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星の味 │ 徳井いつこ

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日常のふとした隙間、 ほっとため息をつくとき、 眠る前のぼんやりするひととき。 ひと粒、ふた粒、 コンペイトウみたいにいただく。 それは、星の味。 惑星的な視座、 宇宙感覚を…
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星の味 ☆22 “天体の音楽”|徳井いつこ

 朝、庭にでると、無数の光に目が吸いよせられる。  足下の草という草、頭上の梢という梢をびっしりとふちどっている小さなつぶつぶ、きらきら……。眺めている自分も輝き、ふるえる。時間がとまる。 「朝露は、とくべつなものだそうですよ」  そう言ったのは、オイリュトミー(身体芸術)の先生だった。なんとなく耳を傾けていた私は、どう特別なのか聞きそびれてしまった。  先生が亡くなってしまったいまでは、知る由もない。  今朝、タゴールの詩集『迷い鳥』をひらいて、ぱらぱら読んでいると、こん

星の味 ☆21 “ふしぎなことです!”|徳井いつこ

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン。 「雪の女王」や「マッチ売りの少女」「赤いくつ」「人魚姫」といったお話をつくった人。  子どものころからあまりに親しんでいたせいで、ずっと昔の時代の人のように感じていた。  たった2世紀足らず前に生きていた人だった、と気づいたのは、フィレンツェの新市場のロッジア(開廊)に立っている青銅の猪を見た時だった。 「ポルチェリーノ」(幸運の子豚ちゃん)と呼ばれるその像は、アンデルセンのお話「青銅のイノシシ」のモデルで、彼はイタリアを訪れた際、じっ

星の味 ☆20 “青い青い世界”|徳井いつこ

「まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。」  ラフカディオ・ハーンの「東洋の第一日目」と題された随想には、来日して、人力車で横浜の外国人居留地から町の通りに入ったときのことが描かれている。  青い、青い、水底のような青い世界……。  それがハーンの見た最初の日本だった。  童話作家の小川未明は、東京専門学校(現・早稲田大学

星の味 ☆19 “あのころ僕らは地球で”|徳井いつこ

 シュペルヴィエルを読んだのは、短編が最初だった。 「海に住む少女」のあと「セーヌ河の名なし娘」「ノアの箱舟」と読みついで、すっかり夢中になった。  堀口大學が「この詩人はありふれた手近な題材から破天荒なヴィジョンを引き出してくる魔法使だ。ファンタジーの奔放なことは、殆ど狂人の幻覚に近いものがある」と書いた、そのヴィジョンの強度に圧倒されたのだった。  といって、サイケデリックな原色が渦巻いているわけではない。どこかフレスコ画のような精緻と静謐に浸されているのだった。  そし

星の味 ☆18 “声に呼び覚まされて”|徳井いつこ

 人が本と出会う。人が人と出会う。  ふたつは、なんと似ているのだろう。  ある人と親しくなると、よく似た雰囲気のだれかに会うことになる。あるいは、友人を紹介される。本も同じだ。  フェルナンド・ペソアを知ったのは、イタリアの小説家アントニオ・タブッキのせいだった。須賀敦子さんの本を読むようになったのも、タブッキを通してだった。  本と出会う道筋は無限にあるから、もしかしたら矢印が逆向きの人もいるかもしれない。  私が最初に読んだタブッキの小説は『インド夜想曲』(須賀敦子訳)

星の味 ☆17 “生は旅人のように”|徳井いつこ

 親しく感じられる誰かが、かつてそこに住んでいた。  それだけで、見知らぬ街を訪ねる理由になる。ましてその人が、その街を絶賛していたら……?  ポルトガルの首都リスボンを訪ねたのは、ひとえに詩人フェルナンド・ペソアのせいだった。  ペソアは『不穏の書』のなかで書いていた。 「田舎や自然が提供するいかなるものも、グラサやサン・ペドロ・デ・アルカンタラから見た月の光に照らされた静かな街の不規則な壮大さには敵わない。私にとって、陽の光の下でさまざまな色に輝くリスボンの街ほど美しい

星の味 ☆16 “星々にとり残されて”|徳井いつこ

 「夏なら冬のことを書くのだ。イプセンがしたように、イタリアの一室からノルウェーのことを書くのだ。ジョイスがしたように、パリの机からダブリンのことを書くのだ。ウィラ・キャザーはニューヨークからプレイリーのことを書いた。マーク・トウェインは……」  と、さまざまな作家を引き合いにだして、「書く」ことにおける「遠さ」の効用を説いたのは、アニー・ディラードだった。  遠いこと、遠いものが、創造的に作用するのは、どういうわけだろう?   「遠い」という語を辞書で引くと、「二つのものが

星の味 ☆15 “壺のような日”|徳井いつこ

 海が近づいてくると、すぐにわかる。大気中の光の量が増えてくる。あたりいちめん眩しくなる。  山が近づいてくると、すぐにわかる。雲が頭上をゆく。焚火の煙のようにすばやく流れる。  神戸で育った私は、海と山が近接している土地の特性を、からだで覚えた。雨が降る前は、海の匂いが濃厚になり、船の汽笛が大きく響いた。 六甲おろしと呼ばれる山風は、海から吹く風と違っていた。冬の颪は、子どもが手を広げて立つと、本当にもたれられるくらい強かった。  八木重吉のこんな詩を読むと、ああ懐かしい、

星の味 ☆14 “世界という魔法”|徳井いつこ

 エミリー・ディキンソンの詩を読むたびに、“エミリー・ディキンソン”だけでできている、という当たり前のことに驚く。  当たり前、ではないはずだ。言葉は私たちの共有財産で、より一般的なものを多く伝達するようにできているのだから。  彼女の詩はすみからすみまで、どこを切っても“彼女”だけでしかできてない。「純正」という言葉が、これほどぴったりな詩人もいないだろう。   自分自身という所有品のなんと   適切にみごとなこと。自分が   自分自身への発見に向かう   他の誰も見出せ

星の味 ☆13 “自分以上の生命”|徳井いつこ

 エミリー・ブロンテの詩を初めて読んだのは、片山敏彦さんのエッセイだった。キーツやヴァージニア・ウルフにふれ、イギリスの詩文学のなかでプラトン的特質がさまざまに蘇っているのは面白いと語り、片山さんはこう書いていた。 「私はヨーロッパの旅の宿で、自分の心をはげますためにこの詩を訳してみたことがあった。   ……たとえ 地球と人間とが亡び   太陽たちと宇宙たちとが無くなって   後に残るのは ただあなただけになっても   すべてのものは あなたの中で存在するだろう。   

星の味 ☆12 “向こうから来るもの”|徳井いつこ

 人の記憶は、何でできているのだろう?  いつまでも消えない思い出がある。  瑣末な、どうでもいいような記憶がありありと残る。ある種の石ころが、引いていく波に連れ去られることなく、波打ち際に点々と残っていくように。  金沢の旅といえば、浮かんでくるのは、中華料理屋のテーブルだ。  町家を改造したそのお店はずいぶん繁盛していて、コップの水が置かれたきり、注文の皿はなかなか現れなかった。2時半を過ぎた遅い時間だったから、入れただけで安堵したのが、空腹も加勢してだんだん不安になって

星の味 ☆11 “大事の大事”|徳井いつこ

 「社会内存在」と「宇宙内存在」という言葉に初めて触れたのは、谷川俊太郎さんの本だった。  『詩人なんて呼ばれて』という本のなかで、谷川さんは、詩の比較において、同世代の茨木のり子さんを「人間社会内存在」、自分自身を「宇宙内存在」と位置づけていたのだった。  この二つの呼称は、すんなり呑み込めた。  人間は「社会内存在」であると同時に「宇宙内存在」である。  二重の在り方をしているのが、人それぞれの資質、傾向で、どちらかが強くでるということだろう。  芸術家においても、例外で

星の味 ☆10 “見えないもの”|徳井いつこ

 地上には、星の味のするものがいっぱいある。  子どものころ、チャイコフスキーのバレエ曲「くるみ割り人形」のなかの“金平糖の精の踊り”が好きだった。  チェレスタのあの不思議な音色が鳴り始めると、からだが勝手に動きだし、ころころころがる砂糖菓子になっているのだった。  いっぱいの、色とりどりの小さな球体が、それぞれに均一な突起を持ち、半透明に輝いている。星空を独り占めしてるみたいなわくわくと、口に入れたい誘惑の板挟みに陥るのが金平糖だった。   金平糖は   夢みてた。

星の味 ☆9 “永遠に幼きもの”|徳井いつこ

  やみにきらめくおまえの光、   どこからくるのか、わたしは知らない。   ちかいとも見え、とおいとも見える、   おまえの名をわたしは知らない。   たとえおまえがなんであれ、   ひかれ、ひかれ、小さな星よ!  ミヒャエル・エンデの物語『モモ』の冒頭にそっと添えられている詩には、「アイルランドの子どもの歌より」と書かれている。  世界じゅうで、日本でも長く歌い継がれている「きらきら星」に似ているような……?  時間泥棒に盗まれた時間を、人間に取り返してくれるモモ。あの