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星の味 │ 徳井いつこ

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日常のふとした隙間、 ほっとため息をつくとき、 眠る前のぼんやりするひととき。 ひと粒、ふた粒、 コンペイトウみたいにいただく。 それは、星の味。 惑星的な視座、 宇宙感覚を…
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#詩

星の味 ☆17 “生は旅人のように”|徳井いつこ

 親しく感じられる誰かが、かつてそこに住んでいた。  それだけで、見知らぬ街を訪ねる理由になる。ましてその人が、その街を絶賛していたら……?  ポルトガルの首都リスボンを訪ねたのは、ひとえに詩人フェルナンド・ペソアのせいだった。  ペソアは『不穏の書』のなかで書いていた。 「田舎や自然が提供するいかなるものも、グラサやサン・ペドロ・デ・アルカンタラから見た月の光に照らされた静かな街の不規則な壮大さには敵わない。私にとって、陽の光の下でさまざまな色に輝くリスボンの街ほど美しい

星の味 ☆16 “星々にとり残されて”|徳井いつこ

「夏なら冬のことを書くのだ。イプセンがしたように、イタリアの一室からノルウェーのことを書くのだ。ジョイスがしたように、パリの机からダブリンのことを書くのだ。ウィラ・キャザーはニューヨークからプレイリーのことを書いた。マーク・トウェインは……」  と、さまざまな作家を引き合いにだして、「書く」ことにおける「遠さ」の効用を説いたのは、アニー・ディラードだった。  遠いこと、遠いものが、創造的に作用するのは、どういうわけだろう? 「遠い」という語を辞書で引くと、「二つのものが

星の味 ☆15 “壺のような日”|徳井いつこ

 海が近づいてくると、すぐにわかる。大気中の光の量が増えてくる。あたりいちめん眩しくなる。  山が近づいてくると、すぐにわかる。雲が頭上をゆく。焚火の煙のようにすばやく流れる。  神戸で育った私は、海と山が近接している土地の特性を、からだで覚えた。雨が降る前は、海の匂いが濃厚になり、船の汽笛が大きく響いた。 六甲おろしと呼ばれる山風は、海から吹く風と違っていた。冬の颪は、子どもが手を広げて立つと、本当にもたれられるくらい強かった。  八木重吉のこんな詩を読むと、ああ懐かしい、

星の味 ☆14 “世界という魔法”|徳井いつこ

 エミリー・ディキンソンの詩を読むたびに、“エミリー・ディキンソン”だけでできている、という当たり前のことに驚く。  当たり前、ではないはずだ。言葉は私たちの共有財産で、より一般的なものを多く伝達するようにできているのだから。  彼女の詩はすみからすみまで、どこを切っても“彼女”だけでしかできてない。「純正」という言葉が、これほどぴったりな詩人もいないだろう。   自分自身という所有品のなんと   適切にみごとなこと。自分が   自分自身への発見に向かう   他の誰も見出せ

星の味 ☆13 “自分以上の生命”|徳井いつこ

 エミリー・ブロンテの詩を初めて読んだのは、片山敏彦さんのエッセイだった。キーツやヴァージニア・ウルフにふれ、イギリスの詩文学のなかでプラトン的特質がさまざまに蘇っているのは面白いと語り、片山さんはこう書いていた。 「私はヨーロッパの旅の宿で、自分の心をはげますためにこの詩を訳してみたことがあった。   ……たとえ 地球と人間とが亡び   太陽たちと宇宙たちとが無くなって   後に残るのは ただあなただけになっても   すべてのものは あなたの中で存在するだろう。   

星の味 ☆11 “大事の大事”|徳井いつこ

 「社会内存在」と「宇宙内存在」という言葉に初めて触れたのは、谷川俊太郎さんの本だった。  『詩人なんて呼ばれて』という本のなかで、谷川さんは、詩の比較において、同世代の茨木のり子さんを「人間社会内存在」、自分自身を「宇宙内存在」と位置づけていたのだった。  この二つの呼称は、すんなり呑み込めた。  人間は「社会内存在」であると同時に「宇宙内存在」である。  二重の在り方をしているのが、人それぞれの資質、傾向で、どちらかが強くでるということだろう。  芸術家においても、例外で

星の味 ☆10 “見えないもの”|徳井いつこ

 地上には、星の味のするものがいっぱいある。  子どものころ、チャイコフスキーのバレエ曲「くるみ割り人形」のなかの“金平糖の精の踊り”が好きだった。  チェレスタのあの不思議な音色が鳴り始めると、からだが勝手に動きだし、ころころころがる砂糖菓子になっているのだった。  いっぱいの、色とりどりの小さな球体が、それぞれに均一な突起を持ち、半透明に輝いている。星空を独り占めしてるみたいなわくわくと、口に入れたい誘惑の板挟みに陥るのが金平糖だった。   金平糖は   夢みてた。

星の味 ☆8 “闇から始まる”|徳井いつこ

 夜、部屋を真っ暗にして眠ると、いいことがある。  窓近くの床に、光の線がひとすじ落ちている。  カーテンの隙間からさしこむ月の光は、満月に近づいてくると、いよいよくっきり輝いて、こんなに白かったかと驚かされる。  光の線を、素足で触る。右から左、左から右に。  指先で拭う。拭ったところで落ちるわけではない。  落ちない光の、なんとたのもしい……。  ずっと昔から好きだった詩に、ハンス・カロッサの「古い泉」がある。暗闇から始まる十数行の文章が、果てしない生命の旅を続けている

星の味 ☆7 “夕暮れをめぐる”|徳井いつこ

 本に没頭しているうち、すっかり暗くなってしまった。  明かりをつけようとして、思いなおす。  外の世界が青く染まりはじめ、部屋に薄闇がしのび込んでくる夕暮れどきは、いつもためらわれる。  読み続けるには、いささか暗いが……明かりを点けてしまうと、何かを閉めだしてしまう気がする。  ハンス・カロッサの『指導と信従』を読んでいた。  風変わりな題のこの本をときどき開きたくなるのは、リルケとの最初の出会いが書かれているからだった。  カロッサが「嘆きの調子を含んでいる頌歌」と呼

星の味 ☆6 “次元の旅人”|徳井いつこ

 友人は、子どものころ、竜を見たことがあるという。  山形の城下町。よく晴れた日の午後、川原の橋近くで芋煮会が開かれていた。8歳の友人は、大人や子どもたちからはずれ、ひとりぶらぶらと川のほうへ歩いていった。  背の高いススキやチガヤをかき分けて行くと、川辺に出る。小石を拾ったり川面を眺めたりしているうち、霧が流れはじめた。あっという間に、あたりいちめん見覚えのない真っ白な世界になっていた。  ふと見ると、水面近い霧のなかに巨きな何かが蠢いている。友人の目はぴたりと貼りついたま

星の味 ☆4 “奇妙な惑星の奇妙な人々”|徳井いつこ

 シンボルスカの名を初めて聞いたのは、30年前のことだ。  当時ロサンゼルスにいた私は、こつこつ石の本を書いていた。 「どうして石の本?」と無邪気に聞かれるなかで、アルメニア系アメリカ人のその友達だけは、いたずらっぽい顔で「ヴィスワヴァ・シンボルスカを知ってる?」と尋ねたのだ。  知らない、と私は言った。  舌を噛みそうだね、その名前? 「ポーランドの詩人だよ」  と友人は笑った。 「石の詩を書いてる」  私たちはふたりとも赤ん坊を育てている最中だったが、彼女は夜中にキッチン

星の味 ☆3 ”自由の訓練”|徳井いつこ

 自由とは何だろう?  そんなことを考えたのは、トーベ・ヤンソンの『島暮らしの記録』を読んだからだった。  カバーには簡素な島のモノクロ写真。ページを繰ると、最初にこんな文章があらわれる。 「わたしは石を愛する。海にまっすぐなだれこむ断崖、登れそうにない岩 山、ポケットの中の小石。いくつもの石を地中から剥ぎとってはえいやと放りなげ、大きすぎる丸石は岩場を転がし、海にまっすぐ落とす。石が轟音とともに消えたあとに、硫黄の酸っぱい臭いが漂う。」  なんと、やってることがスナフキ

星の味 ☆2 ”人ではない”|徳井いつこ

 詩集は不思議だ。  ひらくたび、違う詩が目にとまる。  初めて読んだように沁みてくる。  ひらくそのときどきが、毎回、新しい出会いなのだ。  昔、クルド系イラン人の友人宅を訪ねたとき、詩集占いをしてくれたことがあった。羊や豆を煮込んだ夕ごはんを食べ、小さなグラスに何杯もお茶を飲んで、もうお腹いっぱい……とみんなが暖炉の周りに腰を下ろしたとき、友人は待ってましたとばかり分厚い詩集を取りだしてきた。  それはスーフィーの偉大なる詩人ルーミーのもので、ひとりずつ順番に本を手にと

星の味 ☆1 ”誕生日の気分”|徳井いつこ

 年があらたまると、一つ歳をとる。  お正月生まれの私は、わかりやすい。  子どものころはケーキ屋もレストランも閉まっていた。ラジオは春の海ばかり流している。焦った私は親に尋ねた。「今日は何の日でしょう?」  全国民がお祝いしているので、一個人の誕生日は忘れ去られる運命にある。なにしろ新年なのだ。  家の中も、そして街の風景も奇妙にさっぱりしていた。通りはきれいに片づけられ、人一人、犬一匹歩いていない。  世界を覆っている「日常」という蓋が取り外され、どこまでも続くからっぽの