世界を、これから生きていかないといけない。残念ながら、元の世界に戻ることはできないし、その人が生きていた頃の自分にも戻れないかもしれない。取り残された感覚になって、どうして引き留められなかったのだろうと悔やむこともある。その辛さから、自分も精神疾患になってしまう人は少なくないし、後を追って命を絶ってしまう人もいる。
傷つきや空虚感から、その人のいない世界を受け入れていく過程にはいろいろな揺らぎがあって、時間がたったあとでも、ふとした瞬間に思い出して悲しくなることもある。命日や、その人との記念日が近づくと毎年辛くなる人もいる。だけどもし、その気持ちを聞いてもらえたり、話し合えたりする人がいれば、受け入れがたかった今の世界を、少しだけ穏やかに受け止められることもあるかもしれない。

これから書く内容は、0歳のときに母を自死で亡くし、中学生のときにその事実を家族から告げられ、そのあと何年も、自死遺族としてのアイデンティティを持ちながら、そのことに捉われて生きてきた僕の、リカバリーのプロセスだ。そのプロセスのなかで、とても大事な意味を持ったのが、自死について語る対話の活動だった。
2022年の冬に、友人が始めた対話の活動に参加させてもらって、これまで大切な人を自死で失った人や、その周りの人たち、あるいは自分自身が死にたい気持ちを抱えて生きてきた人たちと対話をしながら、一緒に自死について考えてきたことの記録を、ここで皆さんと共有させてほしい。

最初に、僕自身の経験から話そうと思う。

僕の母は、僕を生んだ約半年後に自死で他界した。その前に、僕の首を絞めて死なせようとした。いわゆる母子心中というのを図ったらしい。当時僕は気絶をして救急車で運ばれたがどうにか助かり、母だけが亡くなった。母子心中未遂。心中未遂というと、子どもだけが亡くなるケースが多いようだから、僕たちの場合は、わりと珍しいパターンだったのだと思う。
もっとも、0歳のときの記憶なんて一切残っていないから、ずっとあとになってから家族に聞かされた話だ。家族が口裏を合わせてこんな作り話を僕に信じ込ませるメリットが思い浮かばないから、僕はその話を信じて生きてきたし、今も事実だと思っている。
物心ついたときには自分の家に母はおらず、父方の祖母が家事や育児を代わりにしてくれていた。
祖母と、父と、兄のいる家庭で小学生時代を過ごした。母の話題が出ることはほとんどなかったから、自殺だと知らされるまでは、身体の病気で亡くなったと勝手に思っていた。

中学生だった頃、父の運転する車のなかで、父と祖母が喧嘩をしているときに、祖母の口から自殺というワードが出てきた。そこで初めて僕は、母の死が自死だったことを知った。冒頭に書いた一部始終をちゃんと聞いたのは、高校生になってからのことだった。
育児ノイローゼで自殺をしたと聞かされていたので、「自分が生まれたから母が死んだんだ。自分が生まれなかったら母は今も生きていたのかもしれない。」という思いがぬぐえず、意味のない罪悪感を抱えながら生きていくはめになった。これを読んでくれている皆さんがもし今後、親を自死で亡くした子どもにそのことを伝えないといけなくなったら(そんな状況にならないことを祈るけれど)、ぜひ、育児ノイローゼっていう言葉は控えてあげてほしい。自殺というのは、複合的な要因が絡み合って起きてしまうものだと思う。小さい子どもの存在にその責任を負わせるのは、ちょっと酷すぎる。

いずれにしても、母親との記憶が一切ないのに、僕は母が自殺したと聞いてひどくショックを受けた。愛着関係も何もなくても辛くなるんだから、物心ついたあとで大切な家族が自死で亡くなったら、どんなに辛いだろう。対話の活動を通じて、何人かの遺族、特に、親や兄弟を物心ついたあとに亡くした、元自死遺児の人たちの語りを聞いて、その状況の厳しさを知ることになった。
母の自死の他にも、家庭や学校などで不穏なことをたくさん経験した子ども時代だった。残念ながらそれに耐えられるほどのタフさはなく、僕は少しメンタルが不安定な少年だった。気分が落ち込むと、よく母の自死のことが頭をよぎった。「母に愛されて育たなかったから自分は心が弱くて不安定なんだ」とか、「自殺した人の子どもだから落ち込みやすいんだ」なんてことを、誰に言うわけでもないけれど、内心で思っていた。
自死遺族という言葉をまだ知らなかったけれど、自殺した人の子どもだという感覚は当時、自分のアイデンティティの大きな部分を占めていた。それは、あまり人に言えない、自分だけが抱える暗い側面だった。
人に言えないからこそ、他の友人とのあいだに大きな壁を感じることもあった。両親がいて、安心できる家庭で暮らしている友人たちに対して、漠然とした嫉妬心や、引け目を覚えることもあった。

中学の頃は祖母と2人暮らしをしていた。大阪の、やんちゃな生徒の多い学校に通っていたから、「昨日、お母さんがいらんことを言ってきたから殴ってやった」などと、自慢げに話すクラスメイトもいた。「仕事から帰ってきた父親にそのことがバレて、ぼこぼこにされた」というオチがちゃんとついていたけれど。そんな話を聞かされても「ああ、自分には殴れる相手が家にいないな。ばあちゃんを殴るわけにもいかないし…」と思うしかなかった。今思えば、殴る相手なんていなくていいんだけど。ほとんどの同級生には母親がいた(父子家庭は母子家庭よりはるかに少ない)から、どこか寂しさを感じていた。

楽しいことがあっても、どこかに母親の自死というものが、心に引っかかっていて、自分は他の人たちとは違う存在なんだという気持ちがあった。
母の自死は、何度そのことを考えても、常にネガティブなものだったのだ。ストレスで追い込まれて死ぬ行為を、不幸としか思えなかったし、それを防げなかった家族や、当時の社会を恨んでいた時期もあった。
この話は、人に言ってはいけないことで、暗い過去で、自分は、平和な家で育った人たちとは違う。
そんな風に思っていた。だけどその感覚は、年を重ねるごとに、少しずつ変わっていった。

(第2回に続く)

【著者プロフィール】
森本康平
1992年生まれ。0歳のときに母親を自殺で亡くす。京都大学で臨床心理学を専攻後、デンマークに留学し社会福祉を学んだのち、帰国後は奈良県内の社会福祉法人で障害のある人の生活支援に従事。その傍ら、2021年の冬、自死遺族の友人が始めた、大切な人を自死で亡くした人とSNS等で繋がって話をする活動に参加し、自死やグリーフにまつわる話題を扱う番組“wish you were hereの対話”をstand.fmで始める。これまでに家族や親友の自死を経験した人、僧侶の方、精神障害を抱える方の支援者など、約10名のゲストとの対話を配信。一般社団法人リヴオンにて、”大切な人を亡くした若者のつどいば”のスタッフとしても活動。趣味はウクレレと図書館めぐり。
“wish you were hereの対話”
https://lit.link/wishyouwerehere