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母親を演じる人

先日、震度6の地震があったとき、直後に母親にLINEして安否を気遣った。
実家まで徒歩5分。喜寿を迎える母。きっと色々大変だろうと思ったが、実際、実家に赴いたのは、その4日後。薄情だと自分でも思う。

LINEしたけど、本当に心配だったのか自分でも良くわからない。かと言って「地震が多い地域だから、ある程度慣れているだろう」と安心していたわけでもない。心配していた。だけど、それ以上に会いたくなかった。

ストレスが溜まっている。

自分が中学生の頃、父親は仕事でほとんど家に居なかった。だから子育ては専ら母親の役目だったようだ。家族で集まるたびに「手を焼いた」「竹刀を振り回して躾けた」と、俺への子育てを武勇伝のように誇らしげに言う。

これが気に障る。(愚痴モード開始)

たしかに過酷だったかもしれない。身寄りのない土地への移住。共働き。強い母親で居る理由があったのだろう。育ててくれた感謝の念は勿論ある。

でもさ、いつまで言ってんだよ。
もう俺、死んだ親父より年取ってるんだぜ?

親子の関係は永遠だ。いつまでたっても上下関係は逆転しない。親が老衰や障害で弱ったら立場が逆転する事があるかもしれない。でも、未だに母は元気で、変わらず「強い母親」で在り続けている。それがもう疲れるのだ。

普通に話せば良いのに、謎に乱暴な言葉で荒れる。いつも謎に力んでいる。突然連絡が来て”今すぐ来い”と指図。頼んでいない食糧の押し付けも謎。

夫婦の馴れ初めとか昔の話を聞こうものなら怒りはじめる。子供が家族の歴史に興味を持ってはいけないのか?何を守っているのだ?何を隠している?俺は何者なんだ?俺はもしや拾われた孤児だったのか?
(愚痴モード終了)

わかってる。彼女が守っているのは「親の尊厳」。本人は自覚していない。それを鎧のように纏って、俺に向き合う。いつも力んで、鎧で個性を隠す。「強い母親」を演じる人の個性は見えない。

俺が、他者への信頼や未来への希望を抱けるのは、乳児期に授かった母の愛のおかげ(だと思う)。となると俺の内なる子供は素顔の母を覚えている。彼は、母と人対人で付き合えないことに嫌気が差していて、武装した母親役と関わるのがもうたくさんなんだ。シランケド。

彼女も今年で喜寿。もういい年だ。でも年の割には身体も精神も若い。親としてきちんとしないと、という気負いが元気の源かもしれない。「いい加減、鎧を脱ぎな」と伝えたい気持ちがあるけれど、母のためには言わずにおいて、最後まで演じきるのが彼女の幸せなのかもしれない。

母は生きている。
だけど、ありのままの個性を無防備に子供に晒せるお母さんはもう居ない。

家父長制の母子関係は、こうなっちゃうんだ。

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