二十歳の頃2024(4)祖父にきく

話を聞いたのは母方の祖父。1938年山口県生まれ。戦争中の幼少期は旧満州(中国東北部)で育った。一番長く勤めた会社は菓子メーカーの不二家だという。【聞き手・指宿奏良=2年】

――二十歳の頃、何をしていたか教えてください

高校を卒業して、静岡の製缶会社で働いとったわ。日本で2番目ぐらいに大きい会社。作ったカンカンをギュッと加工して四角にして、それを海外に輸出していた。1年ぐらいでやめてもうたけどな。

――退職して何をしていましたか

知り合いのところで曳屋(建造物を解体せずに垂直に移動させる仕事)という仕事があるって聞いて、面白そうやなって思ったんやけど、そんな荒っぽいところ行ったら勘当するとおふくろに言われてもうて。山口に戻って、酒蔵の仕事を手伝った。

――どんな仕事でしたか

酒を仕込んで、瓶詰めして出荷する仕事やな。そのころ関門トンネルが開通して(1958年)、下関で博覧会(関門トンネル開通市制70周年記念下関大博覧会・1958年3月20日~1958年5月20日)があった。その博覧会に出展したとき、そこのお酒の自販機の管理をしとった。自販機の裏側をたたいたらお酒が出てきたから、知り合いにようけ飲ませたわ。実家に住んどったけど、田舎は刺激がないし、酒屋のところで寝泊まりしとった。2年間お世話になった。このままおっても仕方ないからクルマの免許取ったわ。

――運転免許を取ってからどうしましたか

酒屋で働いてた時、下関にあるタクシー会社の社長が来て、2種の免許は何とかするからウチに来てタクシー乗らんかって言われてな。これは面白そうやと思って。そこでいろんな人と出会ったわ。いい人も悪い人もおった。お客の中に清水建設の人がおって、ウチ来て働かんかって。でも、山の中に入って働かなあかんかもよって言われて、いかんかったわ。タクシー会社に丸2年ぐらいおった。
そのあと、23歳ぐらいで東京に行った。大理石の加工会社に入って、よく儲かったな。1000円で買った大理石の30㌢の立方体を10枚にスライスして、それが1枚1000円で売れる。1000円で買った大理石が1万円で売れるわけや。宮内庁のバスタブで使う大理石をおさめたり、(東京駅の)八重洲口の鉄鋼ビルに納入したり、静岡の小糸製作所に持っていったりしたな。

――不二家にはいつ頃入りましたか

大理石の会社で働いとった時、近所に高校の先輩がおってな、まともに仕事したらと言われてもうてな。不二家も面白いとこやでって言われて入ったけど、半年ぐらい毎日辞めよう辞めようって思った。給料も安くて、大理石の会社で4万5千から5万ぐらいあったけど、不二家では寮代や食事代を取られて、手取りが1万切ってた。工場長の給料と大理石の会社の給料が同じくらいやった。でも辞めるに辞められんのよ。先輩の顔もあったしな。

――一番良かった仕事は何ですか

一番長かったのは不二家。東京オリンピックの年(1963年)から2002年の38年間働いとって、今考えるとよかったのかもしれん。大きい会社なら、最初のころはダメでも長いこと勤めていたらそれなりの見返りがあるってことやな。楽しいとか、給料がいいだけでは長続きせんわ。やめた後は、元同僚のケーキ屋に手伝いに行ったりしてたけど、特に何もしてなかったなぁ。

――高校まではどうでしたか

確か、小学1年生の時に終戦。満州から引き揚げて博多港に着いた。心もすさんで、勉強する気は起きなかったわ。それでも中学に行って、工業高校に行きたかったんやけど、勉強していなかったから普通高校に行った。大学には金銭的に行けなかった。

――地元で働こうと思わなかったのですか

田舎は刺激がないしつまらんし、面白ないからなあ。高校を出たときに市役所で働かんかって知り合いに言われたんやけど、何でつまらん仕事せなあかんねんと思った。でも、後から考えたら失敗やったな。その知り合いの旦那さんが長門市の市長やった。なんでおべんちゃらせなあかんねんってかっこつけたけど、失敗したなって思うわ。

【あとがき】
ある程度の祖父の情報を母親に聞いていたが、それを超えるエピソードが多くあった。戦後の混乱期を乗り越えてきた祖父の話は、現代ではありえないようなものもあり、その時代特有の「緩さ」を実感するとともに、人生経験の深さを知った。さまざまな仕事を経たからこそ得た、貴重な仕事観は、現代でも通ずるようなものだと感じた。