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2005 収束できえぬ越ep5 【Before softinhard】

こんにちは、softinhardと申します。

この記事(シリーズ)では、今現在(2021年)に至るまでの自分自身の履歴/経歴を想い起しながら、書いたものです。

”至る前”からはじまり、”悦に這入る”のエピソードでは自身の2004年から2005年のアメリカ留学の際の事案について言及したものであります。

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序文と前哨譚と、

ep4はこのシリーズのmainです。

ep5

事を終え、家の近くにつき車から出る自分。
送ってくれたみんなに手を振りThanksと。

記憶も若干トび、全体的に酔いしれていた自分は、
あの窪みの余韻を引きずったまま歩いていた。

抑えることのできない笑み。
ぬるい微風が馬鹿な自分をやさしくたしなめるようであった。

街灯はオレンジ。家の前のライトもオレンジ。
車は一台も通らず、人は誰も出歩くことはない。
このコミュニティだけではなく、どこでも住宅地はそんなもの。

重い3mほどのドアを開け、(ステイしている)家に入る。
家の中はほとんどライトは消され、間接照明からの明かりが在った。
奥のTVルームでドラマかポーカーの試合をホストはみていた。
軽くただいまと会釈し、すぐに自分の部屋に戻った。

こんな抑えてはいたが、イッてる自分バレないかと帰ってきた時は、ビビっていたが、彼らは何も関知しない様子に思えた。

遅かったが、伝えていたのもあってか特にその夜はなにも言われなかった。
眠そうな目でこっちを見ていた。

12月の中旬には、学校は冬季の長期休暇に入った。

年末年始、ホストは自分をハワイの(ホストファーザーの)実家へ連れてってくれた。
現地の親戚や兄弟の家族が勢揃いであった。

完全に自分はそのファミリーの中では浮いていた。一部、親戚のおじさんらとは、打ち解けていた記憶がある。単純に彼らがやさしかっただけだとおもう。


marijuanaの旗
ハワイであるバザーに連れ出してもらった時、
ホストの目を盗んである旗を買った。 それを買うことは、彼らに見せることすら想定していなかったが、自分にとってそれは、反抗心や抵抗の意を表すものであった。

その後の事態のきっかけのひとつに、この旗がなる事になる。

ただ冷たいわけではないが、ホストファミリー自体との関係性は最悪であった。

話すことがゼロに近くなっていた。わざわざハワイまで連れていったのに、会話は一切弾むことはなく。気まずさだけが増していった。

それでも、まだ、修復可能だと思っていた。
アリゾナに戻るころには、自分自身は関係修復を望み始めていた。

残り6か月のアメリカ生活をこのままで突き抜けるメンタルは持ち合わせていなかった。

学校もトモダチも最高に楽しくなってきた。家だけだが最悪じゃあダメだろって。

そう思っていたのは、今思えば自分だけではなかったかもしれない。

冬季休みも終わり、
あの日の夜の事以上の事は起きなかったし、みんなで回すことすらなかった。

あるなんでもない日。
真面目な(吸わない)方のトモダチの家で、健全にゲームしたり、しょうむない話したりしていた。
とても健全な会であった。話す内容も合法。なんの問題もない夜であった。

夜になり日は暮れていた。

家に帰って、ホストたちはTVルームでドラマをみてるようだった。
”ただいま”いうと部屋に入った後、間髪入れずホストファザーがTVルームにくるように声を張ってきた。


さよならみたい
ホストファザーとマザー(脇にはベイビーを抱えていた。
あまりいい話ではないのは、表情やその場の空気ですぐに察知した。
ホストファザーが口を開く。
”(ホストマザーが)部屋に入った時、(洋服)棚にパイプとビニールに入った草をみつけた。ここにもってこい”

あっ、終わった。アメリカン・ハイスクールライフもこれで終了ですか。
いや、何を勝手に部屋に入ってるねん。
自分が規約や約束を破り、圧倒的に自分が悪い。
ただ、もうホストが部屋に入り込み、ネタを見つけた行為自体が、ホストは自分のことを疑っていたこと、信頼されていなかった事を悟った。

ホストに対し自分は、信頼や信用していたわけではないが部屋に入るような線を超えることはされないと思っていた。

その考えは甘かったし、そもそも修復不可能だったというはなし。marijuanaをやっていなければ、こうはならなかった? かもしれないが、関係性が困難であることに変わりはなかった。

Aから貰った小型のパイプとビニールに入った少しのネタ。
かわいらしいサイズの初心者向けのようなセット。
Aに申し訳ないと思った。

彼らが待つTVルームに戻り、ホストにパイプとネタを手渡した。
留学プロジェクトのエージェントに電話され、明後日に帰国の手筈は整えられた。
暫くすると、エージェントもきて話をきかれた。
”いつから始めたのか、誰が教えて、誰から譲りうけたのか、誰と吸っていたのか” 
誰が教えたのかを強く問われた。

はっきりしたことは何も言わなかった。あいつらの事は一言も発することはなかった。

話はひとまず終え、自分はトイレに籠り番号の知ってるAZのトモダチたちにあまり詳しくはなしはせず、急な別れがきたことを伝えた。
日本の母にはすぐに電話した。
説明下手で詳しく事の成り行きをはなした。そのとき、母は感情を高ぶったりしていないように思えたし、怒鳴ったり、自分を叱ることはなかった。

”いつ吸った?血液検査してもマリファナは(よっぽどじゃないと)出てこないから、とりあえず吸っていないてもう一回言ってこい。血を採っても構わないいうだけ、いってこい。ダメもとで、いうだけいってこい”と母は言い、電話をきった。

あぁ、このひとやったことあるんや。普通の母親じゃないことを思い出した。

再度、ホストやエージェントに話をしたが何ひとつ好転することはなかった。そらそうだろうな。また、誰が勧めたのか聞かれてきた。あいつらを売ったほうが、”血を採れ”というよりもまだ、好転の可能性はあったかもと今更おもうが、その選択肢だけは自分にはなかった。

ガッコ
いつも通りポロをシャツとチノパンを着て、スクールバスに乗り、授業を受け、ランチをたべ、みんなとつるみ駄弁っていた。
ただその日はすべてが最後になる日であった。
自分の持っていたネタがばれて、(規約違反により)帰国することになったことをあいつらに伝えた。
あいつらは驚き、別れを惜しんでくれた。
みんなで自分を囲み話し、笑いあう。それだけで十分嬉しかった。

その夜は、また別コミュニティーの友達たちと少しの間、なんてない事をしゃべり合った静かにしゃべり合った。


不器用なまま
パッキングをして朝早くに空港までホストとエージェントに送迎してもらった。 ”カエルのか”そればかり脳内つぶやきしてた。思考は回っていなかった。
エントランス前で、ホストファザーとマザーとハグし、”元気でね”と言われた。 少し目が潤み、少し罪悪感を覚えたかもしれない。

もしこのままバレずにいたら、どうなっていたか。
これからどうするか。
考えても無意味なことばかりがループしていた。

自分の行動や思考を正当化することで、自分自身を保とうとしていた。
ただ未開の土地でトモダチを得れたことは大きく、イケない行為/行動であったが、あの場でみんなで共有した体験は今も記憶にへばりついて離れない。

煙や草自体はどうだってよかった。
17のときに窪みで集って、草を焚いて紫な煙に囲まれる。
それはイったトンだだけじゃない。
一緒に芯から酔いながら、笑いあったかどうか。

それなら、酒でもいいのでは?シラフでも笑い合えるし、理解し合えるとヒトはいうだろう。
確かにシラフで話合い続けなかったから、ホストと自分は理解し合うことは叶わなかったかもしれない。

理解し合うよりも共に笑い合うことが、何によりも代え難いものであった。

アメリカのジャンクでクソガキたちと芯からフラットな関係性で笑い合うことがmarijuanaを通してできた。 それはほんの一瞬の出来事であったけど、とても愛おしい世界であった。 

ただの言い訳を年を喰っても言い続けてるだけかもしれない。後悔や反省を避けているだけかもしれない。

そうだとしても自分は今でもあの窪みやすべての煙の想い出を過ちであったとは思わない。 

思えない。

エピローグか

帰国後は留学のために入学した高校も自主退学し、フリーターにもどった。
その当時、当時まだ河原町にあった大麻堂にいったり、大麻関連本を買いあさって正当化できる理由をさがし、自分の中で勝手に納得させていた。 ネタの知識が増えたとしても、自分自身の人生がどうにかなるわけではないし、だからどうもならなかった。

暫くして、またお金が貯まったあと、キューバに一人旅へいく。

それから、高卒認定試験を受け合格し、一浪して誰も知らない芸大に入学することになる。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
少しでもよいと思っていただければ、評価のほどよろしくお願いいたします。softtinhard


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