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公徳心(16)純粋理性批判~福祉

NHKオンデマンドで”100分de名著”をよく観ます。今回はカントの “純粋理性批判”でとても面白かった。特に最終話がとても興味深かったです。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07ZQDD3XP/)

その番組の中では「道徳」について「福祉」を例に解説していました。

手すりに掴まる高齢者を見て「かわいそうだから席を譲る」は欲に縛られているからカント的には道徳的ではありません。「先生に教わったから席を譲る」では権威に縛られて道徳的ではありません。ではどのようにすれば善いのでしょうか?番組では福祉を例に以下のように説明されていました。

福祉や支援の現場で考えてみると、カントの言うこともわからないでもないです。というのは、ある人が非常に気の毒な状況にあって、でも可愛そうという気持ちだけでやるのと、その人が本当に周りに信頼関係を得て、さらには経済的に自立していくってときに、どうするのがこの人のためになるのかってことを考えてやるのは違いますよね。カントは厳しいんですけど、やっぱり気持ちに動かさられやるだけでは足りないんですよね。気持ちを持つことが悪いというわけではないんです。その人の幸せにつながることは何か?実践理性で考えてやるときに道徳的価値が本当にある、そういう事になってくるんです。(西研先生)

本当にそうだと思います。利用者様が本当に幸せになるよう本気に考えないと、それを実現する支援にはなりません。気持ちに動かされるだけでは、そこまで至りません。利用者様の未来に相応しい支援を自分の頭で考えることは支援員に絶対に欠かせない資質です。そしてそれが道徳的価値でしょう。

過去に、障害者を「かわいそう」と思う支援者がいました。人の感情は止められませんが、この感情は失礼です。なぜなら、その憐れみには『健常者が「正常」で障害は「欠損」』と見なす傲慢ごうまんさが含まれているからです。

多くの障害者は現実を受け容れています。憐れみは、現実を受け容れる人の自尊心を傷つけるだけで、何の助けにもならない慢心に過ぎません。

福祉的には、所謂いわゆる「先回り支援」にならないように、相手の意向を聞くことが最も確実です。電車の例でいうと、手すりに掴まる高齢者は実は筋トレ中かもしれないし、鞄の中は縫いぐるみが詰まっていて軽量かもしれません。よかれと思って席を譲るのは「先回り支援」になってしまいます。

「相手が本当に必要としていることは何か」考えることが大切です。それを自分の頭で考えて行動する、この行動が道徳的と言えるでしょう。

保証された正解などありませんので、恐れる気持ちはわかります。考えが外れて、感謝されなかったり、仇で返されることもありえます。

でも、恐れに囚われて行動しないのは人間として不自由です。

人を恐れたりプライドが邪魔したりして人を避けると、どんどん社会は息苦しくなる。だから、それでも、他者の希望に適うよう行動しようと自分の頭で考えることを諦めてはいけないと思うのです。

番組内で、伊集院光さんは「カントは人間を信じている」と言いました。人間の何を信じているかというと「公徳心」です。それは僕も信じています。自由に公徳心を発揮することが、人の尊厳を担保する社会を築くでしょう。


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