2004/2005 至る前の前哨譚ep2【Before softinhard】
こんにちは、softinhardと申します。
この記事(シリーズ)では、今現在(2021年)に至るまでの自分自身ノ履歴/経歴を想い起しながら、書いたものです。
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自分の過去の話をしたところで、いまいる自分がそれと直結しているわけではない。
それでも、そこにあったものが、身体の細胞レベルで染み込んでいる。
そんな気がしてならない。
softinhard
ep1を読まなくても問題ありませんが、この記事ep2はep1の続編・時系列が繋がっています。
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2004-2005 in Az. Mesa
アメリカは、アリゾナ、メッサに留学中(ハイスクールに留学していた。と言いつつも1年間限定であり、その後の延長や現地での大学進学は本人の実力次第であった。)
ハイスクール・高校といっても小中高が一緒になったプライベートスクールな小さな学校であった。
全生徒数も少なく、中学生らと体育は一緒だったりと、いわゆるTVでみるようなハイスクールではなかった。
割と真面目に授業は受けていた。英語に自信があったし、出発前に研修も受けていたが、現地の学校の授業についていくのは、必至であった。 なんとなく理解できるだけでは、中々しんどいものがあった。 それでも最後までふんわり理解のままで、終わってしまった感は否めない。
当然全て英語なので、授業だけでなく、同級生や先生との会話も英語である。
このはっきりとまでいかなくても、なくとなくの英語の雰囲気の理解精度は徐々に上がっていったとおもう。
それもあってか会話に関しては、さほど不便を感じることもなかった。自然と同じクラス、同級生らの中で仲良くなる者たちも出来ていった。
日本人であること、留学生であることは、そのコミュニティでは珍しく、最初は面白半分に近づいてきたとおもうが、彼らは自分の人間的側面/雰囲気/空気感が気に入っていく事になったとようにおもえた。
学校に通う前には、
その土地のコミュニティで知り合った友達らは既にいた。彼女らは、いわゆる日本人がイメージする"ハイスクール"に通っていた。 彼女たちは真面目で、それなりに裕福で、信心深いクリスチャンの子もいたりと、まぁ"いい子たち"だった。 それなりに冗談もいうけど、親を悲しませることのしない子たちだった。
一方、ハイスクールで出来た友達たちも
いい奴らだった。ただ"いい子"たちではなかったかな。不良やヤンキーではなかったが、裕福な家庭ではなく、どちらかと言えば貧乏な家庭やコミュニティで育っており、勉強できる者もいたが、"やんちゃ"だった。
この"やんちゃ"な友達らといるときは、"いい子"な友達といる時の楽しさとはひと味、ふた味違う楽しさとワクワク感があった。 それは、自分が"おれは、こんな奴らにも気に入られてる"というどうでもいい優越感をもってもいた。
大体、五人くらいで行動でしていた。
頭のネジが緩すぎるF、弟がいつも付いてきてるA、ハッパに詳しく自分の身体を吊るしたりしてるガチヤバな奴、グループのまとめ役、あとは、その彼女や妹たちがいた。
全員がいつも一緒ではなく、学校が終わった後一緒にいた奴らで車に乗り、Chillするといった具合だった。
授業のお手本みたいな扱いを先生から受けていた自分であったが、この"やんちゃ"な奴らと仲良くなってから、授業中に雑談したりガム噛んだりなしょうむないことで、チョロチョロ怒られはじめていた。
今思うとインキャが陽キャに可愛がれて調子にのってる典型であったようである。
ホストファミリーとの関係
この留学前から色々と人間関係で失敗していたので今回は良好な関係を持とうと意気込んでいた。
アリゾナ・メッサのホストは、新婚夫婦とそのベイビーの三人家族であった。 中々ホストが見つからない中、手を挙げてくれ、最初の方は快く向かい入れられ、学校の送り迎えもしてくれたり、クリスマスには、ハワイに居るホストファーザー(父)の家族/親戚の家に彼ら持ち(旅費等々)で連れててもらったりしていた。
今思い返すとこんなにも他人の日本人である自分に良くしてくれていたのかと思うと、実に申し訳なくなってくる。
ただ彼らとの関係性は、どんどん悪化していく。 思春期のせいなのか。自分は外の(学校等の)友達が増え、楽しくなると比例して、ホストとの会話は減っていった。 学校への送り迎えはなくなり、バスで通うようにもなる。
心を開かなくコミュニケーションを取らなかったためか、彼らに対する言い表せない不信感は募っていった。具体的に何がというわけではないが、ネグレクトを受けているような気になっていたのかもしれない。その割には自分から発信しない天邪鬼なところがありかなり、困らせたとおもう。
彼らは彼らで、育児に忙しく、ホストさせている日本人に優しくする余裕はなくなっていったのかもしれない。今おもうと彼らもそれほど大人ではなかったし、若い夫婦であった。
奥さんが働きに出て、夫が育児をするスタイルであったが、夫も仕事を探してる最中であった。
色んな要素があって、とても心に余裕がある者達がいない状況がどんどん家の中で高まっていたとおもう。
イケない誘い.
"やんちゃ"な奴らから、
"自分はハッパを吸わないのか?"と聞かれるようになる。
当時のアメリカでは医療目的の使用を許可する州が増え始めて、緩くなっていたが、まだ嗜好品としての使用は違法である州がほとんどであり、アリゾナでは勿論違法であった。
むかし、日本の留学生で見つかった生徒がいて強制送還されたはなしして、スルーしていたが、徐々に興味を持つようになり、自分なりに調べるようになる。
馬鹿な自分はホストに、"マリ ファナをどう思うか"と質問していた。今思えば、それがきっかけのひとつになっていたようにおもう。自分は、全てに置いて馬鹿であったとおもう。
授業が終わり、”ヤンチャな友達"の車でそこにいた4人か5人で帰ることになる。
帰る前に、大型の駐車場に停め、Aが持っていたパイプで回し始めた。穴を塞ぎ、吸い込むといった丁寧に吸い方をレクチャーしてもらい、吸った。
初めてのwe edはハイになるというよりも喉に詰まり雑草を食べてるような変な感じだったと記憶している。
喉がつまり咳き込んでる自分をみて、
みんな嬉しそうに笑っていた。
それの効果よりも回し吸うことの一体感が特別であり、その輪に入れた事が何よりも嬉しかった。 悪いもの、違法なものだけど、これで帰国させられるものだけど、一瞬ではあったが、心が落ち着いた気になった。
Aからその小型のパイプを譲り受けることになる。
これがこいつらとの関係性を表しているようで大事な宝物になった。
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