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思い出はグーディスとともに

クリスマスまでもう1ヶ月を切った。数日前、スウェーデンから黄色い段ボール箱が届いた。スウェーデンからならAmazonではないよなあ、なんだろう、と思いながら差出人欄を見ると、今をさかのぼること30年前の1990年代前半、交換留学で1年間スウェーデンの高校に通ったときにホームステイさせてもらっていたホストファミリーからだった。3家族の連名。ホストマザー、ホストブラザー、そして同い年のホストシスター家族だ。箱を開けると、当時私が好んで食べていたお菓子(グーディス)が詰まっていた。それを手にとりひとつほうばると、ほこりをかぶっていた記憶の箱が開いて、ブワーッといろんなことが鮮明によみがえってきた。
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私がホームステイさせてもらっていたのは1993年から94年にかけて。当時私のホストファミリーはスウェーデン第2の都市ヨーテボリの郊外にある、ふるい言葉だけどもそのスタイルを適格に言い表しているハーモニカ長屋、今で言うタウンハウスに住んでいた。共働きの父母と兄妹の、スウェーデンではごく標準的な家庭。家には小さな庭が前と後ろにあって、横長の地上2階地下1階建ての建物が10軒くらいに区切られているもので、その端から2軒目が私の住む家だった。家は地下と地上合わせて3階建てで、1階にはリビングダイニング、キッチンとトイレ、2階には寝室が3部屋とバスルーム。地下はテレビルー厶兼収納として使われていた。決して裕福ではないが、かといって貧しいわけでもなく、夏になると小さな前庭に生えるプラムの木に実った果実でジャムを作った。秋から冬には、カーテンのない窓から葉を落としたプラムの木に設置した給餌台に集まる鳥の名前を言いあてながら、PHランプのあたたかい光がやさしくアアルトのテーブルと椅子を照らす中、ホストマザーとシスターと私、お茶を飲みつつさっき焼いたシナモンロールをつまみながら、たわいもない話をした。豊かな暮らしってこういうことなのかもと、北欧ブーム到来前夜の日本から来た私は、しみじみ思った。雪が積もって真っ白になった庭を眺めながら、プラムの自家製ジャムを塗ったトーストとフルーツと紅茶の朝食を登校前にほおばりながら、つくづくこんな暮らしが好きだと心が震えた。金曜の夜になると、親が不在の誰かの家で夜中まで開かれる、ただ飲んで踊って騒ぐだけのパーティや慣れないディスコに出かけ、週末の夜になるとスーパーのエスニック食品コーナーで買ってきたメキシカンスパイスでひき肉を炒め、トルティーヤにレタスやトマトを刻みチーズとサルサソースをくるんでほうばり、食後にグーディス(量り売りの駄菓子)をつまみながら地下のテレビルームで映画やドラマを見た。たまに街や植物園、映画に行き、カフェでフィーカしたり、と文字通り気楽な女3人暮らしだった。もともとスウェーデン北部出身の、自然とDIYを愛するホストファーザーは、学生時代から長らく住んできたヨーテボリを離れ、ストックホルム郊外の群島にあるホストマザー親から引き継いだサマーハウスに拠点を移したばかりだった。島にある工務店を買い取り、夏仕様の築100年の赤壁の家を自らDIYで断熱材を入れサッシを交換し、そこで生活を成り立たせるべく、ヨーテボリとストックホルムの島を行き来していた。ヨーテボリの病院で心理カウンセラーとして働いていたホストマザーは、仕事を続けながら、子どもたちが巣立ったらホストファーザーに合流し、島での暮らしへ移行しようと、考えているようだった。ホストシスターは私と同い年で、ちょうど1年のアメリカ東部への交換留学から帰国したばかりだった。ホストブラザーは、大学進学ですでに家を出ていた。
ホストシスターは、家のあるコミュニティの高校に通っていたが、私は日本で音楽科への高校受験を考えていたこともあり(中3の12月で嫌になり進路変更し普通科へ進学)、なんとなく未練のあった音楽科を希望してみたらそれが通り、ヨーテボリ中心部にある高校の音楽科へバスやトラムを乗り継ぎ、通うことになった。

高校には防音個室があるので、本気の練習は学校でしていたが、家には古いアップライトのピアノがあって、時々弾いた。何を弾いてもうまいうまいと、みんな褒めてくれた。担任のピアノの先生は、寡黙で神経質そうな中年男性だったが、レッスンは想像とかなり違った。技術的な指摘は最低限で、日本で受けてきたレッスンのように重箱の隅をつつくような、楽譜にいかに忠実に演奏するかよりも、私オリジナルの感情表現を求める。そして何より褒めてくれる。日本では弾いても弾いても褒められるなんてことはまずなかったし、個人の感情表現よりもテクニック重視、コンクールでは勝ち負けが全て。手を酷使し続けるので手首に「水」がたまり、ラクダの背のようにふくらんできて、限界がくると鈍痛が発生するので半年に一度、外科に行き太い注射針を刺し、抜いてもらっていた(これがまた痛い)。それでもピアノを続けられたのは、弾いていて楽しかったからだ。でも中3の12月、私の心の中の何かが崩れて、ピアノが大嫌いになった。その3年後、スウェーデンでまた、ピアノを弾く楽しさを思い出した。そして私は、ベートーヴェンの「悲愴」と、モーツァルトの「レクイエム」のアルトパートを歌い、単位をもらってヨーテボリの高校の音楽科を卒業した。(続く)

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