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第5回 イギリス王室と日本の皇室の関係を振り返る|本田毅彦(京都女子大学教授)

★EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。★筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。

※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。

イギリス国王戴冠式への、秋篠宮夫妻の参列

5月6日に行われたイギリス国王チャールズ三世とカミラ王妃の戴冠式には、日本の皇室を代表して皇嗣こうしである秋篠宮と同妃が参列した。イギリス王室は、明治維新以降の日本の皇室に対して多くの意味で示唆を与え、モデルとして機能してきた、と考えられる。国民全体とのコミュニケーションの取り方に関しても、そのように言えるだろう。

こうした経緯の中でカギとなったのは、イギリス国王ジョージ五世(1865~1936年、在位1910~1936年)と、皇太子時代の昭和天皇(1901~1989年、在位1926~1989年)の出会いだった、と思われる。今回は、この二人の邂逅かいこうが、その後の両国の王室/皇室の軌跡にどのような影響を及ぼしたのかについて、考えてみたい。

ジョージ五世と昭和天皇の、直接のコンタクト

1921年、皇太子だった昭和天皇はイギリスを公式訪問し、同国の王室から歓迎された。言葉の壁はあったはずだが、とりわけジョージ五世と昭和天皇の交流は親密だったようである。昭和天皇にとってジョージ五世は、父親に代わる存在だったのかもしれない。大正天皇は1918年末頃から健康の不調を来しており、その後も完全に回復することはなかった。そうした事情を知った上でのジョージ五世からの助言は、昭和天皇の心に強く響いたはずである。

他方、ジョージ五世の息子たちであり、相次いでイギリス国王になったエドワード八世(1894~1972年、在位1936年)とジョージ六世(1895~1952年、在位1936~1952年)に関しても、父親との関係が彼らの生涯に強い影響を及ぼしたことは、言うまでもない。ただしエドワード八世は、やがて父親の君主としてのありかたに反発するようになり、逆にジョージ六世は、父親の姿勢に努めて倣おうとした。

さらに注目したいのが、昭和天皇の弟の秩父宮(1902~1953年)である。彼も、ジョージ五世との間で接点を持っていた。そしてイギリス王家の息子たちのパターンとは逆に、兄(昭和天皇)の方がジョージ五世からの影響を肯定的に受け止め、弟(秩父宮)はむしろ、エドワード八世に類似した傾向を示すことになる。

ジョージ五世による、イギリス国民との対話の努力

ジョージ五世は1910年に即位し、その4年後に、第一次世界大戦に直面した。大戦が始まる前から彼は、国王という存在が、国民との間で直接的なコミュニケーションを試みなければならない時代を迎えている、と気づいていた。そのため、即位直後からイギリス各地を訪問し、人々との親身な交流を試みた。第一次世界大戦が始まると、イギリス王家が敵国ドイツの出身であることについて国民が抱くはずの違和感を察知し、王朝の名をザクセン・コーブルク・ゴータ家からウィンザー家へと改めた。また、幾度も英仏海峡を渡って前線の連合軍部隊を訪問し、激励した。

第一次世界大戦末期における、ジョージ五世と他の皇帝家との関わり

第一次世界大戦末期、ロシアでは革命が起こり、皇帝ニコライ二世が退位した。ニコライ二世はジョージ五世にとって母方のいとこであり、ロシア皇后アレクサンドラはジョージ五世の父方のいとこだった(ともに、ヴィクトリア女王の孫だった)が、ジョージ五世は、ロシア皇帝家の運命への関与を回避した。イギリス政府はロシア皇帝家のイギリスへの亡命を受け入れる方針だったが、イギリス社会の世論がロシア皇帝夫妻に対して批判的だと考えていたジョージ五世は、革命の波がイギリスへも及ぶことを恐れ、ロシア皇帝一家の亡命を認めなかった。一家はロシアの共産主義者たちによって虐殺された。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、ジョージ五世の父方のいとこだった(ともに、ヴィクトリア女王の孫だった)。大戦の終末期にドイツでも革命が起こり、ヴィルヘルム二世はオランダへ亡命したが、ジョージ五世はドイツ皇帝家の運命を傍観している。ただし、オーストリア皇帝家の救出に関しては、積極的だった。

大戦後、ジョージ五世の指示により、イギリスの王子たちは世界各地を親善訪問

第一次世界大戦後もジョージ五世は、イギリス社会における左翼的な傾向の強まりを警戒しながら、君主制存続のために機敏に行動した。経済的苦境に喘ぐイギリス各地を王妃メアリとともに訪問し、住民との交流に努めた。また、若く、ハンサムな王子たちの魅力を活用することを意図して、広くブリティッシュ・ワールドに彼らを派遣し、親善外交を行わせた。

他方、ジョージ五世は、大戦中にイギリス国家がアメリカ合衆国への依存を深め、そのアメリカ合衆国が日本をライバル視している、という事情から、日英同盟の命数が尽きかけていることを認識していた。しかし、政府の外交方針と王族間の親交は時として別次元でありうる、との判断から、日本国皇太子のイギリス訪問を歓迎することを決めた。

日本国皇太子のイギリス訪問(1921年)、イギリス王太子の日本訪問(1922年)、そして秩父宮のイギリス留学(1925~1926年)

大正天皇の病状から、皇太子の帝王教育の完成が急がれていた。そのせいもあって日本社会の指導層の幾人かは皇太子の「海外遊学」に積極的であり、1921年3月、皇太子は、日本海軍の新鋭艦に座乗してイギリスへと向かった。イギリスに到着した皇太子は、イギリス王室と国民を挙げての歓迎を受けた。そして滞在先のロンドン・バッキンガム宮殿において、短期間ではあったが、ジョージ五世との間で、かなり立ち入ったやりとりを行った、と考えられる。

翌1922年、今度はイギリスの王太子が、インド亜大陸を中心にして、アジア諸地域を歴訪した。その旅程には日本訪問も含まれており、前年の日本国皇太子のイギリス訪問への答礼の意味が込められていた。

さらに1925年には、皇太子の弟であり、陸軍士官として勤務中だった秩父宮がイギリス留学に向かった。秩父宮は、ジョージ五世を始めとするイギリス王室メンバーと交流しながら数か月を英語会話などの練習に充て、秋以降、オックスフォード大学での修学を始めた。しかし大正天皇の病状悪化のために、わずかな期間を同大学で過ごしただけで帰国した。大正天皇は1926年12月に死去している。

ジョージ五世は、イギリス連邦の統合の象徴の地位へ

ジョージ五世は、第一次世界大戦後の不安定な数年間を乗り切ったが、今度は、ブリティッシュ・ワールドの政治的枠組みがイギリス帝国からイギリス連邦に変容する、という事態に対処しなければならなかった。1931年にウェストミンスター憲章が制定されたことを受け、イギリス国家は、少なくとも自治領との間では、制度上、対等な立場に立つことになった。これによりイギリス国王も、新たな時代にふさわしい形へと自らをアップデイトすることを求められた。すなわち、イギリス帝国の主権者から、イギリス連邦の統合の象徴へと転身し、よりソフトで親密な形で、ブリティッシュ・ワールドに住まう人々との間でコミュニケーションを行う、というチャレンジである。

そして早くも1932年にジョージ五世は、ブリティッシュ・ワールド全体に向けて、クリスマス・メッセージのラジオ放送を行っている。かくしてイギリス国王は、ブリティッシュ・ワールドの数億にのぼる人々との間で、自らの声を用いての同時的なコミュニケーションを行うことが可能になった。

昭和天皇による、軍事クーデター(2・26事件)の鎮圧

ジョージ五世が1936年1月20日に死去し、そのほぼ一か月後、昭和天皇は2・26事件に遭遇した。昭和天皇は躊躇なく反乱軍部隊の鎮圧を命じたが、彼のこのような姿勢には、十数年前のジョージ五世とのやりとりが作用していたのでは、と思われる。

ジョージ五世は、第一次世界大戦中および直後の時期に彼が経験した、国王という地位の危うさについて、昭和天皇に率直に説明したのではないか。今や諸国の君主は、20世紀型政治イデオロギーの典型である共産主義思想と対峙しており、そうした思想を掲げる者たちの標的にされることを免れない、と。そして「革新派」の主張、「青年将校運動」の帰結としての2・26事件の発生を見たとき、昭和天皇はそれをどのように理解しただろうか。君主である自分がそうした思想を信奉する者たちによって祭り上げられ、しかし事の成り行きによってはスケープゴートにされるかもしれない、と察知したであろう。

エドワード八世の退位(1936年12月)

2・26事件を引き起こした将校たちは、軍法会議の後、1936年7月に処刑された。その数か月後の12月、今度はイギリスで、ジョージ五世の後を継いでイギリス国王になったエドワード八世が、まるでジョージ五世の遺志に導かれるように、王位から退いている。共産主義への敵意から、エドワード八世はウルトラ・ナショナリズムに傾斜していた。彼の目には、ドイツのナチズムが、アメリカ合衆国のモダニズムと並んで人類社会の未来を先取りしているように見えていた。しかし、ジョージ五世の目から見れば、ヒトラーは君主制への愛憎を持つ危険な野心家であり、そのような人物との提携はイギリス国家にとって最も忌むべきもの、だった。

イギリス国王は国教会の首長でもあるため、離婚歴を有する女性との結婚は20世紀前半の時点ではありえなかったが、エドワード八世はそうした女性(シンプソン夫人)との結婚を望んだので退位せざるをえなかった、というのが、同国王の退位についての一般的な説明である。だが、シンプソン夫人は、国王の愛人にとどまることを受け入れていた。それにも関わらず、エドワード八世が彼女との正式な結婚を求めて暴走することになったのは、当時のイギリス首相ボールドウィンが、故ジョージ五世と同様の懸念をエドワード八世に対して抱いており、同国王の言い分を渡りに船と捉えたから、と考えるべきであろう。

退位に際しての、エドワード八世のラジオ・メッセージ

退位に際してエドワード八世は、上記のような彼なりの言い分を、BBCのラジオ放送を通じてイギリス国民に真摯に説明してみせた。この放送の結果、彼の純情さを称賛する人々すら現れた。かくして、ヴィクトリア女王/アルバート公夫妻以来の、イギリスの君主は他の何よりも君主としての責務に忠実であれ、との伝統が反故にされたのにもかかわらず、君主制そのものへの批判は、致命的な程度にまでは高まらなかった。別の見方をすれば、エドワード八世は、父ジョージ五世と自身が洗練させた国民とのコミュニケーションのテクニックを、土壇場で見事に活用した、ということになる。

こうした経緯を、はるかに離れた日本で昭和天皇は注意深く観察していたであろう。

秩父宮の、ジョージ六世戴冠式(1937年5月12日)への出席

イギリス留学を中途で切り上げた秩父宮は、帰国後、陸軍士官としての職務に復帰した。そして1931年以降、青年将校運動のメッカである東京の歩兵第三聯隊で過ごすうち、同運動に共感を抱くようになる。2・26事件が発生した際には秩父宮は青森で勤務していたが、急いで東京へ戻った。結局、秩父宮は、反乱部隊の鎮圧に賛成したものの、弟の真意への昭和天皇の懸念は残ったであろう。

反乱将校たちが処刑されてから一年足らずの時点で昭和天皇は、エドワード八世に代わって即位したジョージ六世の戴冠式に秩父宮を参列させることにした。当時の日本社会の反英米派を牽制することが主な目的だったはずだが、これを機に、秩父宮が親英米派に回帰することも期待していたのでは、と思われる。イギリス側も、戴冠式の席次などで秩父宮夫妻に対して異例の厚遇を行った。

しかし戴冠式後、秩父宮はヒトラーの招きに応じて、同年9月にニュルンベルクで行われたナチスの党大会にも出席した。日本社会の反英米派からの巻き返しの結果、ということであろう。ただし秩父宮自身は、実際にヒトラーに会ってみると、その粗暴さに辟易したという。

ウィンザー公爵夫妻の、ナチス・ドイツ訪問(1937年10月)

さらにヒトラーは、秩父宮と面談した直後に、今度はウィンザー公爵(退位後、エドワード八世は、ウィンザー公爵の称号を得ていた)夫妻を自らの山荘に招いている。ヒトラーは、秩父宮とウィンザー公爵を、自身の世界戦略に利用する方途を探っていた、と考えられる。2・26事件の際の秩父宮の行動、そして彼と昭和天皇の間の緊張関係について、ヒトラーは情報を得ていたはずである。また、ウィンザー公爵は、イギリスの支配層の策動によって自分は王位から追われた、と考えるようになっており、それゆえに、ナチス・ドイツの力を借りてイギリスの王位へ復帰しようとする意欲を持っている、と、ヒトラーは見抜いていた。

第二次世界大戦終結に際しての、ジョージ六世と昭和天皇のラジオ放送

ジョージ六世と昭和天皇は、共に、第二次世界大戦の終結という、それぞれが君臨する国家の決定的な瞬間に際して、国民全体とのコミュニケーションを行い、大きな成功を収めた。それを可能にしたのは、ラジオでの「玉音」放送だった。

1945年5月8日、ドイツ軍の降伏を受け、ジョージ六世はイギリス国民に対して、ラジオ放送を通じて勝利のメッセージを送った。以後、この日は「VEデイ」と呼ばれるようになり、今日にいたるまでイギリス国民によって深く記憶され、記念されている。同年8月15日には、日本軍の降伏を受けて、やはりラジオ放送を通じてイギリス国民に向けて勝利のメッセージを送り、以後、この日は「VJデイ」と称されることになった。

他方、昭和天皇は、1945年8月15日、ラジオ放送を通じて、太平洋戦争における日本の敗北を日本国民に告知した。しかし、実際に戦争を終わらせるには日本軍部隊の戦闘行動を停止させなければならず、すべての部隊が日本政府からの降伏命令に素直に従うという保証は、なかった(その多くが、かつての青年将校たちによって指揮されていた)。それを実現するために、天皇のカリスマ(日本国民への説得力)がラジオ放送を通じて活用されたわけである。

そして将来は…

第二次世界大戦後の比較的早い段階で、イギリス王室と日本の皇室はその関係の修復を図った。1953年のエリザベス二世の戴冠式に際して、現上皇(当時は皇太子)が参列している。その後の両国の王室/皇室の交流も着実であり、とりわけ顕著な例は、現上皇の二人の息子たち(現天皇と、秋篠宮)が、いずれも、オックスフォード大学に留学し、その間、イギリス王室のメンバーと頻繁な接触を持ったことであろう。そうした経緯を背景にして、現天皇夫妻はエリザベス二世の葬儀に参列し、チャールズ三世の戴冠式には秋篠宮夫妻が参列した。

G7を構成する先進七か国の中で、君主制を維持しているのはイギリス/カナダと日本だけ、である。人類史上、共和制に比べてはるかに長く、多様な歴史を有するこの制度を維持する価値は高い、と考える人は多いだろう。そしてイギリス王室と日本の皇室が、ユーラシア大陸の東西両端の島国で存在し続けているという、おそらく偶然ではない条件の下で、二つの王室が相互に参照し、協力し合っていくという関係は、今後も続くと考えられる。