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苦悩と葛藤のヒストリー〜音楽で失う編〜


自分を省みることで自分の欲求や本心を探り出したい、ソーダ・ヒロです。

音楽の制作活動を行う中で、音楽自体の知識のインプットと同じだけ、自分自身の理解、というものが「自分にしか作れない新しい音楽」を作る上で必要な行動ではないか、というところから、自分自身を省みる記事を2回書いて参りまして、本日で3回目となります。

いや、もう本当はもうちょっとシンプルにまとめられる方が良いとは思うのですが、そのような能力は自分にはありませんでした。。ご容赦下さいませ。。。

と、いうわけで、本日は前回までの続きです。
中学時代、自分に自信がなかった僕が音楽を得たことで、少しずつ憧れであった「普通の人(みんなと同じような人)」に近づき、友人ができ、路上に出たことで新たな自我である「自分の個性を認めてもらいたい」という欲に突き動かされ始める。そしてそれは誰かを押しのけて自分の存在を主張する、という"勝つ音楽作り"に意識が傾いていった、

というところまででした。

本日はその続きになります。もしよろしければお付き合いくださいませ。

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“勝つこと”に傾倒していく音楽作り

盲目的に勝つことを意識した曲作りは大変機械的でした。
どう機械的かと言うと、


"思い入れがない"のです。


借り物の感情で何かの曲と競り合わせて感覚的に琴線に触れたものを採用する。

歌詞は自然とスラスラ書けました。なぜならそれらは"フィクション"だからです。しかも、それはただのフィクションではありません。自分の体験や感情を元にしない、TVドラマかニュースか、どこかで見た、聞いた情報から場面を浮かべ、歌詞に書き起こす、というだけの"自分の感情のないフィクション"です。
自分の感情を含めないものだからこそ、その言葉一つ一つに責任がないんです。だから迷いもなくスラスラ歌詞が書けたんです。


今思えば大変不誠実な音楽との向き合い方をしていたと思います。


ただ、その作業は自分の内なる場所での一人のやりとりでしたので、そういった作業を経ての曲でも、お客さんが足を止めて聴いてくれたり、リクエストをくれたりした、ということは、結果としてはある程度聴けるものにはなっていたのだと思います。

また、その制作方法を是と信じて曲作りに打ち込んでいました。


“感情のない”音楽


自分が作った曲をお客さんにリクエストしてもらえることに喜びは感じていました。自分の曲を通して自分が認められてる気になっていたんです。

ただそれは、書きなさいと言われて見本通り書いた書き初めがたまたま入賞して褒められるような、喜びと虚無感が同居したような心地でした。

思い入れのない曲を何度も歌うことは、その時の僕にとっては、ただ同じことを繰り返すだけの単純作業、、

そう、"作業"になっていました。


当時のお客さんにも僕は本当に不誠実に接していたのだと申し訳ない気持ちでいっぱいです。。


ただ、僕のこの勘違いは、たくさんのイベントやライブ出演での曲の評価と共にさらに強固なものになっていきました。


加速する勘違い


曲作りは「誰かの曲と競り合わせて」と言いましたが、
競り合わせ方が
「あのミュージシャンだったらこんな歌詞は書かない」とか
「あの人のあの曲にはBメロがあるんだから、自分の曲もAメロの後はBメロが来てないとおかしい」とか、

競り合わせるポイントがいつも"真似"だったのです。

だから型通りに作った曲の隙間を埋めるように無理矢理歌詞をつけ、不自然な曲がたくさんできていきました。


メンバーへの押し付け

その思想が自分に向かうだけならまだしも、
メンバーやメンバーの曲にもそれを求めてしまっていました

「1番と2番のメロディや歌い方が変わったらおかしい、それじゃ歌本になった時に見本になれない」

「そのメロディじゃグループの曲として押し出すにはまだ弱い。あの曲みたいにインパクトをつけなくちゃ」


気づけば僕がグループの曲のジャッジをする役割を勝手に担っていました。


そしてまた路上に出て、作った曲を演奏し、その中で評価もされましたが、その曲の作り方ゆえか「ゆずっぽいね」「スピッツが歌ってそう」そんな感想も聞かれるようになりました。

僕はその評価に焦り、また曲作りに没頭します。
「もっといい曲作らなきゃ」
「あのミュージシャンよりいい曲作らなきゃ」
と。


練習の都合がつかないと苛立ち、
「こんなんじゃ他のグループに勝てない」
「こんなんじゃプロにはなれない」
「こんなんじゃ、、、」


一体何者なんでしょうか、何様なんでしょうか僕は、、、。


メンバー2人は優しく柔軟な人たちだったので僕のわがままに付き合ってくれました。本当に窮屈な思いをさせていたと思います。


その頃大学生だった自分の進路を決める時期が来ていたこともその焦りに拍車をかけていたと思います。

自分はプロのミュージシャンになりたい、結果を残さなきゃ、結果を、と。



訪れる結末

そうして就職活動を始めなければいけない時期に来たとき、


メンバーの1人からこう告げられました。



「俺はプロにならなくてもいい。楽しく音楽ができればいい。」



もう決定的に僕とメンバーの間には埋められない程の温度差が出来上がっていました。


もちろんそう告げたメンバーの1人が実家の家業を継ぐタイムリミットが来ていたこともあります。
それもありますが、その言葉を言わせたのは他でもない僕だったのだと思います。

音楽を楽しむ、という路上に出た当初、当たり前にあった感情を奪ったのは僕でした。


その時に久しぶりにメンバーでゆっくり時間をかけて話をしました。
こんな町の端っこでワーワーやってるだけの名も知られぬアマチュアミュージシャンにも、それなりのドラマはあったのです。

ひとしきり思い出話に花を咲かせて出た答えが、



このグループでプロは目指さない。



ということ。


ただたた一緒に音楽を楽しむことにしたのです。

この時点でグループ活動は終わりを迎えました。


厳密にはそれからもちょこちょこやってはいたのですが、


もやはそのグループというのは、僕らが顔を合わせて自分たちの音楽を懐かしむためだけのただの"プラットフォーム"でしかなかったのです。


毎週来てくれていたお客さんにも説明して、その理解のもと数年不定期に路上に出たところで活動休止となりました。



そして僕は、また一人になった

そして僕はこれまで脇目も振らず打ち込んでいた居場所を全て失いました

僕はまた"からっぽ人間"になったのです。

音楽によって何者でもなかった僕に友人ができ、仲間ができ、たくさんの夢や目標をもらってきたその音楽によって、僕はその全てをまた失ったのです。


音楽が悪いのではないですね。音楽を自分の欲求のままに振りかざしていた僕が悪いのです。自分が周りの人間に勝つための"道具"として音楽を扱っていた僕が全ての引き金を引いたのです。


そして、それと同時に、

これまでの自分の音楽への取り組み方が間違っていた、ということが"グループの活動休止"という結果によって証明されてしまったのです。



様々ないいわけを並べながら、




22歳。僕は一般企業に就職することを決めました。




ま、また記事またぎます。。。次はソロ編!

ちなみにグループでの路上ライブで披露していた曲の一部をご紹介。
『放課後』
https://soundcloud.com/hiro-soda/after-school


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