見出し画像

【ボツ原稿公開】小学校のプログラミング教育について思うこと

2019年10月10日に、私、及川卓也の著書『ソフトウェア・ファースト あらゆるビジネスを一変させる最強戦略』が発売となりました。このnoteでは、出版の経緯や書籍づくりの裏話、発刊時に削った原稿の公開など、制作にまつわるさまざまな情報を発信していきます。

こんにちは、及川です。担当者より早くも3刷りになったとの朗報が届きました。Twitterなどで読後の感想を発信していただける方も見かけますし、著者としても大変嬉しく思います。

さて、今回は、本書に掲載されなかったボツ原稿の中から、プログラミング教育への思いをつづった原稿を発掘し、発信させていただきます。正直言うと、今でもどっかに配置して良かったのではないかと思うくらい、自分の思いを込めた文章です。

ボツ原稿を世に出すべきか

『ソフトウェア・ファースト』は、実は現在世に出ているものよりも3万字ほど分量の多い書籍になる可能性がありました。企画案に従って書き進め、興味を持ったところを整理しながら書いていき、ふと気づいたら、驚くほどの分量になっていました。今でも「想像以上に重い本だった」とか「結構分厚い」と言われる本書ですが、実はさらに分厚くなる可能性もあったのです。

最後の最後で前回紹介したペルソナに沿って原稿を精査した結果、ばっさり削って今の姿になったのですが、本当に削って良かったと思っています。

さて、世に出さないという判断をした3万字が成仏できずに残っているのですが、これをどうすべきか悩みました。正確に言うと、今でも悩んでいます。世に出す価値が無いという判断を下したので、このままお蔵入りさせるのが正しいのかもしれません。しかし、一つだけ明らかに悩み無く公開したいと思う原稿があります。それが小学校のプログラミング教育に関する原稿です。

書籍の書き出しに悩む

執筆を開始した当初、実は第1章の書き出しにかなり悩みました。その頃の制作チームSlackでの私の投稿です。

画像1

画像2

当時私は、デジタルトランスフォーメーションなどをトピックとする講演会で、日本の小学校のプログラミング教育の話から始めることが多くありました。なぜ今プログラミング教育(実際にはプログラミング的思考の教育ですが)が必要かを紐解くところからソフトウェアの重要性を訴えていたのですが、それをそのまま書籍の書き出しに採用したのです。

実際の原稿は次の通りです。

今、プログラミングが注目されるわけ

 まず最初に、ソフトウェア開発の基本となるプログラミングの話題に触れておきます。
 2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されます。この政策は、文部科学省の有識者会議の報告を受けて決定されたものですが、これが報道されるとさまざまな反応が巻き起こりました。
 「今でさえ教員の方々の負荷が高いのに、これ以上新たな教科を追加して疲弊させるのか」「そもそも新たな教科を教える技術を習得する時間を確保できるのか」「中途半端に知識を詰め込むだけなら、子どもたちも咀嚼できず、プログラミング能力が身に付かないのでは」……など、否定的な意見も多く見られました。中には、「子どもたちが大きくなる頃には人工知能が進化し、プログラミングという作業は不要になっているのでは」という声も。
 かく言う筆者も最初にこのニュースを聞いたときには否定的でした。その理由は次のようなものです。

● 必ずしも早期にプログラミングを習得する必要はない。小学校では、プログラミングに必要な数学(小学校教育では算数)や論理的思考などの習得を目指すべきではないか。
● プログラミングの授業が追加されることで、他科目の授業数が減らされることになると予想される。他の科目も小学校教育課程では重要なものばかりであり、それらが減らされることによる弊害も大きいであろう。
● プログラミングを好きでも得意でもない教員の方が、子どもたちに熱意を持って教えるのは難しいのではないか

 最後に挙げた教員の方のプログラミングに対する興味や理解については、未だに懸念が残ります。皆さんも心当たりがあると思いますが、ある学問に対する興味というのは、誰から教わったかが大きく影響するところがあります。筆者も数学が好きになったのは、高校時代に出会った数学教師の数学へのあふれんばかりの愛と、好きな数学の魅力を生徒に伝えたいという熱意にもとづく分かりやすい授業が理由です。小学校のプログラミング教育で心配だったのは、プログラミングを好きでもない教員が指導要領などに書いてあることを踏襲するだけで、子どもたちの興味を惹くことを放棄した結果、放っておいたなら天才プログラマーになったかもしれない子どもの芽を摘んでしまうことでした。実際、過去も現在も、IT産業で活躍するエンジニアの多くは、自らプログラミングを学びたいと望んで習熟してきたのです。

 この心配はまだ残りますが、筆者が当初懸念していた他の2点は純粋に筆者の理解不足でした。文部科学省が出した方針を調べると、現在の小学校におけるプログラミング教育は、プログラミングそのものを教えることを目的としたものではなく、あくまでもプログラミング的思考を養うことを目的としています。具体的には、以下の3点です。

【知識及び技能】
身近な生活でコンピュータが活用されていることや、問題の解決には必要な手順があることに気付くこと。
【思考力、判断力、表現力等】
発達の段階に即して、「プログラミング的思考」を育成すること。
【学びに向かう力、人間性等】
発達の段階に即して、コンピュータの働きを、よりよい人生や社会づくりに生かそうとする態度を涵養すること。

 また、筆者も勘違いしていたのですが、プログラミングという新たな教科が新設されるのではなく、あくまでも現状の教科の中でプログラミング的思考を教えることになります。例えば、算数や理科といった理系の教科の中でプログラミングを取り上げるとか、音楽の中でも繰り返しの概念をプログラミング的に表現するなどして取り組んでいくことになります。実際、筆者も小学校でプログラミング教育の公開授業を見たことがありますが、音楽の授業ではiPad上でGarageBandというコンピューター・ミュージックのアプリケーションを使って、子どもたちが簡単な作曲や編曲を行っていました。プログラミングを授業に取り入れることにより、従来の教科の理解もより進むという副次的な成果もあるかもしれません。

 このように、日本で始まる小学校のプログラミング教育は、プログラミングそのものというよりも、プログラミング的思考を教えるものですが、IT先進国と誰もが認める米国はどうでしょうか。

 米国では、バラク・オバマ政権時にComputer Science for allという取り組みが発表されました。これは米国の生徒がコンピューターサイエンス教育において他国の生徒に遅れを取らないように、また貧富の差による教育格差をなくすために始められたものであり、40億ドル(約4200億円)もの予算が組まれました。もちろん、これには情報産業における米国の圧倒的な優位性を維持したいと考える政府や産業界の思惑もありました。近年の米国では、IT企業による優秀なソフトウェアエンジニアの争奪戦が繰り広げられています。そこで、小さなパイを奪い合うだけでなく、多くの優秀な子どもたちにコンピューターサイエンスを習得してもらうことでパイを大きくすることも必要だと多くの企業が考えています。
 米国の教育の実情は、必ずしも楽観視できるものではありません。極度に進み過ぎた州政府への分業の弊害で、全米で統一した教育水準を維持することが難しく、教師の確保や適切な教材とカリキュラム不足にも悩んでいます。ただし、そんな中でも官民の協業が進むのが米国の強さなのでしょうか。いくつかの非営利団体や大学などが若年層に対するプログラミング教育に取り組んでいます。
 その中でも有名なのが、Code.org(コード・オルグ)です。この非営利団体は、コンピューターサイエンスをより身近なものとし、女性やマイノリティを含むすべての子どもたちが教育の機会を得られることを目的としています。子どもたちや彼らを教える教員たちに、さまざななコンテンツを提供し、キャンペーンを通じて活動を展開しています。
 Code.orgも政府も、プログラミングを学ぶことで負の連鎖を断とうとしています。すなわち親が貧しいからといって、その子どもたち、さらにはその次の世代まで貧困が続いていく状況を打破しようと考えているのです。なぜでしょう。それは経済合理性の理論で説明することができます。
 Code.orgの資料によると、高卒社会人の平均生涯収入は58万ドル(約6200万円)で、大卒社会人では119万ドル(約1億3000万円)、コンピューターサイエンスを専攻した大卒の場合は167万ドル(約1億8000万円)と言われています。また、求人数が最も多い職業もコンピューター関連です。

画像3

画像4

※Code.orgより引用

 もう一つ、2018年に日本のリクルートが買収したGlassDoorという米国で有名な求人サイトを用い、サンフランシスコのソフトウェアエンジニアの平均給料を見てみましょう。本書を執筆した2019年7月時点で、年収にして12万6000ドル(約1300万円)となっています。一方、同じくサンフランシスコでマーケティングスペシャリストに就く場合、平均年収は6万1000ドル(約650万円)と約半額です。

 対して、日本ではソフトウェアエンジニアの収入は必ずしも高くありません。むしろ低いほうです。それもあって、日本ではIT業界、中でもソフトウェアエンジニアは不人気の職種となっています。注意しておきたいのは、ここで言うソフトウェアエンジニアというのは、日本で言うプログラマのことだということです。日本では、プログラミングを誰でもできる単純作業と思っている人や組織が見受けられるのですが、米国や諸外国において、プログラミングを行う人は高い報酬で組織に迎え入れられているというのが現状です。

 ではなぜ、米国ではこのように高い給料を出せるのでしょうか。それは、彼らが生み出すソフトウェアが、ビジネス面で非常に高い価値があるからです。価値あるものを生み出す人には高い報酬を出して迎え入れる。極めて当たり前で合理的な理由がそこにはあります。

画像5

画像6

※GlassDoorより引用

 昨今、デジタルトランスフォーメーションという言葉が多くの経営者の間でも使われるようになりました。デジタル技術による事業創出や事業価値の向上を目指す取り組みですが、その本質を理解するには、ソフトウェアの価値、そしてソフトウェアエンジニアの価値を理解する必要があります。

ボツになった理由

それは、「ソフトウェアの価値を伝える」という本書の目的から考えた場合、その冒頭にある話題としては、少し回り道をしているのではないかという判断です。原稿がある程度揃った段階で、この部分を思い切って削ったほうがリズムが良いと考えました。

この後の原稿はIT産業の歴史を語るものだったのですが、結果的にはそこもすべて削り、今の姿となります。本書の出だしは多くの方にお褒めいただくのですが、その前には大幅なダイエットがあったのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?