何故私は独り言をネットに放流するのか

自己紹介にかえて。

皆がガラケーを握りしめていた時代、ブログを書いてみようと思ったことがあったが全く続かなかった。

しかしそれでも何かを書きたいという思いは残った。結果辿り着いたのがTwitterで、10年くらい使い続けている。始めたのは中学生くらいの年齢だったか。

私はそれまでも、日記を毎日つけていた。小学生の少ないお小遣いでノートを買い、お気に入りのシャープペンシル(ぷにぷにのゲルグリップ)で夜な夜な布団に潜りながら書いていた。図工の授業ではわざわざ木材を組み立てて日記立てを作った。枕元に置いていた。

ところが日記の存在に気づいた母がそれを読んでしまったのだ。私は恥ずかしかった。もう日記は書けないと思った。だからノート以外の書き場所を求めた。

そこまでして私は日常の出来事を、感じたことを書きたかった訳だ。同じような人はたくさんいるだろう。

Twitterをやっていると、横から母が言ったものだ。「自分のことを何で知らない人に見せるの?」と。

ピンと来ない。私がTwitterを使う理由に「発信」は無いからだ。平々凡々な人間の平々凡々な日常など、誰に発信するというのだ。私は私の為に書いているのだ。頭に浮かぶよしなしごとを徒然なるままに日暮らし書いているだけなのだ。しかし母の疑問も尤もなのである。

私は元々独り言も多かった。そもそも考え込むことが多いので、外に出す作業を挟まないと頭がパンクするのだと思う。独り言は、実は一人では成り立たない。言葉が音声として外界に発され、他者が聞くことの出来る状態になって「独り言」なのだ。

ネットに放流される何億もの呟きも、同じだと思う。誰が見ているかわからない。それでも、言葉が文字となり外界で他者の目に触れるようになって初めて成り立っている。私達は独り言に満足をする。母の言う通りだ。呟きは外界と他者を必要とする。

しかしあくまで独り言であるという意識を忘れられない。だからブログが苦手だった。人の目を引く見出しや文章を考え、発信を目的とすることが嫌だったのだ。

noteを使い始めたのは、よしなしごとをもっと残る形にしたかったからだ。呟きは流れてしまう。新鮮だが、寿命は短い。熟考を重ね、推敲を重ね、きちんとした文章で残しておきたいことがあるのだ。そしてそれは全て自分のため。文章を書くことが好きでもあるしちょうど良い。

自分の哲学と言えば大袈裟だが、自分のことを目に見てわかる形で残しておきたい。文章として残しておけば分析が出来る。他人と衝突した時、理不尽にぶつかった時、自分がわからなくなる時。支えにも、解決への標にもなるように。自分が間違っている時は、客観的に見られるように。

あえて他人の目に触れるこの場所で。自分勝手に書いていきたいと思う。発信ではなく独り言として。

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